第六話 自分が鼠になる夢とはこれいかに
少しだけ文章の質を落とした。
しかし、読者の皆さん。早とちりしてはいけない。文章の質が落ちたのでなく落としたのである。作為的であり、これは戦略である。
なぜならば、次話である第七話はある種の見せ場であり、私は全身全霊を込めて執筆しようと試みている。つまりは、この第六話は次話を引き立たせるための要である。ゆえに策略的劣化を施したのである。
だから、勤続疲労がここに来て大目に出てきたというわけではない。
決して、ない。
私の住む木造二階建てのアパートは見るに忍びないほど汚れている。白かったはずの外壁は黒ずんで陰鬱な気配が放出され、ここを通り掛かった野良犬や野良猫は何かに憑かれたように排尿や排便をもたらす。冬が到来すれば建築ミスも甚だしい隙間風が私の身体に吹き荒び、孤独感をあおるのだ。
翌朝、私は悪夢にうなされて目覚めた。夢の中で私は鼠であり、後方から追走するのは鋭い爪牙を光らせた虎である。虎は走りながら咆哮をあげ、今にも飛び掛らんとしている。その怒りに歪んだ表情からは空腹を通り越した憎悪のようなものが感じられた。私が何をしたというのか。
見覚えのない一本道をひたすら逃げ追いしていたが、やがて前方右に私のアパートが現れた。私は急いで敷地を横切り、階段を上がって自室へ駆け込んだ。私はこれで助かると安堵した。
しかし、よくよく考えればこのアパートの壁は極めて薄い造りであった。猛獣に突進されればひとたまりもない。そう気付いた時には恐ろしく鋭利な爪が壁を突き破った。まさに私は袋の鼠であり、戸が爪楊枝にもならない木片へと化していくのを泡を食って見ていた。
そこで夢から目覚めたのである。私は号泣していた。
何か悪いことの前触れである気がしたが、いつまでも布団にこもるわけにもいかない。私は『初心者 心理学』を片手に家を出た。
外に出ると辺りには朝靄が立ち込めていて、新鮮な空気が私の肺に入り込んできた。体の芯に冷気が取り巻く感覚があり、寝ぼけていた体内が勢いよく目覚めた。しかし、清々しさもそれほどに振り返ってみると、妖怪の住処のようなアパートが私を見下ろしている。むしろアパート自体が妖怪のようでもあった。
有終の美を飾り尽くし金的をいとめてやれば、お前みたいなアパートとはお別れだ。今まで楽しかったよ、せいぜい崩れないようにな。近所に迷惑だから。
私は心中でそう呟くと、大股で『旅館 空蘭荘』へと向かった。
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空蘭荘に二時間ほど掛けて到着すると、女将が玄関で待ち構えていた。
「どうぞ、菫はもう起きてます」
私は一礼すると、川に流されるように廊下を進み、階段を上がって菫さんの部屋へ行った。
「菫さん、来たよ」
「うるさい、朝なんだから静かにしろ。ぶっとばすよ」
戸越しから菫さんの罵倒が飛んできた。しかし、私は恐怖することもなく、むしろ微笑んでいた。罵倒ではあるが、私の問いかけに答えてくれている。これは友好的な関係への一歩であろう。
「入ってもいいかな」
「少し待て、着替える」
戸の向こうからはベッドの軋む音が聞こえた。私は「わかった」と返事をすると、身を翻して廊下の窓から景色を見た。
武美山も、そのふもとから流れる井江川も、その流れる先に腰を据える住宅街も、町全体が眠っている。遠くに見える浦島海岸には大きな漁船が波に揺られ、武美山からは鳥のさえずりが聞こえてきた。のどかな早朝に私は微笑むばかりである。
「いいぞ、蛙」
ペットを呼ぶような声が聞こえてきた。私は頬を叩いて気を引き締めながら引き戸を開けた。しかるのち、仰天した。
菫さんは昨日と打って変わり、とても佳麗な姿であった。洋服はとてもお洒落だし、髪も寝癖がなく丁寧に撫で付けられていた。薄く化粧もしている。
私が見入っていると菫さんは気恥ずかしそうにそっぽを向いて「一応客人だからな」と妙な言い訳をした。それでも私が見ていると「いい加減にしろ」と彼女は蹴る真似をした。
「将棋するかい? 僕の負けは見えてるけどね」
私はカーペットに腰を下ろしながら、言った。すると、菫さんは「しょうがないな」と唸ってから一人で納得したように頷いた。
「今の蛙は相手にならないからな。特訓だ」
菫さんは誇らしげな顔をした。