第三話 将棋盤は学習机の引き出しに入れるものか
サブタイトルだけはすらすらと浮かんでくる。
毎回のごとく疑問の耐えない小説ということである。
引き戸を開けると、待ち構えていたかのような罵倒が顔面へ飛んできた。
「逃げたから女々しい奴と思ったけど蛙の面に水ね。阿呆だ阿呆」
菫さんは先ほどと同じ格好でベッドに寝ていたが、少女漫画がゲームに変わっていた。相変わらず大人を一瞬で廃れさせる暴言を吐いておきながら表情は平然としている。もしかしたら、魔法で台詞が暴言になってしまう呪いをかけられたのではないかと勘違いしてしまうほど、彼女は可憐で高貴な気配を漂わせている。とても悪罵少女には見えない。
「菫さん、年上に向かって悪口言うのは良くないよ」
「うるさい、黙れ」
二の句が次げず、私は口ごもるほかなかった。しかし、そう簡単に退出してたまるかと水玉のカーペットに座した。
「座るな。蛙の臭いがついたらどうするの。今だって鼻が曲がりそうなんだから」
私の繊細なハートに一本、また一本と罵倒の針が打ち込まれる。
私は身を翻し、菫さんの死角になるように『初心者 心理学』を紐解いた。そこには『まずは、相手の気持ちに反発するのではなく受け入れることから始めろ。のちにじっくり善導すべし』と書かれていた。
私は『初心者 心理学』をゆっくりと閉じると、菫さんに向き直った。
「ははは、確かにそうだよねえ。蛙って臭いもんねえ」
「どうした、壊れたか。まあそれは最初からか。どちらにしろ、理解できたなら、とっとと出て行け。しかるのち豚小屋に帰れ」
「ははは、確かにそうだよねえ。豚小屋に帰らないとねえ」
「気持ち悪いぞ。不潔な奴は清潔な場所にいると頭おかしくなるみたいだな」
「ははは、確かにそうだよねえ。なるみたいだねえ」
私は、寛大に菫さんの悪罵を受け止めながら思った。
この手法はいける。反発する気持ちがあると冗舌な菫さんの罵倒に打ちのめされるが、反発でなく受け入れているのだと思い込めば、自分が寛大になった気がするではないか。私は大人で菫さんは子供。私は紳士的に菫さんの荒くなった気性をなだめているような気分になる。心に余裕ができる。
しかし、余裕があるのに涙が出てくる。
「少しだけで良いからさ。話を聞いておくれよ」
「嫌だ」
菫さんはベッドから起き上がると、冷い視線で私を睨んだ。髪をかき上げて鬱陶しそうにあしらうと、そっぽを向いて窓の外を見ている。窓の枠にはほこりが堆積している。長く閉ざしたままのようであり、菫さんが引きこもりだということを改めて実感した。
「高校受験に落ちたのがきっかけで引きこもってるんだと思ってるでしょ」
彼女は急に哀愁を漂わせると、洋服のボタンを指でいじりはじめた。どこかふて腐れたような表情であり、それ以上に罵倒じゃなかったので私は妙に緊張した。
「それって、他に理由があるってこと?」
「さあね」
答えを濁した菫さんは気だるそうに立ち上がると反対側の学習机に近寄った。引き出しを開けて中から木の板と木の箱を取り出した。
「暇だからちょっと付き合いなさいよ。蛙でも将棋ぐらいはできるでしょ?」
水玉カーペットの上に放られた木の板をよく見ると黒い網目の線が描かれている。将棋盤を挟んだ向こう側に座った彼女は手に持った木箱から恐ろしく手馴れた速度で盤上に駒を並べていった。それを見ながら私は「まあ、ルールは知っているけど」と戸惑いながら言った。
そして、彼女が駒を並べている間に私は死角を利用して『初心者 心理学』を再び紐解いた。するとそこにはこう書かれていた。『女性が少しでも愛想をよくすると、男はそれを好意として早とちりする傾向にあるが、それは愚行である。傲慢や嫉妬の種になるだけであるからご注意を』
私は読むべき書籍から逆に胸中を読まれた気がしたので驚いた。つまりは菫さんの態度の急転もただの気まぐれにすぎないということである。私は危うく「いやあ、やっと心を開いてくれたんだねえ」などと言って墓穴を掘るところであった。そんな不用意発言をすれば「二度と喋るな」などと言われかねない。
「蛙が先攻でいいぞ」
私は『初心者 心理学』を閉じると、菫さんに向き直った。
「では、お手柔らかに」
私は思考していた。もしも、菫さんに将棋で勝てば彼女は私に対して一目置かざるを得ない。ここで一つ、英才と色男で名を馳せた私が大人の戦い方というものを見せてやろうではないか。そうすれば、暖衣飽食の楽園への道も近くなる。
私はそんな感じで戦いに挑んだ。