第八話 はたして旅館の女将さんは仕事柄、契約書を持ち歩くのか
旅館を出ると、私は両手を空へ突き上げて伸びをした。それに作用して出てきた涙を腕でぬぐって前方を見ると、そこには夕日に映えた町が広がっている。旧態依然とした町並みであったが、どこか清々しく見えた。私はこの町がいつまでも変わらないことを願った。
私は最高潮へと達した気分の高揚感を頼りに、ただでさえ二時間かかる道のりをさらに遠回りした。芝生がえぐられ土が剥き出しになった道を逸れ、こぢんまりとした雑木林を抜けて、井江川に突き当たるまで歩いた。
井江川は武美山のふもとから東端の浦島海岸にかけて流れる大川である。
土手を駆け上ってしばらく歩いた。
二人組みの男が川原に腰掛けて釣りをしていたが、難しい顔をしている。今さら釣りを始める時間帯でもないし、朝から粘っていたのかもしれない。どうやら、結果は芳しくないようだった。私はそれを見て、妙に勝ち誇った笑みを浮かべていた。
遠くには県立桜峰高等学校の校舎が角砂糖のように佇んで見える。あそこは私の母校であり、思い出の宝庫とも言える。校内はあの頃と変わらないままだろうか? 先生達は今も頑張っているだろうか? などとぼんやり考えていると、むやみに高校の様子が見てみたくなった。
みんなは今どうしてるかな?
職員室に挨拶へ行ってみようかとも考えたが、そう思った瞬間に思考に歯止めをかけた。似非カウンセラーなどという馬鹿馬鹿しい事を大真面目にやっている私が教師一同に面と向かえるはずがない。すると、どこか虚しい感情が込み上げてきた。
今頃、懐かしの同級生たちはどこかで一生懸命に働いているであろう。もしかすると、まだ勉学の道を精進している者もいるかもしれない。どちらにしろ、私のやっている事は同級生からすれば見るに忍びない憫然な所業である。
こうなったら、とことんやってやろう。泥にまみれた栄光でも掴み取ってやろう。
いい年して阿呆なことをやっている自分への虚しさを丸め込むように、私はむくつけき決心をした。
「あら、お帰りですか?」
ふと声が聞こえ、私は土手の下を見た。すると、そこには片手にポリ袋をぶら提げた女将さんが同様にこちらを見上げていたのである。
「あ、どうも。今帰りです」
私は頭を下げると、土手を降り立って女将さんと対峙した。女将さんが持ったポリ袋には食材がはちきれんばかりに詰め込まれていて、どこか億劫そうでありながらも女将さんは艶然としている。
「今日の菫はどうでした?」
「また仲良くなれた気がします。罵倒も馴れてしまえばどうってことないですよ」
「本当ですか? あの子は人になついたりしないんですけれど」
女将さんからは私が見栄っ張りに見えるのかもしれないが、自ら訊ねておいて疑うことはやめていただきたい。もっと突き詰めれば、自ら依頼しておいて私の努力を訝しげな目で見ないで欲しい。私の自尊心への冒涜である。
私が「本当ですよ」と苦笑いをしていると、夕日に雲がかぶさって辺りが急に薄暗くなった。
しばらく黙って井江川のせせらぎを聴いていると、女将さんは昨日の事を持ち出した。
「そういえば、例の賭け勝負ですけど、考えてくれました?」
私の中で答えはとっくに出ていたが、少しだけ回答の言葉が喉につかえた。もしも、賭けに勝ったらふところに入ってくる富は莫大なものだが、逆にその富が莫大であるだけに困惑してしまいそうである。それに加え、負けてしまっても私には支障が少ない。「これが私の全財産です」と数万円を目の前に差し出しても、女将さんは不満を抱くのではないだろうか。
しかし、気付いたときには「いいですよ。やりましょう」と言っていた。
「意外と度胸があるのですね。少し惹かれましたわ」
女将さんは頬に手を当てて、いたずらに笑った。
「まあ、勝てる自信がありますからね」
私は好い気になって胸を張った。そんな私を見ながら女将さんは、ポリ袋に一緒に詰め込まれたカバンから紙とボールペンを取り出した。紙には何やら契約書と書かれている。
「では一応これをお願いしてもいいですか? 不思議に思われるかもしれませんが、仕事柄こういったものはいつも持ち歩いているので」
私は掛け勝負に負けたほうが無償で旅館の所有権、または積み金を受け渡すという条件を記入して、サインをした。そして契約書を女将さんに返すと、額に汗をにじませた女将さんを見て私は慌てて言った。
「ああ、すみません。つい立ち話をしてしまいました。お荷物重いですのに迷惑なことを……」
「いえいえ、いいのですよ」
私は一礼して女将さんと別れた。
女将さんの遠ざかる背中を見送って、土手道を外れて町角を曲がり、そこである種の清々しさを感じて両腕を突き伸ばした。そして、ふいに気付いた。
手に『初心者 心理学』が持たれていない。
私は顔の色を失って狼狽した。そして、浮き足立ちながらも冷静にどこで消えたのかを考えた。すると、空蘭荘の前でも背伸びをしたことを思い出す。あの時も手に『初心者 心理学』はなかった。
つまり、私は菫さんの部屋に置いてきてしまったのである。
私は毛穴から冷たい汗が噴出すのを甚だ感じながら、来た道を行き返した。