第二話 旅館の角部屋が身内の部屋というのはありえるのか
早くも二話の投稿です。
「仕事したぜ」的なオーラがただいま身の回りを渦巻いております。
ゆえに脱力しています。
この脱力が来週まで続いて「先週、二話投稿したから今週はいいか」みたいなことにならないか作者はすでに危惧しています。
菫さんの部屋は二階の角部屋であった。長い廊下には均等間隔に電球が吊るしてあったが、菫さんの部屋の前だけは何だか薄暗い。引き戸には『すみれ』と紫色の文字で書かれた表札があり、そこから不気味な気配が漏れてきている。
女将さんは、「じゃあ、あとは任せますね」と言ってそそくさと立ち去った。何か怖いものから逃げる様な素振りであったので、なおさら不安が募った。
「すみれさん? 入ってもいいかな」
恐る恐る声を掛けてみるも、返答はない。引き戸の向こう側は物音ひとつなく、菫なるひきこもりが居るのかということすら危ぶまれた。私は左手に持った『初心者 心理学』を強く握りしめた。
「カウンセリングに来たんだ。入るよ」
私は決心して、戸を開けた。
私の引きこもりに対する想像をくつがえすほど室内は綺麗で整っていた。部屋の中央に水玉のカーペットが敷いてあり、それを囲むようにして学習机や本棚やベッドがある。そのベッドに仰向けで横たわる菫さんらしき人物を見つけた。
菫さんは少女漫画を読んでいた。漫画を掴み天井に伸ばした腕は色白で、シーツの白さと同調しているようであった。シーツの上には長い黒髪が乱れている。そして、何より彼女は年齢にとらわれない小柄な少女であった。
「君が菫さんか」
「うるさい、黙れ」
歩み寄ろうと一歩踏み出したところで氷河期が訪れたのかと思った。
「……菫さん?」
「入ってくるな、不法侵入者。豚小屋に帰れ」
私の繊細な心を容赦なく突き刺す悪罵は間違いなく彼女の口から漏れてきていた。彼女は平然とした顔で漫画を読み続けている。
私の顔は間もなく恐怖で歪み始めた。
話が違う。無言少女ではなかったのか。罵詈雑言少女だとでもいうのか。ならば、なおさら手のほどこしようがないではないか。無理だ。辞表を提出する!
私はゆっくりと部屋から退出すると、韋駄天をも凌駕する勢いで廊下を駆け抜けた。そして、階段を下りて女将さんを見つけると、泣きつくように言った。
「話が違いますよ! 罵倒されました」
しかし、女将はそっぽを向くと残念そうに顔をしかめた。
「当たり前です。ただのカウンセリングに三百万も払うわけありません。菫はひきこもった途端に口調
が荒くなりました。身内だろうと初対面だろうと罵倒の雨です。今までも何度かカウンセリングを別の人に申し込みましたが、結果として芳しくありません。なので、もっと腕の立つ方をお呼びしようと、回を重ねるにつれて金額を上げていったのです」
罵倒に歪んだ泣き顔をさらしながら逃げ帰る由緒正しきカウンセラー達の幻影が脳裏に浮かび、私は騒然となった。回を重ねて三百万まで伸し上がったのであれば相当な数のカウンセラーが悪戦苦闘し結果、完膚なきまでに打ちのめされたのであろう。だとすれば一般人である私には処置しようがない。
「では、私はこれで……」
よくよく考えればカウンセリングで三百万などありえない。つかの間の幻想だったのだと、私は自身に言い聞かせた。そして、ここは早々と立ち去るべきだと察し、女将に背を向けて玄関の方へと足を伸ばした。
「あ、待ってください」
女将は逃がすものかと私の腕を掴んだ。しかし、私はかたくなに拒む。
「この件はなかったことに……」
菫さんは十六歳であるというが容姿はまだ幼く見えてしまう。自分より遥か年下の少女に罵倒されるというのは屈辱の極みである。三十路を過ぎんとしている貧困男が少女に提示された罵倒に頭を抱えて余生を過ごすことはない。それにつけ数多のプロフェッショナルなカウンセラーが挫けた難題を私がこなせるはずもない。逆にカウンセリングを受けたいぐらいである。
しかし、かたくなに首を横に振り続けた私の決意も、女将の次の台詞で見事に揺らいだ。
「もしも、菫を連れ出してくれたら当旅館での一年間の宿泊をサービスにさせていただきます」
「一年間?」
「はい、何度お越しいただいても構いません。一年の間なら毎晩でも」
私は驚嘆の表情を隠せなかった。貧困である私にとって家賃というのは私が積み重ねた努力たる貯金を波のごとくさらっていく唾棄すべき存在である。そんな家賃の存在を一年間も忘れさせてくれるだけでなく、暖衣飽食も提供してくれるのだから、私の拒否反応も太刀打ちできない。いや、もはや太刀打ちせずに快く受け入れるのが合理的判断といえよう。
「つまり一年間は仮住まいにしても良いんですか?」
「ご自由にどうぞ」
もはや退路は断たれた。
「いってきます」
私は再び悪罵少女のいる部屋へ向かったのである。