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淫魔

 帝都に戻ってから二ヶ月が経ち、俺とアッシュちゃんは平穏な日々を過ごしていた。

 ちょいちょい依頼を受けてはいたものの、特にトラブルに見舞われるようなこともなく、高くともDランク、低ければFランクの依頼を無難にこなしていた。

 アッシュちゃんはほぼ毎晩情報収集をしているが、未だになにも掴めていないらしい。

 相手の隠れる技術というのもあるんだろうけど、帝都の人口の多さが一番の問題なんだろう。人の出入りも結構激しいしね。

 期待していたような事件も起こっていないので、完全に手詰まりかなと思っていた、そんな日の晩のこと。


「じゃ、僕はそろそろ行ってくるね」

「うん。いってらっしゃい」


 アッシュちゃんがいつも通りに情報収集に出かけるのを(一瞬で消えるけど)見送ると、俺は先に寝ようとベッドの上に移動した。

 目をつぶってどれくらい時間が経ったのか、うつらうつらとしているときに、カタンと音が鳴った。

 凄く大きいわけでもないのに、なぜかその音は耳に響いて聞こえた。

 何の音か気になり、眠気も覚めてしまったので体を起こす。

 すると、いつの間にやら部屋には人影があった。月明かりにぼんやりと照らされて、顔は分からないがシルエットは浮かび上がってくる。

 最初はアッシュちゃんかと思った。だが違う。明らかに体が大きい。

 では何らかの理由があって、アッシュの姿になっているだけ? それも違う。確かに女性の姿だが、どことは言わないが特定の箇所がアッシュより大きい。

 顔をいたずらで変えたことはあったが、体形を変えたことは今までになかった。

 アッシュちゃんでも、アッシュでも、勿論アッシュさんでもない。


「……誰だ?」


 来客の予定なんてなかったはずだし、酔っ払いが部屋でも間違えたんだろうか。


「ああ~、良い匂い。たまんない。ホント最っ高だわ……」


 ああ……こりゃ酔っ払いだな。声が無駄にエロイ感じだけど、酔っ払いはまともに相手しちゃいけない。

 あいつらはリバースという最終兵器があるからな。

 顔見るよりも先に追い出して、正しい自分の部屋にお帰り願おう。顔を見てもし美人だったら俺が動けなくなるし。


「えーと、部屋を間違えてますよ。ここ、俺の部屋なんで」


 出て行ってくれ、という意味を言外に込めて言い放つ。


「合ってるわよ。あなたに逢いに来たんだもの」


 だが、帰って来た言葉は俺の予想外のものだった。


「え? ……すいません、どこかで会ったことってありましたっけ?」

「いいえ。あたしとあなたは初対面。でも、あたしはあなたの匂いをよく知ってるの。街中でこんなに良い匂いを放ちながら歩くなんて……ホント悪い子なんだから。我慢するのも大変だったのよ?」


 ――ハッ!?

 いかんいかん、意味不明なこと言われてちょっと思考が飛んでた。

 え、何?

 つまりこの人は侵入者で匂いフェチな変態ってこと?

 てか俺そんな変な臭いしてないよな!?

 とりあえず自分の腕を鼻に当てて、すんすんと臭いの確認を行う。

 うん、分からん。

 ちゃんと毎日濡れタオルで体を拭いてるから、そんな酷い臭いはしないと思うんだけど……。


「くすっ。あなたの匂いは、あたしの同族である淫魔にしか分からないわよ。ああ、アッシュの近くにいるあなたには、夢魔って言った方が通りがいいかしら?」


 一瞬、何を言われているのか分からなかった。

 空回りする思考を必死で落ち着けて、ゆっくりと深呼吸。

 すると、やけに甘ったるい香りが感じられる。

 見れば、侵入者である女性が大きく一歩分、俺に近づいてきていた。

 それは同時に、女性の姿が俺から見えるようになったことを示していた。

 目の前にあるのは、淫靡という表現が似つかわしい姿。

 美人だとか可愛いとか不細工だとか、そういう範疇ではない。ただただ、エロイ。

 強いて言うなら美人が一番近いのだとは思う。実際、結構緊張してしまっている。

 だが、やはりその人はエロかった。

 顔や体のパーツ単位で見れば、美人または可愛いという表現も使える。服は単体でも露出が多く、無駄に色気が感じられるが、それは一旦置いておく。

 だというのに、全部が一体になり、女性が醸し出す雰囲気も一緒になった途端、一気に印象が変わってくる。

 そりゃこんな人が性的に襲ってきたなら、淫魔と呼ばれるわ……。

 てかこの人、アッシュちゃんのこと知ってる?

 ああいや、知っていてもおかしくはないのか。魔王なんだし。

 ええと、今の優先順位は一体なんだ。どうするのが適切だ?

 あ、ちょっと今近づくの勘弁して下さい。

 いやホントマジで、余裕ないんですって!


「あたしね、アッシュのために結構頑張ってるの。で、一段落ついたから、ご褒美が欲しいなーって思うんだけど……」


 ご、ご褒美? お金をせびりに来たってこと? 多少余裕はあるけど、そんな凄い贅沢できるほどはないんで、ちょっと勘弁して貰えると嬉しいなっていうか。


「あなたのこと、食べさせてくれない? 一緒に気持ちよくなろう?」


 あ、ご褒美ってそっち系? さすが淫魔……じゃない! いやいやいや、そっちのがまずいから!

 てか初めて会ったばかりの人とそういうことやっちゃダメだろ!!

 ……あ、娼館に行こうとした俺が言えることじゃねぇ……。

 って違う! 今そんな余裕ない! そりゃお姉さんは美人だし相手して貰えたら嬉しいなって気持ちが皆無とは正直言えないけど、ホントダメだって!

 ちょ、ホントに待って! ズボンに手をかけるな! ちょっとぞくぞくしちゃうからやめて!


「さっきから口をパクパクさせるだけで、何も話してないけど、緊張してる? 大丈夫、初めてでも優しくしてあげるから」


 おう、ホントだ俺喋ってない。

 ってだから違う!

 そんなのどうでもよくて、とりあえずこの場をなんとかしないと。

 じりじりと距離を詰められたため、もう俺がちょっと手を伸ばせばすぐに触れてしまうくらいに近い。

 木剣の位置は近いけど遠い。ベッドから下りて一歩分動くことができれば届くだろうが、この状況でベッドから下りることは難しいだろう。

 では素手で立ち向かえるかと言われれば、まず無理。素手での戦い方なんて全く知らない。

 というか本音を言えば、陰族とはいえ人の、それも美人な女性の姿をした相手に攻撃を仕掛けられる気がしない。

 相手がまだ友好的……だよな? 一応。うん、そう思いたい。友好的に接してくれているのに、急に暴力ってのも変だし。

 ……あ、しまった。さっき喋ってないって分かったじゃん。まだ俺の意思を伝えてないよな? うん、会話大事。

 まずは嫌だという意思を伝えて、この状況をなんとかしないと。話さえ通じればきっと大丈夫だ。


「や、やめてくれ!」

「なぁに? 優しいのは嫌? じゃあちょっと厳しめにする?」


 その二択なら優しい方がいいかなーとか一瞬思っちゃったけど、そこじゃねぇ!


「そ、そういうことをそもそもする気がない。離れてくれ」


 若干声が震えているのが我ながら情けない。


「ああ。そういうこと。アッシュに操でも立ててる感じかな~? ん~、でもゴメンね。あたしが我慢できないから、きゃっか♪」


 大丈夫じゃないー!?

 女性の体が更に俺に近づいてくる。

 せめてもの抵抗にと突き出した手はあっさり掴まれた。

 雰囲気作りのためか、焦らすように距離が無くなっていき、唇が俺に届く寸前。


「ぶっ殺す!!!!」


 お怒りの魔王様が帰還した。

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