第十話 作者名が果てなくテレビのあの人と似ている。
窓から見える住宅街は鉛の塊のような黒いシルエットになり、空気が重々しい。町全体にあわく見える数多の電灯は、たくさんの怪物が眼球を光らせて私を見ているようであった。
三階の菫さんの部屋からは、絶え間なく抗論のような女性の声が聞こえてくる。
『やめようよ、そんなこと』
悪罵少女として私の面目を粉々に粉砕した菫さんとは思えない弱々しい声であった。しかし声の高さであったり、喋り方の癖などから紛れもなく菫さんなのである。
『何言っているの。新しい生活が欲しいのでしょう?』
女将さんの声は穏やかなままだったが、少しだけ圧迫感があった。
私は気付かれない限界まで部屋に忍び寄った。伸ばせば引き戸に手が届く距離で背を壁に預けた。
『私はここがいいの。私はお母さんの操り人形じゃないんだよ』
『お願いだから、今は私の言う事を聞いてちょうだい。夜だけなら泊まりに来ることも許すんだから』
少しずつ二人の声に苛立ちの表情が帯びてきた。私は聴いてはいけないものを聴いているのではないかと思った。すると、恐ろしくなって今にも駆け出したくなった。しかし、足音を立てるわけにもいかず、爪先立ちでゆっくりと後退した。
『何が「許す」よ! 自分の家で、自分の部屋で過ごすのが当たり前でしょ』
『ここはあなたの部屋じゃないと思うの! 新しい居場所を素直に受け入れてちょうだい!』
私は慎重に壁をつたって一歩、また一歩と階段の方へ足を伸ばす。喉がひどく渇いていた。靴下の中が蒸れて指の隙間がはなはだ気持ち悪い。ボロアパートでも良いから早く布団に潜り込みたいと思った。
廊下の半分を過ぎた辺りで、距離が開いたためか声の内容は聞き取りづらくなったが、不意に菫さんの怒声が響いた。
『それは、お母さんの都合でしょ!? 何で私が加担する必要があるのよ! もううんざり! だいたい――』
しかし、途中で声が途切れた。何かに圧迫されて声が押し殺されたような印象を受けた。
何事かと耳を澄ませば、気息奄々と喘ぐ菫さんの声が聞こえた。
女将さんに首を絞められている。
『あなたは言うことを聞けばいいのよ! どうせ私の苦しみなんか語ったところで理解できないんだから!』
助けに行くしかないと思って踏み出そうとしたが、その瞬間に喘ぎ声はなくなり、息を荒げた菫さんの声が聞こえた。
『……ご……めんな……さい』
私はこれ以上聴いていると自分が発狂してしまうと危惧した。
『分かればいいの。じゃあ、私は部屋に戻るからね』
女将さんの声は急に穏やかさを取り戻した。足音が聞こえ、引き戸に手が掛けられて音を立てた。
私は驚いてあたふたと階段へ疾走した。足音は極限に押さえたが、もしかしたら気付かれたかもしれないと思った。しかし立ち止まる余裕はなく、そのまま階段を滑るように下って一階の玄関帳場に出た。一度『初心者 心理学』が手に持たれていることをしっかり確認して外に飛び出した。
窓から女将さんが監視しているのではないかと思い、旅館の外壁に身を隠して雑木林まで行ったが、振り返ったときにはどの出窓にも人影はなかった。
私の胸中にはまだ恐怖感が残っていて、何度も何度も菫さんの喘ぎ声が頭に再生された。私はそれを取り払うように夜の町を駆け抜けてボロアパートを目指した。
自宅に帰ってからも、あの恐怖体験の光景がまじまじと脳裏をかすめ、なかなか寝付けない。私は布団に包まりながら『初心者 心理学』を適当なページで開いて流し読みしてみた。
無意識に「ああ、確かに」「ほうほう」と頷けるような人間の心理が事細かに説明されている。私はいつの間にか読みふけっていて、恐怖感もうまく紛らわせた。
これを執筆した人間はいかにも偉大なんだろうな、と思った。
表紙を見てみると作者名に『楽さとみ』と書かれてあった。
数分間に亘りそれを眺めていたが、いつの間にか眠っていた。