第十八話 最終回である
ついに、最終回になった。
みなさま、本当にありがとう。
そして、しばらくはさようなら。
食堂にいた誰もが一驚を喫したが、とりわけ目を剥いたのは女将さんであった。自己の分析能力を遥かに凌駕した事態が起きた、というような顔をしていて、ぽかんと口を開けている。
菫さんはずかずかと食堂に侵入すると、私の胸ぐらを掴む男に「その手を放せ、不潔頭部男」と罵倒した。「やめんか。この男たちは暴力団だぞ、挑発するんじゃない」と私は慌てたが、菫さんは続けて「うに頭は海に帰れ、深じわ野郎は森に帰れ」「ダサいネクタイつけるな」「オーラがきしょい、オーラが」「いい年して暴力なんて恥ずかしくないのか」「あー、とりはだとりはだ」「臭い、おまえら臭い。臭いがついたらどうしてくれる」「ぶっとばすよ」と、これまで閉鎖空間でつちかった罵詈雑言の集大成を発揮するがごとく、菫さんは言い放った。
もはや後戻りはできないと思われた。このまま、菫さんも私も暴力になぶられ人生の路傍に打ち捨てられるのだ、と。しかし、ふと野高組の二人を見てみると、その顔が涙に歪んでいることに気がついた。私の胸ぐらを掴んだ手がぷるぷると震えている。
私は幾重に罵倒を振りかけられた身であり平気であったが、慣れない彼らには罵詈雑言のひとつひとつが悪鬼の刃のごとく心に打ち込まれ、その図星を的確に射る彼女の悪罵に恐慌をきたすしかなかった。やがて、男らは野高組の肩書きや面目をかなぐり捨てて「うわあん、うわあん」と泣き叫びながら食堂から走り去った。
野高組の肩書きと面目が粉々に粉砕されるさまを始終見ていた女将さんは、菫さんに向かって「どうして出てきたのよ!」と歩み寄った。しかし、菫さんは冷え冷えとした顔をすると、「もう、やめなよ」と静かに言った。
「私が出てきたんだから、カウンセラーの勝ちだ。三百万も旅館の所有権もカウンセラーのものだ。もう、こんな計画は続けられない」
女将さんは菫さんの肩を掴むと、狂ったように揺さぶった。
「なんてことしてくれるの! 菫!」
しかし、菫さんは妙に落ち着きはらっている。
やがて、女将さんは揺さぶるのをやめると、頭をかきむしり、血走った目で食堂を右往左往した。「私が、賭けに負けるわけが」「そんな、馬鹿なことが」と何度も繰り返し、身体を激しく揺らしながらやがて床にうずくまった。
「終わりよ、すべて台無し!」
泣き叫ぶような女将さんは呻きながら、頭を抱えている。よだれが糸を引き、髪が乱れ、まるでそれは人間が一挙に堕落していくようすを眺めているようだった。
食堂には女将さんの呻きだけが響き、私と菫さんは暫時、固まっていた。
吊り上げられた魚のように床でのた打ち回る女将さんは、ひどく印象深かった。やがて耐え切れなくなった菫さんが一歩踏み出して女将さんに近寄った。かがみ込むと女将さんの背中に手を回し、ひしと抱きしめた。
「お母さん」
母の髪に顔をうずめた菫さんは、なだめるようなやさしい声でそう言った。
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眠りに落ちた女将さんを部屋に運んでベットに寝かしつけると、一息してから「私はそろそろ帰るよ」と言った。菫さんには女将さんを見守るよう言ったが、どうしても見送るというので、二人して外に出た。
外に出ると、周囲はすっかり夜の風景にかわり、ゆるやかな夜風が武美山の脇から吹いていた。『空蘭荘』の窓からは淡い電燈の光りが漏れ、辺りの雑木林をやさしく照らしている。
「もう心配ないだろうね」
私が夜空を見上げて呟くと、菫さんは「うん」と静かに返事をした。
「もう計画に私は絶対加担しないし、お母さんも懲りたと思う」
女将さんのこれまでの所業は確かに許されるべきではない。しかし、私のような取り柄のない男には女将さんが心血注いで取り組んできたカウンセラーへの思いは推し量れないし、きっと女将さんには女将さんなりの切実な思いがあったはずである。
「三百万と旅館は、これから心機一転する親子への私からのプレゼントだと女将さんに伝えておいてくれ」
少し遅れて「ふふ、わかった」と返事があった。
しばらく無言で夜景を眺めたあと、私は「そろそろ行くよ」と菫さんに言った。
しかし、私が芝生の上を歩き出すと、すぐに菫さんに呼び止められた。
振り向くと、笑顔の彼女が電燈の灯りに照らされ立っている。
「ありがとう」
私は笑顔でうなずくと、胸のうちにその言葉をしっかりしまってから、再び歩き出した。
こぢんまりとした雑木林を抜けて、軽い身体で風のようにスキップしながら、井江川に突き当たるまで進んだ。土手を駆け上り、清々しく背伸びをした。
言いようのないほどに、清々しい気持ちであった。すべてが解決したわけではなかろうが、きっと、すべてがうまくいくように思えた。
ふところから『初心者 心理学』を取り出した私は、意味不明の雄たけびを上げながら喜々として、それをびりびりに破いた。
もう、似非カウンセラーなんて、していられないぞ。しっかり働いて、しっかり生きていかなくちゃな。というふうに井江川に向かって、数多の切れ端となった『初心者 心理学』をばら撒いた。夜風に舞って、秋の夜空にひらひらと飛んでいく。
そうして、紙片の舞う土手を、私は軽快に走り出した。
了