2-13 イリアと黒猫 それぞれの葛藤
《イリア視点》
「ラークさん!」
私が競技場から出た時そこには出入り口を取り囲むように兵士達が並んでおりその一角ではラークさんが腕を締め上げられた状態で地面に押しつけられていた。
「う…イリア……」
ラークさんが苦しそうな声をあげ、そしてその言葉を遮るように部隊の隊長と思われる兵士が口を開いた。
「あなたがイリア姫ですか?」
にやにやと笑うその隊長はなぜか妙に落ち着いていた。
既に大勢の人々が逃げ出してきたはずなのだからこの建物内に魔獣が現れた事は知っているはずだ。
私はその姿に違和感を覚えつつも質問に頷く。
「それは結構。私はダラウライ第三討伐隊隊長のモンテ・ランと言います。あなたを討伐しに参りました」
嫌らしく笑うモンテというその小男。
およそ兵士とは思えないほど腹が垂れたその人物はしかしそのまとう鎧の派手さからおそらくどこかの貴族であろう事が見て取れた。
私はそこでふと気づき質問を口にする。
「……もしかしてあの魔獣はあなたたちが?」
「ん?そうですよ」
あっさりと認めた事に驚愕を隠しきれなかった私はそのモンテという男に声を上げる。
「街に魔獣を入れるなど何を考えているのですか!!」
私の詰問にしかしその男は相変わらずにやにやと笑い答えてきた。
「あんなものの何を恐れているのですか?」
その返答に私は唖然とする。
たった今私は殺されるところだったのだ。
あれは間違いなく脅威であり街の中にはいてはいけないものだ。
「参加者や観客に被害が出たらどうするつもりなのですか!?」
私の言葉にしかしモンテは一瞬きょとんとした表情をしたかと思うと再び笑い出した。
「たかだか一般人に被害が出たからなんだというのですか?別にどうでもいい事でしょう?」
「どうでも!?国民あっての国でしょう!!あなたはそれでも国に仕える兵士ですかッ!!?」
「そうですが何か?」
モンテは心底どうでもいいという顔でさらりとそう口にした。
「あなたは何か勘違いされているようですが国があっての国民ですよ。国の平穏の為に死ねるなら本望でしょう」
やれやれと肩をすくめるモンテ。
続けてモンテは再び驚愕する私を捕縛するために兵士達に命令を出した。
じりじりと近寄ってくる兵士達。
「ちなみに暴れるとお友達が大変な事になりますよ」
私が抵抗しようとした事を見て取ったのかラークさんののど元に剣が突きつけられてしまう。
モンテを睨み付けるが私にできる抵抗はそこまでだった。
すぐに兵士達に押さえつけられすぐに両手を後ろ手に縛られてしまう。
「討伐の命令でしたがこれなら捕獲でも問題なさそうですね。そろそろ黒猫が出てくるはずです。全隊構えッ!」
モンテが満足そうな顔で笑い命令を出すと兵士達がそれぞれの武器を競技場に向けて構えた。
そこから僅かな時間の後、皆が見つめる中競技場の奥から黒猫が姿を現した。
「み、ミツキ様……」
私は黒猫の姿を見て思わず呟いてしまった。
そこに現れたのはいつもと変わらずトコトコと歩いてくる黒猫の姿。
私やラークさんの姿も視界に入っているはずなのにその表情はぴくりとも動かなかった。
そこで私の首筋にも剣が突きつけられる。
「あなたは言葉が分かりますか?」
モンテが黒猫に向かって問う。
人を見下した本当に嫌な態度だ。
だがその問いに黒猫は答えず代わりにゆっくりと周囲を見回し始める。
「まぁどうでもいいか。なぜグウラ様や皇帝陛下がこんな猫一匹を気にかけているのかはわかりませんがここであなたたちの逃走も終わりです。残念でしたね」
何がおかしいのか声を上げて笑いだすモンテ。
そこで黒猫が初めて視線をモンテに合わせ、そして口を開いた。
「あの魔獣はこの後どうする気なの?」
その声はやはり普段となんら変わるところはなかったが、モンテは自分の質問が無視されたとでも感じたのかむっとした顔をした。
「もちろん回収していきますよ。ほら見てみなさい、ちょうど終わったところです」
その言葉と同時に競技場の中から車輪のついた頑丈そうな檻に入れられ黒いオオカミが運ばれてきた。
オオカミは私たちの姿を見て暴れだしたがその迫力に反してその鉄格子が壊れる様子はない。
「たかだかこの程度の魔獣の何が怖いのでしょうね」
がらがらと運ばれてくるオオカミを見ながらモンテは笑う。
こんな魔獣を捕獲できるのだからこの部隊は確かに相応の実力者が揃っているのだろう。
だが言動や考え方のどれをとってもこのモンテという男が隊長にふさわしいとは全く思えなかった。
そんな中兵士の一人がモンテに駆け寄り声をかけた。
「冒険者が一人瀕死の重傷です。どうされますか」
同時に二人の兵士によって競技場の中から木と布で作られた簡易の担架が運ばれてきた。
そこには人が寝かされている。
「フランさん!!」
体のあちらこちらが噛み千切られ血まみれのその姿に私は思わず目を見開いた。
それは本当に生きているのか疑問に思うほどにひどい有様だった。
だがモンテは汚れた物でも見るような視線でフランを一瞥した後興味なさそうに吐き捨てる。
「冒険者なんて捨てておけばいい。どうせ役にたたない連中です」
その言葉に私は再び目を見開いた。
涙が零れ思わず叫ぶ。
「フランさんは命を賭けて私たちを守ってくれた!なのに役に立たないなんてそんな事は絶対にないッ!!」
だがモンテは私を一瞥しただけで再び視線を黒猫に戻してしまう。
既に私の事など眼中にないようで黒猫に対してまた一方的に言葉を投げつけ始めた。
(くやしいくやしいくやしいッ!!)
それは皇帝と対峙した時にも感じた途方もない無力感。
拘束され何もできない私はもはやこの先の結果に影響を及ぼす事のないただの脇役でしかないのだと思い知らされる。
ぼろぼろと涙が流れる。
(あの時と同じだ!私は何一つ変える事が出来ない!!)
口だけは復讐を誓い、だが実際にはその力もなく未来を選択する事のできないただの脇役。
歯を噛みしめ涙で霞む私の目にふと黒猫の姿が映った。
こんな無様な私に比べてあの黒猫はどうだ。
全てを理解し全て思い通りに動かして、自信満々で好き勝手に生きているあの黒猫は今も周りで起きている事など気にもしていないじゃないか!
そしてあの時と同じようにどのような力にも屈せず思い通りに結果を変えるのだろう!
私もあの黒猫のように全てを変える事ができる強さが欲しい!!
それは私が初めて自覚した黒猫に対する羨望だった。
だが、
(……あれ…?なにかおかしくないか…?)
ふと沸いた疑問。
全てを理解し思い通りに動かしている、そのはずだ。
現にそうでなければ今のように落ち着いてなどいられないだろう。
なら今のこの状況はなんだというのだ。
いつもの様に魔術を使えばこの程度の兵士たちを倒す事など造作もないはずだ。
なのになぜ黒猫は動かないのか。
私は静かに佇む黒猫を茫然と見つめる。
その姿は相変わらず何を考えているか分からないいつも通りの黒猫だった。
「ミツキ様……?」
黒猫なら瀕死の重傷だって治せる気がする。
なのにフランさんを助けないのはなぜだ?
早くしなければ間に合わなくなってしまう。
なんで…なんで黒猫は動かないのか。
早く敵を倒してフランさんを助けて欲しい。
黒猫はただ佇み前を見ていた。
いつもの様に、平凡な日常のひとかどを切り取ったかのように平然と座るその黒猫。
「ミツキ様…なんで……?」
私の小さな呟きが聞こえたのか黒猫がこちらを向いた。
本当にいつもと変わらないその姿。
私は思ってしまった。
……もしかしてこの状況は黒猫が望んだ事なのか?
私は疑心暗鬼に陥る。
魔獣が現れ私たちが掴まりフランさんが死にそうなのは全て黒猫のせいなのか?
だとすればフランさんはどうなる!?
だってついさっき普通に話をして夕食を奢れなんて失礼な事を言って、そんなフランさんは黒猫にとって死んでしまう事がわかっていた相手なのか!?
そんな……もしそれが本当なら、あなたは一体なんなのだ!!?
私は元々感じていた黒猫に対する恐れが膨らんでいくのを感じていた。
もしも死ぬことがわかっていたならば、死を司る事が出来るならばすでにそれは人の理で計れるものではない。
それを人は死神という!
恐れと疑いが支配した私の目はそれでも黒猫を見つめ続ける。
そして黒猫もそんな私を見返している。
私の恐れと疑いは黒猫に伝わっているだろうか。
いや伝わっているに違いない。
私の顔は恐怖に歪みそして疑惑の目で黒猫を見ているのだから。
だがその時ふと、私は黒猫の姿からまた別のものを感じ取る。
飄々として何を考えているのかわからない普段と変わらぬその姿。
今は死神とすら思い怯え恐怖の対象となりつつあるその姿。
なのにその瞳は、
「なんであなたが……あなたまで悲しんでいるんですか!?」
黒猫の瞳が湛えていたのは悲しみだった。
なぜあなたが悲しむのか!
この状況はあなたが望み作り出したものだろう!
フランさんが死ぬのを傍観するのならそんな目で見るな!
もしも、もしもあなたが本当に悲しいのならばそんな目をしないでフランさんを助ければいいじゃないか!!
まるでその気持ちが伝わったかのように、初めて黒猫が表情を変えた。
苦しげにゆがみそしてうつむく黒猫。
私はそれを見てさらに混乱する。
「なんで……」
変える力があるのに!
全てを跳ね返す力があるのに!
なんでそんなに悲しい思いをしてまで一体何を我慢しているというのか!!
黒猫は答えない。
うつむく事で私の視線から逃れ一体何を考えているのか。
私はもはや自分の中に渦巻く感情がなんなのかわからなかった。
悔しさ、悲しさ、怒り、困惑……
なすすべもなく黒猫を見つめ続けた。
しばしの静寂の後、黒猫がゆっくりとその顔を上げた。
平静を装いつつも瞳にうつる悲しみは未だ隠しきれてはおらずその姿は今にも泣きだしそうにすら見える。
私はわからない。
この黒猫の事が理解できない。
一体私はどうすればいいのか。
ふと頭をよぎるのは日々の姿。
何を考えているのかわからず私に無茶な事もさせて、最後には苦笑いをしながらどじっ子と罵るその黒猫の姿。
あれは、今までの日々は全てまやかしだったのか……。
私は黒猫に懇願する。
「お願いします…ミツキ様……フランさんを…助けて、ください……」
それはたぶん私の最後の希望。
黒猫を信じたいという想い。
果たしてその言葉が届いたのかは定かではない。
だが一瞬の空白の後私と黒猫の間に一陣の風が吹いた。
視線の先ではいつの間にか黒猫が再びうつむいていた。
そしてその黒猫が言葉を発する。
「……わかった」
その直後その場にいた全ての生き物の心はたった一匹の黒猫が放つ恐怖により支配された。