第九話 遠回りしただけで夜になるわけが……
この作者が怠惰な男であることは活動報告により知られているが、なぜそんな男が文体を荒くしてまでこんなにも更新を急ぐのか。
それは、早いところ完結させたいからである。
その一心で執筆している。つまり結局は怠惰なのである。
私が再び空蘭荘に戻ってきた時には、オレンジ色の空は藍色へと移り変わっていた。踵を返したのはいいが、女将さんと鉢合わせるのは不味いと思って、さらに遠回りして空蘭荘に向かったのである。
雲に見え隠れする半月はまだ寂光であり、霞んで見えた。私は空蘭荘の近場にある雑木林に身を潜めて好機をうかがっていた。空蘭荘の出窓からは廊下の光りが漏れている。
私は困惑していた。
よくよく考えれば、菫さんは引きこもりなのだから好機を待ったところで部屋に入れば必ず見つかってしまう。就寝したあとに忍び込んでも鍵は掛けられるだろうし、無理やり侵入すれば、それこそ犯罪である。
三十路を過ぎんとしている独身男が雑木林の木陰に隠れて、一人煩悩している姿はいかにも菫さんの罵倒の対象になりそうである。
うじうじと決心が固まらないまま私は数分間におよび頭を抱えていた。
もしも、『初心者 心理学』が発見されてしまえば、私が似非カウンセラーだということが露呈し、私が貧困であることが露呈し、それが女将さんに知れ渡れば積み金が極限に少ないことが露呈し、私がうわべ飾りで不憫な男だと露呈する。そうとなれば賭け勝負も流れる羽目になり、当然のこどく報酬の数々も私の前から逃げ去ってしまう。それだけは死守せねばなるまい。
私は夜の闇の中を滑るように横切った。
そういえば、この旅館には不思議な点がいくつが見受けられた。女将さん以外の労働者が見当たらないこと、私以外に旅館を出入りする客が見当たらないことなどである。
ゆえに玄関帳場に足を踏み入れた時、女将さんの気配がなかったので安堵した。彼女は何かと物陰から飛び出てくるので、それでも気は抜けなかったが、軋む音に顔を強張らせながら階段を上がった。
廊下の電球は点いているものの、部屋の明かりは一つも点灯していなかった。それは菫さんの部屋も同様であり、私は菫さんがすでに就寝したのではないかと所思した。
爪先で歩いて最奥を目指す。
明るくなったり暗くなったりと点滅を繰り返す古い電球の前を通り過ぎ、菫さんの部屋の引き戸を掴んだ。
もしも、戸越の彼女がベッドでゲームでもしていようものなら、私の人生は終末を迎えることになりかねない。私は固唾を呑んだ。
ゆっくりと引き戸を開けて、真っ暗な部屋へと視線を凝らす。
部屋の床に引き戸の隙間から入った光りが伸びる。私は恐る恐る足を踏み入れた。
「菫さん」
呼びかけるが返事はない。
しばらくすると目が冴えてきた。
そこで私は仰天したのである。
「嘘だ」
そこに菫さんは居なかった。
引きこもっているはずの女性が忽然と部屋から消えている。実際は事情があって抜け出したのかもしれないが、私は驚くほかなかった。
目を剥いて口をあんぐり開けていると、床の隅に放られた『初心者 心理学』を発見した。急いでそれを拾い上げる。どうやら見つかっていないようで、私は安堵した。
気持ちの整理が付かないが、目撃される前にこの旅館から脱出するのが最優先だと判断した私はそそくさと部屋をあとにした。
しかし、廊下を突き進んで階段を下りるとき、ふと思い立った。
三階の菫さんの部屋はどうなっているのか。
私は気が付くと三階へと足を運んでいた。そんな自分に気が付いても、途中で引き返すことはしなかった。
三階につくと、私は瓜二つの菫さんの部屋の灯りが点灯していることに気が付いた。耳を澄ませば、話し声も聞こえてくる。奇奇怪怪な出来事が立て続けに起こったためか、私はもはや驚きもしなかった。
ゆっくりと最奥へと歩み寄る。すると、しだいに声もはっきり聞こえてきた。
『だから、違うんだってば』
菫さんの声。
『今までと同じよ。何も違わないわ』
女将さんの声。
私はそのときから、この旅館は何かがおかしいと思い始めたのである。