第四話
闇夜の集落を、シャルトは駆ける。目指すは、集落の長老であるベルベットが暮らすテントだ。
彼女がベルベットのテントに辿り着いた時、ベルベットは丁度テントの中に入ろうとしているところだった。ベルベットが真夜中に出歩くのを珍しいなと思ったが、今はそこを言及している場合ではない。
「長老様!」
周りに迷惑にならないように音量を落とした声ではあったが、ベルベットにはちゃんと届いていた。
「シャルト? どうしたのですか、そんなに慌てて……まさか?」
最初は不思議そうに首を傾げていたベルベットだったが、何か思い当たるフシがあったのかその表情は真剣なものへと変わる。
そして、次のシャルトの言葉を聞いた瞬間、ベルベットの表情は真剣なのを通り越して険しい物へと変わった。
「奴らが…奴らが来る!」
「やはり……。シャルト、頃合いは分かりますか?」
「見た光景だと、日は昇ってたはずだよ」
ベルベットは、それを聞いて数秒思案する。
「……分かりました。主だった者達に招集をかけましょう。シャルト、皆を起こすのを手伝って下さい」
「分かった!」
シャルトとベルベットは、それぞれ別方向に向かった。
数分後、ベルベットのテントの中にはアドニスとブリーズの他、それぞれに種族が違う数人の亜人達が集まっていた。無論、シャルトも含まれている。
「もう予想は付いていると思いますが……この度集まってもらったのは他でもありません。亜人狩りの部隊が迫っているためです」
開口一番、ベルベットが口にした言葉を聞いて、亜人達がざわつく。
「まさか、ここが見つかるなんて……」
「ここ数年間は見つからなかったのに……」
「クソッ、なんでバレたんだ……」
そんな彼らを、アドニスが静かな声で一喝した。
「落ち着け。騒いだ所でどうにもならん」
「アドニスの言う通りです。早い所対策を講じなければなりません」
それにベルベットも同調したことで、亜人達は落ち着きを取り戻す。
「夜明けとともに偵察を出します。貴方方は各々の種族をまとめあげ、迅速に避難するための準備を整えて下さい。アドニス、ブリーズ、貴方達には……」
ベルベットが視線を向けた所で、ブリーズが続く言葉を先回りする。
「わぁーってるよ。連中に軽く仕掛けて陽動しろ、ってんだろ?」
「ええ。話が早くて助かります」
それで話はまとまったようで、ベルベットは一度咳払いすると一同を見回す。
「皆さん、数年ぶりの移動ということになりますが、慌てず焦らず、それでいて迅速な行動を心がけて下さい。この集落の皆を守り切るのです」
真剣な面持ちで頷く、それぞれの種族の代表者達。
「では皆さん、行動に移って下さい。ことは一刻を争います」
ベルベットのその言葉を受けて、我先にとテントから出て行った。それからすぐに、テントの外が騒がしくなり始める。
不安そうな表情でその様子をうかがっているシャルトの肩に手を置き、ベルベットは真剣な面持ちで告げる。
「シャルト、貴方はまだ手伝いに参加できない子供達をお願いします。あの子達の事を、守ってあげて下さい」
「……うん!」
シャルトはそう言われて、一瞬だが逡巡する様子を見せた後、決意に満ちた表情で頷き、テントを後にした。
「アドニス、ブリーズ、貴方達もそれぞれ集落の皆の手伝いを」
「心得た」
「ああ。分かってら、長老」
各々に返事を返して、アドニスとブリーズもテントを去る。その背中を見送り、ベルベットは一つ、溜息を吐いた。
「……できれば、もっと平和な時が続いて欲しかったのですが……」
だが、それが叶わぬ願いであることも彼女にはよく分かっている。コレまで幾度と無くそう願い、そして踏みにじられてきたのだ。あの忌まわしき人間至上主義の大国に。
指の関節部分がきしむほどの力で拳を握りこむ。だが、今はあの忌まわしき大国に憎悪を募らせるより重要な事がある。
「私も彼らの手伝いをしなくてはいけませんね。……それに、彼にも伝えなくてはならないでしょう」
誰にともなくそう呟き、ベルベットはテントを後にした。
集落の外れで、ベルベットが立ち去った後も月を眺め続けていたニッカは、集落の方がにわかに騒がしくなったのを感じ取る。
『……何かあったんですかね?』
首を傾げ、数秒間考えるが、それで答えが出るはずもなく。
とありあえず何が会ったのか聞きに行こうと歩き始めた所で、集落の方からベルベットが走ってくるのに気がついた。
『ベルベット?』
「ニッカ、手伝って下さい」
彼女は開口一番そんなことを言い出す。
『手伝う、とは……?』
首を傾げて問い返すニッカだったが、続いたベルベットの一言で絶句した。
「クロンダイクの亜人狩り部隊が迫っています。貴方にも手伝ってほしいことがあるんです」
亜人狩りの話は、この集落に来た直後にベルベットから聞いたばかりだ。その亜人狩りの部隊が、やってきているという。
ニッカは思い出す。かつてもとの世界で見た難民キャンプを。そして、それと重なって見えた、今日の光景……シャルトの姿を。
『分かりました』
気付いた時には、そう答えていた。アルゴンキンなど比べ物にならないほどの理不尽な暴挙に、彼女らを晒してはいけない。そう思ったのだ。
「とりあえず私についてきて下さい。手伝いの具体的な内容もわからないでしょう?」
『そうですね、了解です』
先をゆく彼女の後を追って、ニッカも歩き出した。
集落の中に入ると、住人達が慌ただしく動きまわっている。見れば、テントを畳んだり家具を持ち出したりと、どう見ても大移動の準備であった。
「この光景を見ればもうお分かりかと思いますが、私達は夜明けまでにこの集落を捨てて移動を開始します」
『逃げるんですね?』
「ええ。この集落にはまともに戦える者が殆ど居ません。せいぜい数名が関の山でしょう。……それに対して、クロンダイクが送り込んでくる亜人狩りの部隊は小規模でも軽く百を超えます。戦っても勝ち目がないことは目に見えていますから」
それを聞いて、なるほど賢明な判断だ、とニッカは思った。無理に戦って犠牲者を出すより、さっさと逃げてしまったほうが安全だ。つまり、ニッカの手伝いはテントの収納や家具の運搬といったことになるのだろう。
『分かりました。夜明けまでに、ということは、もうそのくらいの距離まで敵が迫ってきているということですね?』
ニッカがそう尋ねると、ベルベットは少し困ったような表情になる。
「実は、そこまで詳しいことはわからないのです」
『なぜですか? 夜間哨戒をしている人達から具体的な連絡は無いんですか?』
彼は当然、夜に集落周辺を偵察している者達がいるものだと思っていた。普通、襲撃を察知したとなればそういった偵察要員からの連絡以外に方法がありえないからだ。
だが、ここはニッカの知らぬ異世界である。常識的には考えられないことも普通にある。
「いえ、見回りは出していないんです。これはシャルトが……」
「ちょっと喋り過ぎじゃねえのか、長老」
答えようとしたベルベットの言葉を、別の声が遮った。そちらに視線を向けると、腕を組んだブリーズが睨みつけるようにしてニッカを見ていた。
「ゴーレムじゃねえのは確認したが、ソイツが得体の知れないヤツだってことに変わりはねえんだ。クロンダイクの手先じゃないって保証もないんだぜ? そんなペラペラ情報与えちまうべきじゃねえと思うがな」
ブリーズの顔には、明らかに警戒の色が浮かんでいる。一歩間違えばすぐにでも襲い掛かってきそうな雰囲気を醸し出していた。
「それは無いと思いますが……彼は異世界からやってきたようですし」
それを聞いた瞬間、集落の住人達が一斉にざわついた。この時点では、ニッカが異世界からやってきたことを知っているのはベルベットとアドニス(いつの間にやらベルベットのテントから消えていたが、異世界に来た、とニッカがベルベットに告げられた時までは確かに居たはずだ)以外にいなかったのである。
「異世界だと……? それなら確かに……いや、待った。ちょっと待った。それがソイツのホラじゃねえって保証もねえだろ」
どうやら、ブリーズは徹底的に疑ってかかるつもりらしい。ニッカは、なんでそこまで、と思う反面、同時に、確かにそうだな、とも考えていた。
集落の住民を守るために慎重を期するという点では、ブリーズの考え方は評価できるだろう。疑われている側であるため気分的には少々嫌なものがあるが、ブリーズが集落の住民達を大切にしているが故だと考えれば納得できる。
収まらないざわつきは、驚きのそれから疑いのそれへと変わっている。ニッカとしては純粋にこの集落の避難を手伝いたいので、何とかしたいものなのだが……。
どうしたものかと考えていた時、やや低くもよく通る声が響く。
「なら、確かめてみればいい」
そう言ったのは、隻眼隻腕の男、アドニスだった。
「確かめるってどうやってだよ?」
首を傾げるブリーズに、アドニスは不敵な笑みを浮かべて応じる。右目の傷跡もあって正直表情が少し怖いため、ブリーズが若干引いた。
「簡単だ。コイツを俺達についてこさせればいい」
「は?」
一瞬意味がわからなかったようで、首を傾げるブリーズ。ちなみに、まだ彼らの役割を知らないニッカはどういうことなのか全く分かっていない。
「コイツを陽動に同行させて、コイツと敵の反応を見ればすべて分かる。もしコイツがクロンダイクの放った密偵なら、そういう反応があるはずだ」
「なるほど……」
アドニスの言葉に、感心したように頷くブリーズ。
「もしコイツがクロンダイクの手先なら、その時は始末すればいい。そうでないなら、コイツも陽動に一役買ってもらおう。ニッカだったな、魔物を退けたんだから人間相手に戦うくらいは問題あるまい?」
不敵な笑みを浮かべたまま、挑発するような視線をニッカに向けるアドニス。その様子は、まるで「普通はロボットが人間に危害を加えられない」のを知っていてあえてそう言っているかのようだ。無論、ロボットの存在しない世界の住人である彼がそんなことを知っているわけはないのだが。
通常、ロボットには人間に危害を加えられないようにプログラムの中に原則が組み込まれている。
『ええ』
だが、ニッカは違う。
彼は、最前線で戦うことを前提に作られたロボットである。それは、最前線で人間相手に戦う必要性があることを意味するものだ。そのため、ニッカには通常のロボットに適用される原則が組み込まれていないのだ。
『人間相手であっても戦闘は可能です』
だが、それだけではロボットとして自律した思考を持つ意味が無い。ただの無人兵器になってしまう。
そうさせないのが、ニッカに搭載された擬似人格システムだ。このシステムによってニッカにもたらされた人格が、心が、彼を単なる無人兵器にしない。状況に応じて、人間と同じような判断をし、攻撃すべき対象を見極める。ニッカをニッカたらしめている。
そして、その心が……ベルベットが、「作り物であっても本物だ」と言ってくれた心が、クロンダイクという大国の振りかざす理不尽な暴力にこの集落を晒すわけにはいかないと言っている。それが、ベルベットが教えてくれたような理不尽極まりない理由であるのならなおさらだ。
「戦えるなら問題ない。決まりだな、コイツも陽動に参加させるぞ」
アドニスがそう言ったことで、周囲のざわめきが収まってゆく。
「……ああ、分かった」
ブリーズも納得しているところを見ると、どうやらアドニスの発言力は中々のものらしい。あるいは、勝てないから逆らえないのか。
「なら、この話は一旦終わりだ。手を止めている暇はないぞ」
言われて、集落の住人達は再び避難のための準備へと戻った。
夜明け前に自分達の避難の準備を一時中断し、アンシャを始めとする翼の生えた亜人が何人か空へと上がってゆく。空は白み始めているが、日はまだ昇っていない。
空中へと舞い上がった彼女達は、油断なく周囲を見回す。太陽が地平線から顔を出した頃に、アンシャが何かに気がついた。
「……見つけた! 皆、見つけたよ!」
アンシャはそう他の者達に声をかける。
「どこだ!?」
「あっち!」
アンシャの指差す先は、陽の光が届き始めるか否かというくらいの薄暗さの場所だ。その距離はかなり遠い。
「……確かにいるな」
だが、それだけ離れていてもアンシャや空に上がってきた他の有翼の亜人にはそれが見えていた。彼女らの種族はいわゆる「千里眼」に近い能力を持ち、通常では見えないほどの位置でもはっきり見ることができる。
「でしょ? 早く長老様に伝えなきゃ!」
そう言ったアンシャを先頭にして、有翼の亜人達は次々に地上へ向かって降りていった。
集落では、避難の準備が終盤に差し掛かっていた。その中心では、ベルベットが指揮を取っている。
「食料やテントが優先です。それ以外は基本的に置いていくものと考えてください」
テントを畳み、食料とともに荷造りしていく住民達。最初こそ手間取っていたが、今は手際よく進めている。一時期はほんの数週間で避難を余儀なくされていた時期もあったため、こういった事態には慣れているのだ。もっともそれは決して良いこととはいえないのだが。
指揮を取っていたベルベットの前に、アンシャを始めとする偵察に出ていた亜人が舞い降りる。
「長老様、見つけたよ! まだ距離はあるけど、そんなにのんびりもしていられないと思う」
亜人狩りを行う部隊の行軍速度と避難民に近い集落の住民達の移動速度では、明らかに後者のほうが遅い。早めに動かないと追いつかれる可能性もある。
「そうですか……分かりました。アドニス達にも伝えてから、貴方達も避難の準備に戻ってください」
ベルベットに言われて、アンシャはアドニスを探しに、他の有翼の亜人達は避難の準備へと向かってゆく。その背中を見送り、ベルベットは思う。
一体後何回、こんなことを繰り返せばいいのだろうか、と。
彼女は見た目からは想像もつかないほど長く生きている。それ故に、この集落における長老という地位にいるわけだが。
そして、彼女はこれまで歩んできた年月の中で、幾度と無く今回のような避難を体験していた。
最初は、亜人狩りから逃れてきた数人の亜人の子供を助けることになり、彼らを連れて逃げまわっているだけだった。
だが、時が立つにつれて、彼女が連れ歩く亜人達は数を増やし、いつの間にか一夜を明かすためのただのキャンプのはずが小規模な集落にまで発展していた。
途中、アドニスやブリーズという心強い用心棒も加わってくれた。ここ数年は、このような事もなかったため、この森の中で細々と暮らすならここを安住の地にできるかもしれない、そんなことまで考えた。
だが、それは夢物語だった。結局はこうしてクロンダイクの亜人狩り部隊が近付いて、逃げ出すことを余儀なくされている。
アドニスとブリーズが加わってからはほぼ無くなったが、避難の間に犠牲が出ることもあった。
数年ぶりの移動となる今回、しかも場所は魔物が棲息する森の中だ。無事に切り抜けられるかどうかは分からない。
だがそれでも、やるしか無い。避難しなければ、その結果は火を見るより明らかなのだから。
ベルベットは、その拳を静かに握りしめた。
「そうか。なら……俺達はそろそろ出たほうが良さそうだな」
アンシャの報告を聞いて、アドニスは数秒考えてからそう結論を出し、ブリーズに声をかけるべく歩き出す。
『もう行くのか?』
監視下に入るという理由でアドニスと行動を共にしていたニッカが尋ねると、アドニスは振り返ることもなく淡々と答える。
「稼げる時間は多い方がいい。それに、連中との遭遇地点は集落と離れていればいるほどいい。奴らの行軍速度を落とせれば、逃げおおせる可能性は高くなる」
『なるほど』
確かに、集落の住民達を逃すという作戦目的である場合、陽動役の自分達が敵と接触する地点は集落から離れている方が安全だ。
「向こうは数十から数百人からなる軍隊、こちらはたったの三人。移動の際の機動力には雲泥の差がある。……もっとも、一つ懸念事項はあるがな」
『懸念事項?』
ぼやくようなアドニスの最後の一言に、首を傾げるニッカ。
「ああ。お前の移動速度だ。俺やブリーズについてこられるなら何の問題もないが、お前の足が遅い場合はこちらも色々考える必要がある」
それを聞いて、ニッカは納得する。アドニスとブリーズの移動速度がどれほどのものかニッカは知らないが、それについていけないようでは二人の足を引っ張り、移動速度の低下につながる……そういうことなのだ。
移動が遅くなれば、逃げている途中で敵の追撃を受ける可能性も高くなる。場合によっては見捨てる、という選択肢もあるだろう。否、ニッカはクロンダイクの手先ではないかと疑われているのだ。そう考えると、単に見捨てるのではなく、破壊される可能性もある。
『貴方方がどのくらいの速度で移動できるのかは分からないけど……脚部による歩行、走行に限らなければ、そこそこの速度での移動が可能だよ』
「そこそこ、な。その言い方、まるで歩いたり走ったり以外の移動ができるかのようだな。空でも飛ぶのか?」
アドニスとしては半ば冗談で言ったつもりだったのだろう。だが……。
『うん。低高度に限るけど』
「!?」
しれっとニッカが答えたので、思わず驚きの表情で振り返ることになるアドニス。まさか本当に飛べるとは思っていなかったようだ。
「……飛べるのか」
『うん。あんまり高くは無理だけど』
「いや、それでいい。あまり高く飛ぶと遠距離から見つかる」
アドニスは気を取り直してそう告げると、再び歩き出す。歩きながら、まさか本当に飛べるとはな、とボソッと呟いた。
ブリーズと合流し、集落の外周だった位置にやってくる二人と一機。外周「だった」としたのは、すでにテントが片付けられているためだ。残っているのは簡易的な柵くらいのものである。
「そんじゃ、いっちょ行ってくるとすっかね」
どこか楽しそうな雰囲気でそう言って、ブリーズが指をバキバキと鳴らす。
「気を抜くなよ、ブリーズ。ニッカ、ついてこられるか?」
『貴方方の移動速度がまだ分からないんでなんとも』
アドニスに問われ、ニッカはそう答える。対するアドニスは「それもそうか」と呟いて、少し離れた位置にある木を指差した。
「とりあえずあそこまで移動する。その速度を見て判断しろ」
言ってから、アドニスは軽く腰を落とし、一気に駆け出した。いや、それは駆け出したと言って良いのだろうか。常人であれば全力疾走でも十秒は掛かりそうな距離を、たった数歩、約三秒で移動したのだ。それは、半ば水平方向への跳躍だった。
「どうだ?」
歩いてニッカのところへと戻って来ながら、アドニスは問う。唖然としていたニッカだが、すぐに気を取り直して今見たアドニスの速度を分析する。
『……飛べば問題なくついて行けるよ』
「上等だ」
ニッカの答えを聞いて一つ頷き、アドニスは再び森の方を見据える。
「連中を集落に近付ける訳にはいかん。行くぞ」
駆け出したアドニスに、獣人化したブリーズが続く。そして、ニッカも後を追う。最初の一歩は普通に踏み出すが、それと同時に背面のカバーを展開。光球と、その後ろに光のリングが現れ、ニッカの身体を地面すれすれの低空で飛翔させる。
「うおっ!? 飛んでやがる!」
それを横目に見ながら、ブリーズが驚きの声を上げる。彼もアドニス同様、まさかニッカが飛ぶとは思っていなかったのだろう。
ニッカはそれを気にせず、先頭を行くアドニスを追いかけることに集中する。アドニスは迷うこと無く木々の間をすり抜けるようにして進む。体の左側を覆うようにして身につけている裾の擦り切れたマントが翻り、時折左腕の無い肩口が見え隠れしている。
アドニスを追いながら、ニッカは驚愕していた。片腕を失い体のバランスを取り辛いはずなのに、彼はそれを感じさせること無く素早く進んでいく。加えて、この世界に来てから設定しなおした電子コンパスを見てみると、森の中という地形であるにもかかわらず、迷うことなくほぼ真っすぐに進んでいることが分かる。
と、そこでブリーズがアドニスに向けて言う。
「おいアドニス、ちょい右だ。そっちの方から臭ってくる」
獣人化している時、ブリーズの嗅覚は犬や狼と同等か、あるいは上回るほどの嗅覚を発揮する。そんな彼の言葉を受けて、アドニスは進行方向を右へとずらし始める。
「そんくらいだ。このまま真っすぐ行けばぶち当たる」
「分かった」
ブリーズに短く答え、アドニスは再び直進する。そんな二人を見ていて、ニッカはふと疑問に思う。
『匂いで方向が分かるなら、ブリーズが先に行って先導した方がいいんじゃ?』
それに対してブリーズは、「ハッ」と軽く笑ってから答えた。
「かもな。だが、オレが先に行くとアドニスを置いてっちまうんだよ。スピードはオレの方が上だからな」
どこか自慢げな様子のブリーズ。確かに、今先頭を行っているアドニスより速いとなれば、それは驚嘆すべき事実だ。
が、しかし。
「正直に言ったらどうだ、ブリーズ。先行しすぎて窮地に陥ったことがあると」
「うっ、うるせぇっ!」
アドニスの指摘に、少しだけうろたえるブリーズ。どうやら、過去にピンチに陥ったことがあるようだ。確かにそれはあまりよろしくない。だが、それで同じことを繰り返さないところを見るに、一度で懲りたということだろう。それは重要な事だ。
「今はそんなことどうでもいいだろっ! それより敵だよ敵!」
なんとか話題を逸そうと、ブリーズが必死な様子で言う。こんな状況でも無ければニッカもからかったかもしれないが、生憎と今はそうではない。人をからかって遊んでいる場合ではないのだ。
「そうだな」
アドニスとしてもそこは同じ考えであるようで、それ以上は何も言わずにただただ前に向かってひた走る。
何度かブリーズに方向の微修正を受けながら走り続け(ニッカは飛び続け)、そろそろ森の切れ目か……というところまで来た時、先頭を行くアドニスが足を止める。
「止まれ。見つけた」
「みたいだな。匂いで分かるぜ。……思ったより数が少ねえな」
アドニスに並ぶ形で止まったブリーズが鼻をひくつかせ、そんなことを言う。やはり狼男ゆえに鼻が利くのだろう。
ニッカも二人のすぐそばへと降り立ち、アドニスに尋ねる。
『アドニス、一体どこに?』
アドニスは無言でその方向を指差すことで答えた。カメラを望遠モードに切り替え、そちらをズームしてみると、確かに木々の隙間から鎧に身を包んだ兵士らしき姿や、彼らが携行しているであろう槍の穂先や弓と思しきものの一部などが垣間見える。
「アレに俺達で奇襲をかける。……だが、ニッカ。お前は奇襲ではなく正面から行け」
『は?』
一瞬言われた意味が理解できず、間の抜けた声を上げてしまうニッカ。
「お前が正面から仕掛け、気を引いている隙に俺とブリーズが側面を突く。そういう算段だ」
『ああ、なるほど……って、ボク一人で行かせるつもりか?』
一瞬納得しかけるが、慌てて講義するニッカ。
「ああ。お前が異世界から来たというなら、この世界では異質な存在だ。十分に混乱は狙える。そこを俺とブリーズで奇襲して叩く」
『のこのこ正面から出て行って僕が瞬殺されたら?』
「魔物を相手に戦える奴が人間相手に瞬殺される可能性はないと思うがな」
不敵な笑みを浮かべてニッカを見るアドニス。だが、表情こそ笑っているものの目は笑っていなかった。その眼光が言っている、「問答無用だ、行け」と。
しばし睨み合うように、視線をぶつけあうニッカとアドニス。そうしながらも、ニッカはアドニスの意図を考えていた。
なぜ正面から突っ込めなどと言ったのか。
アドニスはニッカが異世界から来たという話を聞いていたはずだ。だが同時に、疑われたニッカをこうして連れてくることを提案した張本人でもある。果たしてアドニスは、ニッカの事を信じているのか疑っているのか。こうして連れてきているということは、疑っている可能性が高いと見ていいだろう。
そして、ニッカが疑われているということは、今の指示……正面から行け、という指示は、ニッカの立ち位置を確認するためのものであると見て良さそうだ。
つまり、アドニスはこう言っているのだ。「お前がクロンダイクの手先でないことを証明してみせろ」と。
『……分かった。行ってくるよ』
アドニスの意図を推測したニッカは、彼の作戦に従うことにした。この位置から確認できる限りでは、敵となるクロンダイクの兵士達は剣や槍、弓矢のような、ニッカから見れば原始的もいいところな武器しか持っていない。正面からぶつかってもそうやすやすと負けることはないだろう。
ニッカは静かに移動を開始し、敵である亜人狩り部隊の進行方向で待ち伏せる。そして、声が届きそうな距離まで近づいた所でその姿を露わにした。
「なっ!? 何だあれは!?」
突如として現れた異質な存在…ニッカの姿に驚いて、亜人狩り部隊がその歩みを止める。
ニッカはただ、無言のままに相手の出方を待った。