夢魔vs夢魔
登場と同時に、アッシュちゃんはアッシュさんへと姿を変えて、女性の横っ面にハイキックを叩き込んだ。
「シャーロット、まだ生きてたとはな。しぶといやつだ」
蹴り飛ばされた女性に向かって、吐き捨てるように言うアッシュさん。
その厳めしい表情は、怒りによって大きく歪んでいた。
口の端が震えてるし、青筋も立っている。マジ切れって感じだ。
だというのに威圧感が感じられないため、嵐の前の静けさを連想してしまう。
一方、蹴り飛ばされたシャーロットと呼ばれた女は、狭い部屋の中で綺麗に受け身を取ると、さっと立ち上がった。
蹴られたというのにその痕跡一つ残っていないその顔に浮かぶのは、不意打ちに対する怒りではなく喜びだった。
「やっほー、アッシュ久しぶり~。シャーロットじゃなくて、前みたいにロッテって呼んでよ~!」
「二度と愛称で呼ぶか。てめぇ、なんでこんなとこにいる? 答えろ。そして死ね」
「ひっどいなぁ。旧友に向かって。そんなに怒らないでもいいじゃん」
先ほど俺に迫っていたときとは打って変わって、なんというかシャーロットという女のノリは非常に軽い。
アッシュさんは明らかに拒絶しているが、シャーロットの態度はまさに親しい旧友に対するそれだと言ってもいいだろう。
もしかして、前に言ってた元家族みたいなやつって……いや、まさかね。
「ふざけるなよ? 次無駄口叩いたらもう一発叩き込むぞ」
言って、アッシュさんは今までで一番の威圧感を解き放った。
威圧の矛先はアッシュさんの前方にいるシャーロット。
そして俺はアッシュさんの後ろに庇われるようにして座っている。
方向的には真逆で、威圧感を一番感じ辛い位置だ。
だというのに、俺は全身が震えていた。
正直に言おう。怖い。情けないが腰が抜けた。
今までもアッシュさんは俺のことを気遣って抑えてくれていたのだとよく分かる。
これは気を失った方が楽になれるんじゃないか、などという気分にもなる。
いや、逆に強烈過ぎて意識を向ける以外のことはできないか。
風が吹いてるはずもないのに、目の前からの突風にあおられているのかと錯覚するほどの圧力。
威圧感が一番弱い位置でこれなのだ。
それを直接向けられているシャーロットが感じているのは、想像を絶するものに違いない。
にもかかわらず、シャーロットは緩い笑みをこぼした。
まるでそんな圧力、気にするまでもないとでも言うかのように。
「怖いなぁ。なんでそんな怒ってるの? 仲良くしびょっ――」
発言は、宣言通りに動いたアッシュさんによって中断された。
放たれた蹴りは綺麗に弧を描き、シャーロットの脇腹へと突き刺さる。
丸太のような足は途中で角度を変え、吹き飛びそうになるシャーロットをそのまま床へと叩き付けた。
シャーロットの体が半分ほど床に埋まった光景を目のあたりにし、ここが一階で良かったなぁ、などと思うのは現実逃避の一種だろうか。
「ちっ……これでもダメか」
人がくらえば間違いなく致命傷であった一撃を与えて、しかしアッシュさんは不満げに漏らす。
事実、シャーロットはあっさりと立ち上がった。
その姿は、俺の想像を明後日の方向に超えたものになっていたが。
「……は?」
先ほどまでの無駄にエロイ姿はなんだったというのか、今は直視すれば百年の恋も冷める姿をしていた。
だって人じゃないのだ。急にこんな姿を見せられては、むしろ吐き気すら催すだろう。俺が間の抜けた声を出したのも仕方がない。
部分的には人のままだけど、それが余計に気持ち悪さを増していた。
脇腹を除いた左半身。いや、体の左側30%分くらいか。それだけが人の姿を保っている。
だが、それ以外の部分は全て緑色の粘液だ。衝撃を受け止めたからか、脇腹部分は凹んでいたり、右側は平らになっていたりする。
基本的には不定形なのだろう。じゅるじゅると音を立ててあっという間に凹凸が無くなり、人型を取る気もないのか粘液部分は球体に近い状態へとまとまった。
「趣味の悪い姿を取りやがる」
「こんな姿じゃないと、アッシュの愛を受け止められなかったんだもん。それでもぎりぎりだったけど」
どうも衝撃を吸収するために、あんな変な姿になったらしい。
確かにアッシュさんは人型以外にはなれない、なんて言ってはいなかったなぁ。
シャーロットはピンピンしているし、埋まったように見えた床にも傷一つ残ってはいない。単純に粘液状になった分、潰れていただけのようだ。
これってその気になれば、全身粘液になって物理攻撃完封、みたいなことができるわけか。夢魔凄いな。
外見に中身が引っ張られるらしいから、そんなことすれば粘液の気分を味わう羽目になるだろうが。
……そういう意味では、シャーロットって夢魔、今どういう精神状態なんだろうな。特に大きな変化はなさそうだけど。
「……はぁ~」
アッシュさんは大きなため息を吐き出すと、体から靄を出していく。
「――氷像にでもしようかな」
物騒なセリフと共に、靄から出てきたのはアッシュだ。威圧感が減ってちょっとホッとする。
「望、最悪帝都から出て行くことになるかも。そうなったらゴメンね」
一方的に告げ、俺にほとんど聞こえないくらいの声でアッシュは何かを呟きだした。
多分詠唱なんだろう。それに気づいたシャーロットは一瞬で靄を出して元の姿に戻ると、慌てたようにアッシュに声をかける。
「あ、ちょっと魔法はシャレになってないわよ!? ね、アッシュ落ち着きましょ? 大好きだから!」
「そう。残念だけどわたしはあんたが大嫌いなの。アイスバイン!」
アッシュの足元から氷のツタが大量に伸びていく。
扇形に広がるそれは、足の踏み場もないほどの密度を維持したまま、あっという間にシャーロットのいた場所に到達した。
が、直前にシャーロットは軽く跳ぶと鋭く壁を蹴り、その反動でアッシュを飛び越えようとする。
それをアッシュは近くにあった椅子を振り回すことで叩き落そうとするも、シャーロットは靄と共に小鳥に変身して避けきり、また姿を戻して着地した。
状況を眺めていただけの、俺の目の前に。
「あ」
「うーん、ホントに良い匂い……でも今はお預けかな。先にアッシュを説得しないと」
シャーロットは硬直しているだけの俺に顔を寄せ、高い鼻をクンクンと鳴らす。
甘ったるい香りが、ただでさえ動いていなかった俺の思考を更に鈍くした。
「わたしの望に……手を出すなっ!」
「これ以上はさすがにバレちゃうかなー」
アッシュがシャーロットとの距離を詰める。
アッシュの手が届く直前、シャーロットの姿は忽然と消えた。
その原因を、アッシュはあっさりと見破ったらしい。
「そこもわたしだけの場所なのに!!」
冷静さを失った叫びと共に、アッシュもまた姿を消す。
そうして部屋に残されたのは俺一人。
「……とりあえず、片付けるか」
多分アッシュもシャーロットも夢の中で戦闘を継続しているのだろう。
夢ではあるが夢の中に入れない俺にできることは、悲惨な状態になった部屋を可能な限り元通りにするくらいだった。




