地味にピンチ
ゆっくりと陽が落ちて暗くなっていく中、ティラノサウルスが唸り声をあげながらアッシュさんに突撃した。
俺の知識にあるティラノサウルスと比較すれば大分小さいが、それでもアッシュさんの体よりは大きい。
体重もかなりの差があるはずだ。普通にぶつかればそれだけで十分な威力になるだろう。
だというのに、アッシュさんは口角を上げながら、それを避けようともせず真正面から受け止めた。
干し肉を口の中に放り込んでから両手を前に突き出し、ティラノサウルスの鼻と下あごを抑える。
踏ん張りが効かないのか、砂浜に線を残してアッシュさんが押された。
一瞬このまま海の中まで行くんじゃないかと錯覚するほどの勢い。
だが、それは徐々に弱まっていき、最終的には10mほど後退したところで動きを止めた。
ティラノサウルスはアッシュさんの手を噛もうとするが、上手くはいかない。
確かに動物だな。
鼻や下あごにあるものが噛めるわけがないのに、しつこく噛もうとしている。
人間だったら、さっさと手で払おうとするだろう。
しかし、ティラノサウルスの頭は大きく、手はかなり短い。少なくとも、手を頭の前に出すことは構造上できないようだった。
たった二箇所を抑えるだけで、アッシュさんは噛み付かれることも、引っかかれることもない状況になっていた。
「オラッ!」
無駄に足掻こうとしているティラノサウルスの腹部に蹴りが突き刺さった。
一度でなく、二度、三度と繰り返し蹴り続ける。
竜頭苔を眠らせて回収って、もしかして眠らせる(物理)なのか……。
いや、回収できるなら手段はなんでもいいんだけどさ。
ただ見た感じ、あんまり効いてなさそうなんだよなぁ。
別にアッシュさんが手を抜いているとか、そういうわけではなさそうだ。
蹴りの速度はかなり速いし、当たったときに痛そうな鈍い音もしている。
だというのに、ティラノサウルスは蹴られていても、構わずにアッシュさんを噛もうとしている。やっぱ体重差がデカいんだろうか。
「んー、ちょっと舐めてたな。望悪い、これ殴って気絶させるの無理だわ」
あ、やっぱ効いてないんだ。
「魔法で眠らせるとか、気絶させるのじゃダメなの?」
「竜頭苔って魔法の影響を受けやすくて、近くで魔法使うとすぐに変質するんだよ。だから使えないんだよな」
え?
いやいやいや、そんなの初耳なんだけど……。
「マジで?」
「マジで」
それは先に言っておいて欲しかった……俺にできることは別にないんだけどさ。
ていうかこの状況、やばくね?
現状、魔法なしの物理攻撃ってアッシュさんの肉弾攻撃くらいしかないよな?
アッシュさんがダメージを与えられてないのに、俺が何かやれるわけがない。
仮に木剣を振り回したとこでって――そうか!
「アッシュさん、木剣使ったらなんとかならない!?」
「ふむ。正直分からんがやってみるか。ちょっと待ってくれ」
言って、アッシュさんはティラノサウルスを抑えていた手を無造作に外した。
はい?
自由になったティラノサウルスは、当たり前のように顔を更に突き出す。
このまま口が閉じられれば、アッシュさんの頭は胴体と別れることになる。
なんでそんなことを!?
俺の疑問が音になるよりも早く。
ティラノサウルスは勢いよく、その口を閉じた。
背筋に悪寒が走り、反射的に目を閉じて顔を逸らす。
ガツン、と歯と歯が強くぶつかる音がした。
……ガツン?
噛まれたなら、グチャッとかクチャッとかバキッとか、そういう音が鳴りそうなもんだが……。
恐る恐る目を開けて状況を確認する。
するとそこには、何故かアッシュちゃんがティラノサウルスの頭の上に乗っている光景があった。
何となく、デパートの屋上で動物の乗り物に乗ってはしゃぐ子どもを連想する。
そんなに微笑ましい光景じゃないんだろうけど、絵面がちょっと似てるんだよな。
ティラノサウルスは頭の上にアッシュちゃんが乗っているのが嫌なのか、頭を大きく振っている。
勿論その程度で落とされるアッシュちゃんではなく、ロデオにでも乗っているかのようにバランスを完璧に取っていた。
「お、おおおっ、うわっと。そのくらいじゃ落ちないよー。あはははは」
ていうか楽しそうだ。
これは……あれかな。
アッシュさんとアッシュちゃんの身長差がかなりあるのを利用して、姿を変えて噛み付きを回避。
そのままアッシュちゃんの素早さでティラノサウルスの頭の上に乗った、といったところだろうか。
うん、まぁ別にやるのはいいんだけど、出来れば一言欲しかった。
心臓に悪すぎるよ。今でもまだドクンドクンいってるし。
「望ー」
「なに?」
「両手空いたから木剣貰おうかと思ったんだけど、このまま竜頭苔が採取できそうだから採取しちゃうね」
……あ!
そうだよ。
竜頭苔はドラゴンの頭に生えるもんなんだから、あのポジション取ったなら別に眠らせたりしなくとも採取できるじゃん。
「おう、分かった」
アッシュちゃんは小さいナイフと小袋を取り出すと、ティラノサウルスの頭で苔を削るようにナイフを動かす。ロデオしながらなのに器用だなぁ。
木剣を渡す必要もなくなったか。
竜頭苔は手に入れられそうだし、これで万事解決、かな。
安心してホッと息を吐き出す。
すると、暴れていたティラノサウルスと目が合った。
……ん? どうして暴れるのを止めたのかな?
「望、逃げ――」
アッシュちゃんが言い終わるより早く、ティラノサウルスが足を動かした。
俺の方へと。
二歩目を動かされるより早く背を向けて、俺も全速力で逃げだす。
多分今まで生きてた中で最速の判断だ。
後ろからティラノサウルスが砂を踏む音が追いかけてくる。
やばいやばいやばい!
「ちょ、おま、くんな!」
一瞬でも止まってくれることを期待して声を出すが、ティラノサウルスは止まらない。
くっそー! やっぱダメか!
俺はラインのお陰で全ての言語を喋れる。だが、ティラノサウルスには言語がないのだ。
多分威嚇するための鳴き声とかはあるんだろうけど、それはあくまで鳴き声。言語ではない。
つまり現状、ラインは役立たずだった。
「おー……望、そのまま頑張って逃げてー。今の体勢、かなり採集しやすいんだ」
「え、ちょ、アッシュちゃん!?」
何さらっと鬼畜発言してるの!?
「大丈夫大丈夫、そのペースなら追いつかれないから。ホントにまずそうなら助けるしね」
いやあの、砂場って結構走り辛いんだけど!
チートで疲れないからこのペースで走り続けるのは可能だけど、正直途中でこけない自信がない。
当たり前だがこけたらその時点でアウトだ。
かといって、森に逃げるのもまずそうだ。
ここの森は遠目で見た感じ、所々に木の根が突き出しているのだ。
障害物が多い分、今よりペースが落ちるだろうし、こける可能性も高い。
いつもの森は木の根とかがほとんど地面に埋まってて、森なのに基本動きやすいんだよなぁ。
生えている木の種類による差なんだろうけど、そういうわけで森はパスだ。
じゃあ海はと言えば、俺は泳ぐのがそれほど速くない。というかぶっちゃけ遅い。
ティラノサウルスが泳げるかは知らないけど、俺が泳ぎ出す時点でもティラノサウルスは普通に足がつくだろうから、多分追いつかれてしまう。
他の選択肢は……ない。
「頑張れ頑張れの・ぞ・む。逃げ切れ逃げ切れの・ぞ・む」
くっそ! 後ろから聞こえる声がアッシュの声になってやがる!
内容は応援なのに煽られてる感じが半端ねぇ!
「逃げ切ったら、後でキスしてあ・げ・る。あ、勿論この格好でだよ? いつもお預けばっかじゃ可哀想だしね」
……。
…………。
逃げ切ればいいんだろうがクソがあああああああああ!
元々全速力だったつもりだが、心なしか速度が上がった気がした。




