花はまた咲く日を恋う
早駆けと出かける日の朝、わたしは高揚する胸を抑えて、いつも通りを装って家を出ようとパパの側を通りかかったとき、いきなり腕をきつくひねり上げられた。
痛いのはいやだ。やめて。とっさに抵抗すると床に引き倒された。
いきなりこんな目に遭わせられるのははじめてだった。
やめてよ。目で抗議するも、間髪いれずに蹴飛ばされる。腰骨がひりひりと痛む。そうして自力で立ち上がる間もなく、パパに無理やり立たせられる。
「最近おまえが色気づいたのはあれがきたからだろ? で、男をたらしこんだんだ」
唾を吐き散らして喚く男の眼は血走っていた。
「あれは女を生意気にさせる。従順じゃなくさせるんだ。花売りを辞めたいっつったのもそれのせいだな……。で、男がそこに付け込んだんだ」
なにを言っているのかはわかった。
だけど、なぜこうも息巻いているのかがわからなかった。早駆けと出ていくのではないかという可能性に気づいて焦っているのだろうか。だとしても、なぜよりによって今日なの。
いや、こいつの焦りはもっと前からあったのだろう。それが早駆け――パパにとって見知らぬ男――が飛びこんできた日を境に加速させたのだ。
早駆けを帰した翌朝に帰ってきたパパは、あの出来事にはいっさい触れなかった。掘り返すまでもないとわたしも黙っていた。あれきりでもう済んだのだと。だけどパパはそうではなかったようだ。
娘を庇うように飛びこんできた少年の存在についてずっと考えていたのだろう。いや、こいつにおは考えるなんてできない。怒りと不安をひたすらに募らせていたのだろう。
あいつは何者だ。通りがかりの少年が立ちはだかるわけがない。色気づいたわたしが彼といい仲なのではないかと訝れば訝るほど、怒りがこみあげてくる。不安が積もっていく。もしわたしが彼とつながれば……、つながらないとしても、長いあいだ花売りを続けられなくなる日はやってくる。
いずれにしてもパパは稼ぎ手を失って浮浪者となる。今も変わりないのに。
耐えられなかったのだろう。
あの日にわたしが見過ごしたパパの焦燥は小さくなかったのだ。酒に酔った人間は、しばしば想像にさえ恐れをなして逆上する。
このままだと怒りの火が恐ろしい想像を爆発させて、わたしに当たるのが目に見えている。
「従順じゃなかったら、どうなの?」
だけどわたしは強気に言い返す。いつもなら怒りと拳への怯えから口をつぐんでしまっていただろう。だけど今日は違う。この後に早駆けとの約束が控えているのだ。新たな二人の門出を象徴する外出が。
心待ちにしていた日になぜ心をへし折られなければならないのか。怒りと力をぶつけられて、いつものように自分を曲げてしまうわけにはいかない。
たとえこいつの前であっても、いや、こいつの前だからこそ、もうこの顔に媚びた笑顔を張り付かせたくはなかった。
「生意気な口を聞くな!」
何か言うたびにパパがわたしをぶつ。
痛いのはいやだ。
けれど諦めたくはない。
「もしそうだったらどうするの。前も言ったでしょ、いつまでも花売りを続けられないって……。よく考え――」
しゃべっているさなかにぶたれ、舌が血の味を感知する。いまだこいつに説得を試みようとしていた自分がおかしくなって、うふふと笑いを漏らす。大丈夫、あの媚びた笑顔じゃない。心底からの乾いた笑いだ。バカらしい。
「なにがなんでも続けるんだよお前は! 他の仕事がしたいだのなんだの言って俺を遠ざけて、お前はのうのうあの男とよろしくやる気なんだな!」
そう考えたのはあなたが考えを改めないからだ。
もちろんそんなことは口に出さず黙っていた。だけど相手は沈黙を気まずさの表れと受け止めて、ますます機嫌を悪くした。いや、どんな態度を取っていても火に油をそそぐだけだったろう。
「どこからどこまであいつにそっくりだな!」
ふるわれる拳と蹴りは苛烈で、いままでのどんな暴力よりも勢いがあった。強烈な痛みは、これまで手加減されていたのだと気づかせるのに十分だった。いちおうは商品だからと、これは本気でわたしを叩いてはいなかったのだ。だけどもうそんな必要はないとばかりに、全力で殴られ、蹴られ、張り飛ばされる。茣蓙の上を蹴り転がされるたびに無数の擦り傷が生じ、ひりつく痛みが危険を訴える。
痛みが鋭さを増すにつれて、身体のほうはかえって鈍さを増していくようだった。
このまま鈍さの極限に達すれば、死んでしまうのかも。
明日をも知れぬ路地裏に生活していながら、死を明確に予見したのは初めてだった。
これまで死とは、自分でもなにがなんだかわからないうちにそうなってしまっている、漫然としたものだろうと感じていた。だけど暴力を振るわれ痛みに身を裂かれているいま、死はじりじりと我が身にすり寄ってくる、不気味で得体のしれない存在に思われてくる。
だけどまだ距離がある。いますぐ動けばまだ間に合う。
死ぬのは恐い。そう感じるのは自然なことだろう。
けれど、死と恐れは同一ではない。死は原因で恐れは結果。
死んで早駆けに会えずじまいになるのが恐ろしいのだ、わたしは。
恐れを避けるために行動しなければならない。
このまま会えなくなるのはいやだ。
でも、もう身体は鈍くて、重くて、動いているという感覚さえなくなりそうだ。
切れたまぶたが重い。眠るように目を閉じてしまえれば、やり過ごせるかな。
ううん、重い身体を押しのけて動かないと――
*
どれだけぼうっとしていたのだろう。
吹き込む風の冷たさで意識を取り戻す。
あいつの怒声はもう聞こえない。身体も開かれていない。
代わりに複数の足音が間近に聞こえる。室内に複数人がいるようだ。困憊に浸されたまぶたを上げて瞳だけ動かすと、黒いスーツ姿の男たちがなにやら立ち働いているのが見えた。
男たちはわたしが目覚めたのには気づかないで室内を物色している。あとから入ってきた何人かは部屋の中を荒々しく横断して奥の部屋へ立ち入り、すぐに布団やら籠やらを手に引き返して来て外へ出ていく。まるで夜逃げか引越しをしているかのよう。
それにしてもお仕着せのような黒い服でそろえているなんて、わかりやすい恰好をしている。
ここいらを縄張りとする誠道会の一味だろう。無許可で商う花売りの元締めを取り締まりにきたのだ。終わりが来たのだ。こんな終わりだなんて考えてもみなかった。
部屋の隅にそっと視線を這わせる。板塀の下の穴を覆う板敷きの存在に男たちは気づいていない。しかしわたしが目覚めているのにはようやく気づいたようで、一人が外から別の黒服を連れてくる。朦朧とするわたしには見分けがつかないけれど、他の連中が接する口調からすると一味の頭らしい。
「あんたの元締めはもういない。忘れて受け入れろ」
トウドリと呼ばれる男は立ったままそう告げた。説明ではなくて命令だった。それはあいつと違って恐れを喚起させることなく、だけどあいつの拳よりも圧倒的な力でわたしをねじ伏せていた。
わたしはふいにあの笑いを浮かべそうになったけれど、頬の内側を強く噛んで耐えた。精一杯の抵抗。あの笑いを浮かべれば、きっとすべてに屈してしまう。いまはまだ、我慢。
わたしを殴っていたあいつの姿は室内にはなかった。男もわたしに詳しく説明しようとはしない。いまだ状況を把握していない鈍い女だと思っているのだろうか、それとも黙って話を聞く素直な女だと思っているのだろうか。この人にとってはどっちでもいいことだろう。
わたしにとっても、そんなことはどっちでもいい。
いまはただ彼に会いたい。だけどそれはもう叶わない。
それだけわかっていれば十分だった。
部屋の隅、板敷の下に置いた花がわたしの形見になるだろう。
トウドリは部下にいくつかの指示を出したあと、わたしをかかえあげて丁重に運び出していく。
良い思い出などひとつもない家が、遠ざかっていく。
早駆けとの思い出の路地が、遠くへ消えていく。
明日は変わるんだと望んでいたのに、想定外の不意打ちがわたしを根こそぎにしていく。
根こそぎ、か。無許可の花売りどういう道をたどるかはよく知っている。
わたしはこのまま別の場所に植え替えられるのだ。
花売りにふさわしい行く末ではないだろうか、真に花になるというのは。花ではなく鳥や風の可能性もある。だけどわたしはきっと花になるだろうという確信があった。
伐られなければ花はまた咲く。
ならば花よ、この先も枯れずに咲いて。
赤か黄色で彩って、あの人にわたしと知らせて。
好きだよ、ありがとう――
愛しい人の名前がこぼれ落ちる。
どうか、それだけでも拾いあげて。