第十二話 超人的な聴力とは何ぞや
残り数話で終了するらしいです。
皆様どうかお付き合いくださいませ。
「私はそもそも高校受験をしてない」
菫さんは確かにそう言った。
一驚を喫する発言であったが、私は思いのほか平然とした態度であった。
菫さんが高校受験に落ちたという嘘をつく必要はないはずである。つまり、そんな価値の見出せない嘘を張ったのは、まぎれもない女将さんということになる。
ならば、女将さんは何のためにそんな嘘を吐いたのか。
菫さんは起き上がると、布団をカーペットの上に蹴り置いて私に向き直った。彼女の首には薄っすら赤い痕が残っていて、脳裏に昨晩の情景が浮かんだ私は思わず目を背けた。
「私は閉鎖花だ」
菫さんは悲壮感を漂わせてそう呟いた。
「閉鎖花って何の事?」
私は身を乗り出して聞き入った。
「菫の花は早春に開花するけど、少し出遅れた花には開花せずにつぼみのままのものがある。それが閉鎖花だ。私は生まれる時期と場所を誤ったばかりに、開花できなかった」
菫さんは悔しそうにうつむくと歯を喰いしばった。
私はなんと声を掛けるべきか戸惑った。
「受験に落ちたわけじゃないんなら、何で引きこもってるの?」
私はそう言ったきり、二の句が次げなかった。
「私が引きこもりたくて狭苦しい部屋に一人でいると思うか!?」
菫さんは突然、憤怒の形相で怒号を上げると、私に向かって少女漫画を投げつけてきた。私は「おい、やめろ」と言おうとしたが、言えなかった。行き場の無かった怒りを爆発させるような菫さんの表情は、怒号を上げながらも切実で涙ぐんでいたからである。
菫さんの口から出た言葉を正確に解釈するのであれば、菫さんは引きこもりたくて引きこもっているわけじゃないとなる。
耳にして、初めて気付かされたきがした。
将棋をした時間、菫さんは始終笑っていた。罵倒もあったが彼女はとても楽しそうであったはずである。
ああ、『初心者 心理学』は本物だな。と心底関心した。女性が少しでも愛想をよくすると、男はそれを好意として早とちりする傾向にあると書いてあったが、私はその事実を知っておきながら、ことごとく勘違いしていたらしい。
なにも菫さんは私に好意を抱いて笑っていたのではない。寂しかったのである。
菫さんは孤独であった。
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菫さんは、ほぞを固めたような顔をすると、こう話した。
女将さんである水戸桜さんは高校を卒業すると、ある専門学校に大金を叩いて進学し、日々勉学に励んだ。しかし、その方面で彼女の才能が開花することはなく、遺憾ながらもそのまま卒業し、多額の借金を借りてこの旅館を造った。
しかし、客はしだいに減る一方で借金返済は経営では繕えなくなった。当時の女将さんは夜が更けた頃になると発狂し、「金が欲しい、金が欲しい」と泣き叫んだという。それほどまでに切羽詰っていたようで、頭を抱え続けた女将さんは悩んだ末に多額を手にする計画を練った。
それが、心理カウンセラーを騙す計画である。
一年前から引きこもっているという菫さんのカウンセリングを依頼し、賞金である三百万をちらつかせ、カウンセラーを躍起にさせる。そして、さらに菫さんは女将さんの指示により心を開いていくフリをする。その間にも女将さんは獲得物を積み重ね、カウンセラーの欲を大いに高ぶらせる。すると、カウンセラーは自分のカウンセリングの腕に自惚れ、契約書にサインすることも惜しまなくなる。
しかし、そこで女将さんは菫さんにこう指示するのだ。
「契約したから、もう冷たくあしらってちょうだい」
それで、菫さんは断固として部屋から出ることを拒否する。
すると、賭け勝負はカウンセラー側の失敗に終わり、積み金をことごとく持ち去られるというシステムである。
どうやら、菫さんはそのシステムに嫌悪感を抱いていたようで、昨晩の言い争いもそれに起因しているようであった。
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「私は嫌だった。こんな悪事を働かせて借金返済して、それで手に入れる新しい生活なんていらない」
菫さんはそう言って話を締めくくった。
その時の私の心情を書けと言われれば、筆舌に尽くせない。
このまま行けば、私は積み金を持ち去られるという不安感。あの淑やかな女将さんに騙されていたのだという驚き。菫さんの人生が女将さんの自分勝手な事情によりめちゃくちゃにされているという事態への怒り。
しかし、もっぱら訊ねないといけないことがあった。
「何で、僕に打ち明けてくれたのかな?」
菫さんは眉を潜めると、静かに言った。
「それは、似非カウンセラーだから」
私はかみなりに打たれたような衝撃的な顔をすると、がくがくと身を震わせながら理由を問うた。
「な……なぜご存知で?」
「馬鹿な蛙だなあ。部屋に『初心者 心理学』なんて置いて帰られたら嫌でも気付くよ」
菫さんは、ふっくら笑った。
しかし、私にはそれが悪鬼のように思え、恐怖に浸ることとなった。何か取って食われそうな雰囲気に包まれた。しかし、私の繊細で超人的な聴力は瞬く間に彼女の台詞に『悪罵』が入っていることを察知した。
「馬鹿、蛙。良いねえ! すごく良い!」
どうやら外は夕映え、窓に立て掛けられた将棋盤の輪郭はオレンジにかたどられた。そのわずかな光りが部屋を照らし、神秘的な雰囲気が室内に滲んだ。
「げ! ついにマゾヒストに目覚めたな蛙め! 吐き気がする! 帰れ!」
菫さんは、吐露して重荷が取れたのか元気を取り戻していた。
「ははは、そうだよねえ。吐き気するよねえ」
「うるさい。蛙なんだから静かにしろ。ぶっとばすよ」
そう言ってどこか楽しそうな菫さんは少女漫画を無鉄砲に投げつけてきた。
全てがこの部屋に起因し、全てがこの部屋で持ち直されている。
しかし、私にはやるべきことが残されてあった。
女将さんを更正させなければ!