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きっと変われる

「いやがる子供に手を上げる親は最低だよ」

 そう言いきれる早駆けがまぶしかった。その輝きをずっと持っていてほしいと願う。

「でも、そう言えるってことは早駆けはいいところで育ったんだね」

 早駆けが教育を受けているのを見れば、それだけでよい孤児院だったとわかる。この身との比較をしたくないほどだ。わたしにとって血は(くびき)。血のつながりのある奴に捨てられて、早駆けと同じ孤児院で育っていれば、彼ともっと別の人生を歩めていたに違いない。でも、それだとこんなふうに路地裏で話せていなかったかもしれない。……どちらが良かったのだろう。

 このときのわたしは、思ったことをほとんどそのまま口にしていた。出会ったばかりのスリと花売りの関係じゃとても考えられなかったことだ。素直さも彼がわたしにもたらしてくれた力強さのひとつといえる。

 でもその力強さがときに苦しみを増大させる。

 (かせ)をはずそうと力をかければかけるほどに、よりきつく締め付けられてしまう。わたしを押し込める枷はとても強い。

「不釣り合いな力を持っても苦しいだけだね、早駆け」

 力があっても、相応に発揮できる場所がなければ意味がない。

 路地裏で読み書きができて、それがなんになるというのだ。

 余計に物事を考えてしまうから、自分を憐れんでしまうのだ。

 そんな頭ならば、いっそない方がよいではないか。

 そう同意を呼びかけても、早駆けは応じてくれない。

 彼は力があればあらゆる枷を断ち切っていけると考えているのだ。その点に彼とわたしの相違がある。

 どちらも非力なのは同じだけど、わたしはこれ以上はもう力をつけたくないと考えている。反面、いまでも枷を外してもらいたいと他力に頼っている。わたしは自力での脱出を諦めた囚人だ。十分に尽くしはずの考えを、パパの拳ひとつで突き崩されそうになって怯えたあげく、つい浮かべてしまったいつもの媚びた笑顔によって己の情けなさを突き付けられて、その生き方に倦み果ててしまった。

 一方の早駆けはといえば、もっと別の方法があるのではないかとまだ諦めていないようだ。彼はこの一件ではわたしにとっての〝パパ〟のような存在にいまだ直面していないのだから、そう考えるのも当然だろう。

 それを未熟だと蔑む気はない。子供に手を上げる親は最低だ。そう言いきれるまぶしさを失わないでと願い、期待している。

 そう、わたしは彼に期待をいだいている。わたしの看取の目を盗んで、牢を破ってくれはしないだろうかと。

 早駆けが手の力を少し弱めた。わたしは離したくない一心で強く握り返す。すると早駆けもまた強く握ってくれた。安心したわたしは握る力を弱める。早駆けの力も弱まる。わたしはまた強く握る。

 伝わって、わたしの思い。

 手旗信号のように何度も繰り返す。それだけで通じると考えているわけじゃない。わたしたちには言葉がある。

「わたしが本当に恐いのはパパじゃない」

 もちろん恐いものの中には含まれているけれど。

「本当に恐いのは、媚びるような笑顔を浮かべて恐いのをごまかしてる自分。早駆けが指摘したわたし。パパに怒られてるときね、わたしは『怒られてるのはわたしじゃない』って考えてるの」

「客の相手をするときも?」

 いやになるほど鋭い早駆けを前に、わたしはすぐに返事ができなかった。

「お客さんの相手をしているときだって、『これはわたしじゃない。わたしの身体はただの入れ物』なんて考えてやり過ごしてる。きっとそんなときだろうね、媚びた笑いが浮かぶのは」

 しつこい客に言い寄られて口を寄せたのを見られたとき、わたしは彼が花売りの仕事の意味を理解するのを恐れた。しかし落ち着いたいまとなっては、あの笑顔をとっさに浮かべる入れ物のわたしを見られたことに対して、もっと大きな恐れをいだいていたようにも感じられる。これはパパとの衝突を見られたときにはより顕著だった。

 その根底には、早駆けの前では、どんなときでも入れ物ではないわたしでありたいという思いがある。

「『わたしじゃないわたし』なんて、意味わかんないよね」

「いやなことしてるんなら、誰だってそう考えるよ。俺だって……」

「早駆けも?」

「そりゃ、やりたくないこともやらされるからな。上の命令には逆らえないし、できないなんて言って抵抗もできない。俺がやりたくてやってるんじゃない、仕方ないって思いたくもなるよ」

「でも、そうやってごまかしてると恐くならない?」

「……どんなふうにさ?」

「ごまかしつづけていると、なにが恐かったのかすらわからなくなって、しまいには自分がなんだったのかもわからなくなりそうで……」

 わたしじゃないわたし、なんてしょせんはごまかしだ。本来の自分にまとわせた殻にすぎないけれど、それも含めて一個のわたしを構成しているのだ。それが自分だけの特異な発達だとは思っていない。

 境遇や立場を維持したまま我が身を守るための自衛の殻なんて、誰だってまとっている。だけど殻をまとわないでいい関係や時間を持てているのならば、人は健全でいられる。

 わたしはあまりに長いあいだ殻をまといつづけている。そんな状態では殻と同化してしまうどころか、殻そのものになってしまいそうで恐いのだ。殻になったわたしは空だ。なんでも媚びた笑顔で受け入れようとするだろう。恐れをいだいていた本来のわたしは不感症になっている。それは死んでいるのと同じ。

 環境によって変化していくのが人間だというのならば、それも自然な変化なのだろう。だけど、わたしはそんなふうに変化したくなかった。変化が恐いのではない。望まない形が常態化してしまうのが恐いのだ。

 早駆けも愚連隊で似た経験をして、恐れをいだいているのでは?

 そう聞いてみたけれど、彼はもっと恐いものがある、と遠くを見つめながら言った。語調からは、彼がいだく恐れはわたしのそれとは違うものであるのが嗅ぎ取られた。そうなると自分の事情はさしおいて、早駆けの恐れが何なのかが気になってしまう。いつもの好奇心だ。

「それは孤児院の――」

 可能性を口にして、わたしは慌てて口を閉じる。人の過去は繊細な内容をはらむ。いつものおしゃべりの延長線で水を向けるのは無神経だ。わたしがそうであったように、彼が自ら口にしたくなるまでほじくってはいけない。

 そんななか早駆けはぽつぽつと、育った孤児院が南部市の大火で焼けたことを口にした。その中で一度だけ、早駆けは自分のことを俺と言わず僕と言った。だけど彼はそれ以上を語りたくはなさそうだった。

 早駆けの手が震えている。思い出すだけでも恐れを再発させてしまうのだ。

 彼のことを知りたいという想いは消えていない。それどころかますます強まっている。だけどいまの二人の関係ではここが限界なのだろう。彼が自発的に話せるようになる明日が待ち遠しいけれど、いまはただ、

「恐かったんだね」

 と、うなずいて同意を示す。話したいときにはいつでも聞くよ、とその手を固く握る。

 それでも収まらない震えをまるごと包むように、早駆けを抱きしめる。背中に手を回してそっと撫でる。早駆けは一瞬だけびくりとわなないて、すぐに身を寄せてくれた。真正面から見つめ合わないような絶妙な位置取りで顔を寄せ、胸いっぱいに深呼吸を繰り返している。そんなふうに髪の臭いを嗅がれるのは変な気分だった。香を焚き染められる身分ではないのだから、いい香りなどするわけがない。路地裏のありふれた、煤煙と脂の混じり合った臭いしかしないだろう。

 そこに安堵を覚えられるのならば話は別だが、わたしたちは煤煙にいつもの暗い現実の(うごめ)きを見てしまう。本当の安堵を得たいのならば、手に入れるために動くしかない。

 そうだ、ここから出る次の手を考えないといけない。

 わたしと早駆けは森林公園へ行く約束を取り交わす。

「わたしの本当の名前もその時に教えよう」

「今じゃだめなのか?」

「象徴的な意味を込めたいの」

 路地裏の花売りから野外の花へ。そこが二人の新たな出発点となるのだから。

「わたしは〝パパ〟の持ち物じゃないんだっていう意味を込めることになるんだよ」

「俺も、あんたについてた嘘を謝るよ」

 二人の間にごまかしはもう不要。

 路地裏から連れ出してくれるあなたに、本当のわたしを知ってもらいたい。そして偽りなき想いを伝えたい。

 好きになってくれて、ありがとう。

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