第一話 椿が描かれていれば箱は高貴に見えるのか
悩みに悩んで煩悩を重ね、結局は悩むのを辞退した結果、サブタイトルは各部で思った疑問を書くことにしました。
更新は毎週、日曜の午後にする。ただし、作者の飽きやすさと怠惰な性格を考慮するのであれば、決して信じてはいけない。
私は座して女性と睨み合っていた。食台を挟んだ向こうにいる女性は『旅館 空蘭荘』の若女将であり、本日は仕事でこの旅館へ赴いた。
「それにしても、ご立派な旅館で」
私は部屋を見渡しながら、女将の表情をちらほら盗み見た。
旅館は武美山のふもとに腰を据えてあり、駐車場もなければ看板の一つも見当たらない。それどころか旅館の周囲には覆いかぶさるように雑木林が形成され、遠目に見れば木造建築の旅館は巨大な猪が横たわっているようにも見えた。
しかし、外装は古色蒼然たる当旅館もひとたび足を踏み入れれば、その豪奢な雰囲気に息を呑むこと請け合いである。由緒ある空蘭荘は何代にも渡って受け継がれてきたようで、長年に亘り堆積されてきた神秘的な気配は数多の客人を暖衣飽食の楽園へと誘導したと思われる。
「そんなことは、どうでもいいんです」
女将は私の余談をあえなく無視すると、深刻な表情で食台に手をのせた。
「すみません。カウンセリングの件でしたね」
若女将はうなずいた。
私は心理カウンセラーをやっている。しかし、同時に立派な身分詐称をしている。身分詐称とは身分を偽ることである。つまり私はカウンセラーの資格を持っていない。ならびにカウンセラーの真髄を極めているわけでもなければ専門知識をかじっているわけでもない。まごうことなき一般人である。
なにゆえカウンセラーをやっているのかというと、所憚らず簡略化して言うのであれば貧困だったからである。お金に困り、就職できないことに腹を立てているところに天使とも悪魔とも判断付かない考えが浮かんだ。中学校のころに保健室で見かけたカウンセラーの先生、あれなら私にもできるではないかと。
そして、後日から『出張! 心理カウンセラー』という胡散臭さにも限度のあるビラを配り、どうせ客などいないだろうなと下向きな予想をしていたものの、裏腹に『旅館 空蘭荘』の女将から電話が掛かってきたので、私は慌てて古本屋で『初心者 心理学』の書籍を購入した。そうして晴れて似非心理カウンセラーになったのである。
カウンセラーとは悩みを抱えた人の精神的自立を手助けする職業であるが、私自身が精神的自立を果たしていないことは、このさい棚に上げておく。
「ええ、実は娘の菫が一年前から部屋に閉じこもっているんです。多分、高校受験に落ちたことがショックだったのでしょうが。私としては、この旅館の後取りにしたいので、学歴はあまり関係ないのです。ですが、本人が何も言わないので」
女将は悲しそうに目を伏せた。
対する私は太平洋もかくやと思われる寛大な心で優しく女将の悲痛を受け止めていた振りを精一杯していた。我が師である『初心者 心理学』には相談相手の気持ちを逆撫でするべからずと記されてあったからだ。
しかし、精神的にはムンクの叫びのようになっていた。受験失敗、ひきこもり、無言少女。私には手の施しようがないではないか。今回はハードルが高すぎる。初めてなんだからもう少し簡単な相談から受け持ってみようじゃないか。
そう思った矢先に女将は食台の下から艶のある黒い箱を取り出した。蓋には椿が描かれていて、何とも高貴な箱に見えた。
「お礼金は差し上げます」
目を見張っている私の前で女将は蓋を取ってみせた。すると、中には札束が整えて置かれている。まるで大手電気家具店のレジの中のようであった。
私が差し出された大金に息を呑んでいると、女将は続けた。
「ここに三百万があります。それに加え、この箱は地方の名人がこしらえたもので、売れば百万円の価値はあります」
食台の中央に箱が差し出された。私は宝を見つけた海賊のような顔をして箱に手を伸ばした。
しかし、直後に女将が箱を奥に引っ込めて蓋をした。
「でも、これは菫を部屋から出すことができたら差し上げます」
私は取り繕うようにシャツのえりを調えると、紳士的に言い放った。
「菫さんのお部屋はどこでしょう?」