夫が私を愛していなかったと知って死んだ。十八歳に戻った私は、あの日の薔薇をもう渡さない
死ぬ間際になって、ようやく分かった。
私はずっと、一人の男を愛し続けてきた。けれどその人にとって、私は最後まで一番にはなれなかった。
十八歳の春。高校を卒業したばかりの私は、十二本の赤い薔薇を抱えて朝倉颯真の前に立った。
「颯真、好きなの。友達としてじゃなくて」
彼はしばらく私を見つめたあと、ひどくあっさり答えた。
「……じゃあ、付き合う?」
あの頃の私は、その一言だけで世界中の幸せを手に入れた気になっていた。
後になって振り返れば、あの日の「付き合う?」に恋愛感情がどれほど含まれていたのかは分からない。
その夜、白石絢香は颯真の兄、朝倉雅臣からの告白を受け入れたばかりだった。颯真は長いあいだ絢香に想いを寄せていた。それでも彼女が選んだのは、兄のほうだった。
そんな日に、自分を好きだと言う私が現れた。
きっと彼は、差し出された手をつかんだだけだった。
私はそれを、愛だと思い込んだ。
その後、私たちは結婚した。
長くそばにいれば、いつかちゃんと私を見てくれる。
私が大切にすれば、そのぶん返してくれる。
そんなふうに信じ続けた。
けれど何年経っても、絢香は私より先にいた。
彼女から電話が来れば、颯真は夜中でも車を出した。絢香が落ち込んでいると聞けば、私との約束を後回しにした。
絢香が妊娠したときなど、夫である雅臣より颯真のほうが落ち着かないほどだった。
その頃には、絢香と雅臣は結婚していた。
出産が近づいたある日、雅臣は仕事で海外に足止めされていた。陣痛が始まった絢香から連絡を受けた颯真は病院へ向かい、家族用の待合スペースで朝まで付き添った。
その夜、私も別の病院にいた。
重い肺炎だった。
長年の不眠とストレスでうつ状態が続き、身体もずいぶん弱っていたらしい。感染症はあっという間に悪化し、高熱で意識が途切れるほどになった。
何度も颯真に電話した。
けれど、一度もつながらなかった。
彼が病院へ来た頃には、腕を上げることすらつらくなっていた。
医師からは、感染の進行が早かったうえ、もともと体力が落ちていたことも悪化の一因だったらしいと聞かされた。
ベッドの横に座る颯真を見ながら、私はようやく認めた。
彼は、人を愛せない男だったわけじゃない。
ただ、その相手が私ではなかっただけだ。
最後の力を振り絞るように、彼の手を握った。
「もし、もう一度やり直せるなら……今度はもう、颯真を追いかけない」
目を閉じた瞬間、すべて終わったと思った。
ところが次に目を開けたとき、私は朝倉家の屋敷の前に立っていた。
春の風に、桜の花びらが舞っている。
腕の中には、十二本の赤い薔薇。
目の前には、十八歳の朝倉颯真。
前の人生で私が彼に告白する、その一分前だった。
1
「月乃? 俺に何か用?」
颯真が怪訝そうに眉を寄せた。
私は大きな花束を背中に隠したまま、指先に力を入れた。震えているのは緊張からではない。
本当に戻ってきた。
十八歳。
高校を卒業したばかりの三月。
前の人生では、颯真と同じ大学へ進むために、高校最後の一年をほとんど受験勉強に費やした。
彼が志望したのは、桐明大学経営学部。
本当は服飾デザインに興味があったのに、私も同じ学部を受験した。
合格発表の日、親友の森川莉奈は私以上に喜んだ。
「何年も好きだったんでしょ? せっかく同じ大学に受かったんだから、言わないまま終わったら絶対後悔するよ」
当時の私も、そう思っていた。
だから十二本の薔薇を用意した。
今夜こそ、自分の気持ちを伝えるつもりだった。
ずっと後になって知ったことだが、この夜は颯真にとっても特別な夜だった。
絢香が、雅臣の告白を受け入れた日。
長く片想いしていた人が、兄の恋人になった日だった。
そんな直後に、私が「好き」と言った。
前の人生を知る今なら、あのとき彼が私を選んだ理由もなんとなく分かる。
私に心を動かされたというより、好きだと言ってくれる誰かにすがりたかったのかもしれない。
「月乃?」
颯真の声で現実に引き戻された。
背中の花束はどう考えても隠しきれない。
私は諦めて前に出した。
「大学の合格祝い。桐明、合格おめでとう」
颯真は真っ赤な薔薇に視線を落とし、わずかに口元を緩めた。
「合格祝いに十二本の赤い薔薇?」
「花屋で見たら、きれいだったから」
「知らないやつが見たら、告白でもするのかと思うだろ」
まっすぐ見つめられる。
前なら、それだけで心臓がうるさくなるほど鳴っていた。
今は何も起こらない。
「考えすぎ。ただのお祝い」
差し出した花に伸びかけた彼の手が、途中で止まった。
「……そう」
結局、颯真は受け取らなかった。
両手をコートのポケットに入れ、そのまま屋敷のほうへ歩き出す。
数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
私は追わなかった。
前の人生では何十年も追いかけ続けた背中が、少しずつ遠ざかっていく。
あの頃は、もっと頑張ればいつか並んで歩けると思っていた。
けれど、そんな人をいつまでも追いかける必要なんてなかった。
2
朝倉家では、颯真の大学合格を祝うささやかな食事会が開かれることになっていた。
朝倉家は梓野市でいくつかの会社を経営している。父を亡くした十三歳の頃から、母の小宮恵理はこの家で住み込みのハウスキーパーとして働いていた。
屋敷の裏手には従業員用の小さな離れがあり、私たち母娘はそこで暮らしてきた。
久世家は、颯真の母・美和子さんの姉が嫁いだ家だ。
だから長男の悠人さんと颯真はいとこ同士で、昔からよく顔を合わせている。
私にとっても、名前だけは以前からよく知っている人だった。
食事会の日、私は母の手伝いで朝から厨房とダイニングを行ったり来たりしていた。
絢香さんはソファに腰掛け、優雅にお茶を飲みながらこちらを眺めている。
「月乃ちゃん、気をつけてね。今日のお料理、ほとんど有名店から取り寄せたものなんだから。落としたりしたら、恵理さんのお給料が飛んじゃうかも」
私は手を止め、彼女を見た。
「落としてから心配してもらえれば大丈夫です」
絢香さんの笑顔が一瞬だけ固まった。
前の人生の私は、こんな言い方をしなかった。
母の仕事を失わせたくなくて、誰に何を言われてもなるべく波風を立てずにやり過ごしていた。
絢香さんも、それに慣れていた。
「家政婦さんの娘なのに、ずいぶん言うようになったのね」
「まだ起きていないことで嫌味を言われても困るので」
彼女が何か言い返そうとしたとき、奥から話し声が聞こえてきた。
美和子さんと颯真のお父さん、それに雅臣さんがやってくる。
絢香さんは一瞬で表情を変えた。
「おじさま、おばさま。雅臣も来てたのね」
雅臣さんはテーブルを整えている私に気づくと、柔らかく笑った。
「月乃も桐明に受かったんだろ? せっかくだし、一緒に食べれば?」
絢香さんの笑顔がわずかに揺れた。
「今日は親戚とか、近しい人たちだけなんでしょう? 月乃ちゃんも一人だけ立場が違ったら落ち着かないんじゃない?」
そう言いながら、視線が私の左目の端へ移る。
「それに、知らない人から傷のことを聞かれたりしたら嫌でしょうし」
無意識に目尻へ指が触れた。
そこには、今も薄い傷跡が残っている。
五年前。
朝倉家の庭にあった古い木製デッキが壊れ、雅臣さん、颯真、絢香さんの三人が池へ落ちた。
見た目より深い池だった。
水泳が得意だった私は、考えるより先に飛び込んだ。
一番岸に近かった雅臣さんを浅瀬まで引っ張り、先に岸へ上げる。
かなり水を飲んでいたが、完全に意識を失ってはいなかった。
呼吸を確認してから、もう一度池へ戻った。
まだ自力でもがいていた絢香さんを岸へ押し上げ、最後にほとんど力の残っていなかった颯真のところへ向かった。
彼を引き上げようとしたとき、顔を池の縁の石に強くぶつけた。
視界の半分が血で赤く染まった。
颯真はその頃には意識が朦朧としていて、誰に助けられたのか覚えていなかった。
絢香さんだけは、はっきり見ていた。
事故のあと、彼女は従業員用の離れの裏で私を待ち伏せした。
「助けたのが自分だなんて言わないで」
「どうして?」
「恵理さん、これからも朝倉家で働きたいんでしょう?」
身体が固まった。
絢香さんは静かな声で続けた。
「黙ってれば、何も起きないから。余計なこと言ったら、おばさまに二人ともここに置けないって話すよ」
父を亡くしたばかりで、母は一人で必死に私を育てていた。
そんな母の仕事を賭ける勇気など、十三歳の私にはなかった。
だから颯真が目を覚ましても、私は何も言わなかった。
やがて、絢香さんは「危険を顧みず朝倉兄弟を救った人」になった。
朝倉家もその恩を忘れず、彼女を大切にした。
私に残った傷だけが、逆に彼女から嫌味を言われる材料になった。
「いいです」
意識を現在に戻し、雅臣さんへ答える。
「今日は母と食べます。誘ってくれてありがとうございます」
少し離れた場所にいた颯真が軽く舌を鳴らした。
「本人が嫌なら、いいんじゃない?」
私はそのまま厨房へ戻った。
参加者はそれほど多くなかった。
親戚と、朝倉家と付き合いの長い人たちだけだ。
片付けをしている途中、絢香さんが久世家の娘、千紗ちゃんと話しているのが耳に入った。
「最近の家政婦さんって、長くいるとだんだん自分まで家族みたいな顔をするのよね」
千紗ちゃんは嫌味に気づいていないらしい。
「でも恵理さん、ご飯すっごくおいしいよ。うちに来てくれないかな」
そう言って、美和子さんを見る。
「美和子叔母さん、もしこっちで恵理さんがいらなくなったら、うちに来てもらってもいい?」
「真由美姉さんのところなら、今より条件もいいでしょうね」
美和子さんは軽い調子で答えた。
その瞬間だった。
「駄目だよ」
颯真が口を挟んだ。
部屋が少し静かになる。
美和子さんが息子を見る。
「何が駄目なの?」
颯真自身、なぜ口を出したのか分からないようだった。
「……別に」
それ以上は何も言わない。
美和子さんも追及はしなかったが、私と颯真を順番に見た。
その夜、客が帰ったあと、美和子さんは母を呼び止めた。
「恵理さん、姉の家がちょうど人を探してるの。ここより条件もいいし、来月から向こうで働かない?」
口調は相談だった。
けれど、実際にはもう決まっている。
母は一度だけ私を見てから、静かにうなずいた。
「分かりました」
久世家のほうが給料も高く、住み込み用の個室も用意される。
断る理由はなかった。
颯真は少し離れた場所で、ずっと不機嫌そうな顔をしていた。
私は一度見ただけで、すぐに視線を外した。
彼がどう思っているかなんて、もう関係ない。
母が朝倉家を離れたら、私もここを出る。
もう二度と、誰かの二番目にはならない。
3
久世家へ移る前、雅臣さんに呼び止められた。
「月乃、口座番号教えて」
「どうしてですか?」
「百万円振り込む」
思わず彼の顔を見る。
雅臣さんは昔から颯真より穏やかに接してくれていたが、それでも百万円を突然渡されるような関係ではない。
「何のお金ですか?」
「五年前のこと」
雅臣さんは庭の池へ目を向けた。
「あの日、最初に俺を岸へ上げただろ。意識が戻りかけたとき、月乃がもう一度池に入っていくのを見た」
胸の奥が冷えた。
「……知ってたんですか?」
「うん」
「颯真を助けたのも私だって?」
少し間が空く。
「知ってる」
「じゃあ、どうしてずっと黙ってたんですか?」
すぐには答えなかった。
しばらくしてから、雅臣さんが口を開く。
「絢香があの件を気にしてるから」
「それで?」
「もう五年も前だろ。今さら本当のことを言ったら、みんな気まずくなる」
スマートフォンを取り出した。
「月乃にとって不公平だったのは分かってる。だから、補償はしたい」
思わず笑いそうになった。
誰に助けられたか覚えている。
それなのに「ありがとう」の一言すらなかった。
絢香さんが好きだから。
私の傷も、私が黙らされたことも、金額に換算すれば終わると思っている。
「百万円じゃ足りません」
雅臣さんが目を丸くした。
「え?」
「三人助けて、顔に傷まで残りました」
まっすぐ見返す。
「三百万円で」
穏やかだった目から温度が消えた。
「月乃。欲張りすぎじゃない?」
「お金で終わらせたいのは雅臣さんですよね?」
少し笑った。
「じゃあ、雅臣さんのやり方に合わせます。三百万円。それを受け取ったら、この件を理由に朝倉家へ何か要求するつもりはありません」
長いあいだ黙って私を見ていたが、やがてうなずいた。
「分かった」
スマートフォンをしまう。
「これで、この件は終わりにしてくれ」
一拍置いて、続けた。
「過去のことで絢香とも揉めないでほしい」
今度こそ笑いそうになった。
「さすが朝倉家のお坊ちゃんですね」
雅臣さんの眉が寄る。
「どういう意味?」
「一緒に食事するのもご褒美。命を助けたことにも値札をつける」
背を向ける。
「振り込み、忘れないでください」
「月乃」
声が冷たくなる。
「昔はこんなに面倒な子じゃなかったよね」
振り返らずに答えた。
「昔の私が、我慢しすぎてただけです」
庭を通り抜けようとしたところで、後ろから声をかけられた。
「待って」
振り返ると、池の近くに絢香さんが立っていた。
風が木々を揺らし、水面に細かな波紋が広がっている。
「人を助けたからって、いつまでも朝倉家に居座れると思ってない?」
「もうすぐ出ていきますけど」
「昔から颯真について回って、今度は雅臣と二人で長話?」
私との距離を詰めてくる。
「月乃ちゃん、まさか私の彼氏まで狙ってるの?」
思わずため息が出た。
「颯真を好きだったのは事実です」
今さら隠す必要もない。
「でも、もう過去の話です。雅臣さんとはさっき揉めてました。それまで恋愛に見えるなら、もう何を言っても無駄でしょうね」
それでも絢香さんの表情は緩まなかった。
「私が月乃ちゃんの何が嫌いか、分かる?」
目が私の顔へ向く。
「颯真は私と話してるのに、たまに月乃ちゃんの話をする。雅臣だって、あなたのことを褒めるときがある」
最後に、目尻の傷へ視線が止まった。
「そんな顔になったのに、どうしてまだ男の人に見てもらえるの?」
彼女が気にしているのは、五年前の事故だけではない。
朝倉家の男たちの視線が、自分以外へ向くことそのものが許せないのだ。
遠くから足音がした。
絢香さんが私の後ろへ視線を移す。
次の瞬間、手首をつかまれた。
「月乃ちゃん」
口元だけが笑う。
「昔から“いい子”ぶるの、好きだったよね?」
そのまま池の縁まで引っ張られた。
急に腕を強く引かれたかと思えば、私の身体は横へ押し出される。
絢香さん自身は、反対側へ大きく身体を倒した。
「きゃあっ!」
大きな水音が響いた。
絢香さんが池へ落ちた。
4
「絢香!」
後ろから颯真の声がした。
ほとんど駆けるように池の縁へ近づく。
水の中で絢香さんが必死に手を動かしていた。
「颯真! 助けて!」
しゃがみ込んだ颯真が腕を伸ばす。
「手、伸ばせ!」
わずかに届かない。
颯真の顔から血の気が引いていくのが見えた。
五年前の事故以来、彼は水をひどく怖がるようになった。
プールのそばにも好んでは近づかない。
それでも絢香さんは水の中で泣き続けている。
颯真は上着を脱ぎ捨て、池へ入った。
水面は胸の辺りまである。
青ざめたまま、一歩ずつ絢香さんのところへ進み、身体を支えて岸まで連れてきた。
引き上げられた絢香さんは、すぐに泣き始めた。
「月乃ちゃんが……急に……」
全身濡れた颯真が荒い呼吸を整えながら、こちらを見る。
目が冷たかった。
「もう待たなくていい」
私は黙っていた。
「明日、恵理さんと一緒に出ていって」
目の前の光景に、前の人生が重なる。
子どもの頃から、絢香さんと揉めるたび、颯真はほとんど彼女の側に立った。
当時の私は、いつも理由をつけて納得しようとしていた。
颯真は不器用なだけ。
絢香さんを放っておけない性格なだけ。
最後に私と結婚してくれたのだから、心のどこかでは愛されているはずだ、と。
けれど何十年にもわたる結婚生活が、その答えを教えてくれた。
私が本当に疲れ果て、諦めかけた頃になると、颯真は少しだけ優しくなった。
一緒に食事をしたり、何かを買って帰ったり、珍しく抱きしめてくれたり。
そのわずかな優しさを頼りにして、私は何度も「もう少しだけ」と自分を引き止めた。
「月乃?」
颯真の声で顔を上げる。
私は絢香さんを見た。
「五年前の事故のあと、この辺りに防犯カメラをつけましたよね?」
絢香さんの泣き顔が固まる。
「私が押したのか、絢香さんが自分から倒れたのか。映像を見れば分かります」
颯真の顔つきも変わった。
それ以上、何も言わなかった。
そのまま従業員用の離れへ向かう。
冷たい風の中、背後には濡れたままの二人が残った。
一度も振り返らない。
前の人生で何十年もかけて学んだことを、もう一度繰り返したくはなかった。
こちらが去りかけたときだけ優しくなる人を、待ち続ける理由はない。
5
――朝倉颯真
その夜、颯真は高熱を出した。
池から上がったあとも濡れた服のまま冷たい風にさらされ、部屋へ戻ってしばらくすると体温が一気に上がった。
かかりつけ医に二度往診してもらい、薬も飲んだ。
それでも熱はなかなか下がらなかった。
母の美和子がベッドのそばを落ち着きなく歩いている。
「あの池、昔から埋めたほうがいいって言ってたのよ。またこんなことになるなんて」
部屋にいた雅臣が静かに口を開いた。
「防犯カメラ、見たよ」
美和子が振り返る。
「何が映ってたの?」
「絢香が月乃の手をつかんで、池のほうへ引っ張ってた」
「じゃあ……」
「最後に後ろへ倒れたのも絢香」
美和子の顔が曇る。
「どうしてそんなこと……」
雅臣の声には、それほど深刻に受け止めている様子がなかった。
「ちょっと意地張っただけだよ。大きな怪我もなかったし」
颯真は目を閉じたまま、その会話を聞いていた。
問い返すだけの力もない。
熱に浮かされた意識の中で、知らないはずなのに妙に懐かしい映像が、次々と脳裏に浮かび始めた。
月乃は十八歳から少しずつ歳を重ねていった。
赤い薔薇を抱いていた少女が花嫁になり、やがて同じ家で暮らす妻になる。
その隣で、自分は何度も絢香を優先していた。
月乃は新婚旅行で海外へ行きたいと言った。
雪山を見たい。
服飾デザインを学びたい。
いつか自分の店を持ってみたい。
そのどれも、颯真はろくに聞いていなかった。
いつからか、月乃は静かになった。
帰りが遅くても責めず、喧嘩もしなくなり、帰宅時間さえ聞かなくなった。
当時の颯真は、それを「落ち着いた」と思っていた。
今になって振り返れば、それはただ諦めていっただけなのだと分かる。
最後に見えたのは、病院だった。
月乃はひどく痩せていた。
それなのに自分は、出産を控えた絢香に付き添うため、別の病院で朝を迎えていた。
ようやく駆けつけたとき、月乃にはもうほとんど力が残っていなかった。
それでも彼女は、颯真の手を握った。
「もし、もう一度やり直せるなら……今度はもう、颯真を追いかけない」
次の瞬間、その手から力が抜けた。
「月乃!」
颯真は勢いよく身体を起こした。
全身が冷たい汗で濡れている。
目の前は病院でも、月乃が死んだ病室でもない。
見慣れた自分の部屋だった。
鏡には十八歳の自分が映っている。
「颯真? 大丈夫?」
美和子が驚いて駆け寄る。
呼吸を整えようとしても、胸がうまく動かない。
夢ではなかった。
記憶が消えない。
結婚生活も。
月乃が少しずつ壊れていったことも。
死んでしまったことも。
「月乃は?」
美和子が眉をひそめる。
「熱でおかしくなったの? 恵理さんなら今日、姉さんの家へ移ったわよ」
「月乃は?」
「一緒には行ってないみたい。桐明の近くに短期で部屋を借りたって聞いたけど」
颯真は布団を跳ねのけた。
床へ足をつけた途端、視界が揺れる。
美和子に肩を押さえられた。
「まだ熱あるのよ。どこ行くつもり?」
けれど颯真の頭には、一つのことしか残っていなかった。
月乃も戻っている。
あの日、赤い薔薇を持っていた月乃は、本当なら告白するはずだった。
それをしなかった。
今度こそ本気で、自分から離れようとしている。
6
朝倉家を出てから、生活は驚くほど静かになった。
母は久世家で働き始めた。
給料は前よりよく、住み込み用の個室も用意してもらえた。
雅臣さんから約束の三百万円も振り込まれた。
一部は母に渡し、残りは大学の学費と生活費に取っておくことにした。
四月の入学まで、あと一か月ほど。
私は桐明大学の近くに短期で小さな部屋を借りた。
大学の勉強を先取りしながら、服飾デザインも一から学び直す。
前の人生でも、ずっと好きだった分野だった。
けれど颯真や義母から「結婚したら家にいればいい」と言われるうち、いつしか諦めてしまった。
今回は違う。
転学部には成績と作品集が必要だった。
なら、この一年でやることは決まっている。
その二つに集中するだけだ。
引っ越して半月ほど経った頃、アパートの前に颯真が現れた。
顔を見た瞬間、せっかく落ち着いていた気分が一気に重くなった。
「どうしてここ知ってるの?」
颯真が少し気まずそうに目を逸らす。
「恵理さんに聞いた」
心の中でため息をついた。
母は朝倉家を辞めても、颯真への警戒心がほとんどない。
「何の用?」
数秒黙ってから、颯真が言った。
「卒業旅行、行かない?」
「……何?」
「ノルウェーとスイス。行きたがってただろ?」
言葉を失った。
断られるのが怖いのか、彼はすぐ続ける。
「費用は俺が出す。雪山も見られるし、前から月乃が――」
「ちょっと待って」
遮った。
「私、いつノルウェーとスイスに行きたいって言った?」
この人生では、一度も話していない。
それは前の人生。
結婚したばかりの頃、ハネムーンで行きたいと話した場所だった。
結局、絢香さんが南の島へ行きたいと言い出し、颯真は彼女に付き合った。
私たちの新婚旅行は、そのまま消えた。
颯真の顔を見ているうち、嫌な予感が胸の奥に広がる。
「月乃」
彼が静かに呼んだ。
「思い出した」
私は動かなかった。
「前の人生のこと、全部」
苦笑する。
「だから分かる。あの日、あの薔薇で、本当は俺に告白するつもりだったんだろ?」
身体から熱が引いていく。
「それで?」
「前は俺が悪かった」
一歩近づいてくる。
「気づかなかったことも多かったし、月乃を傷つけた。俺たち二人とも戻ってきたなら、今度こそ――」
そのままドアを閉めた。
最後に聞こえたのは、途中で途切れた声だった。
「月乃、俺はまだ……」
その後も、颯真は何度かアパートへ来た。
最後にはっきり伝えた。
これ以上ここで待つなら、すぐ引っ越す。
それからは、来なくなった。
7
四月。
桐明大学へ入学した。
短期で借りていた部屋を引き払い、大学の女子寮へ移る。
荷物を片づけながら莉奈とビデオ通話をすると、画面の向こうで大笑いされた。
「だから高校卒業するとき、こっちの大学にしなよって言ったじゃん。朝倉くん追いかけて桐明まで受けたの、月乃でしょ?」
ベッドに倒れ込み、顔を手で覆う。
「もう言わないで」
「同じ大学だけならまだしも、同じ経営学部まで選ぶ?」
「当時の私、どうかしてたんだよ」
しかも運の悪いことに、颯真とは一年次の基礎ゼミまで同じだった。
彼はゼミの連絡係を引き受けている。
グループ課題や教室変更、提出物についてLINEで連絡が来るため、ブロックしたままにしておくわけにもいかない。
追加し直したその日から、個別メッセージが届き始めた。
「大学、まだよく分からないだろ? 一緒に回らない?」
「寮のもの、もう揃った?」
「近くに商店街あるし、週末行かない?」
しばらくして、もう一通。
「会いたい」
スマートフォンをベッドへ放り投げた。
数分後、また通知が鳴る。
「月乃が好きそうな店も多いよ」
さすがに笑ってしまった。
「私が何好きか知ってるの?」
すぐに返事が来る。
「チーズケーキ、ローストビーフ、抹茶系の甘いもの、クリームシチュー」
並んだ料理名を見ても、何も感じなかった。
「それ、全部絢香さんの好物」
返事が止まった。
私は続けて送った。
「前は絢香さんに買って、食べなかったら私に回してただけでしょ」
「颯真、もうこういう連絡やめて」
「今さら優しくされても困る」
「傷つけたくないからって、期待を持たせるつもりもない」
既読がついてから、長いあいだ何も来なかった。
眠ろうとした頃、ようやく画面が光る。
「待つよ」
「月乃が、もう一度俺を見てもいいと思えるまで」
返信はしなかった。
8
大学生活は、想像以上に忙しかった。
けれど、その忙しさが心地よかった。
前の人生みたいに、すべての時間を颯真中心に使わなくていい。
三百万円の補償金があり、母の収入も上がったことで、金銭的にも以前ほど追い詰められずに済んだ。
寮の友人たちに誘われれば、たまには外食もできる。
何より大切なのは、転学部の準備だった。
経営学そのものに興味がないわけではない。
ただ、自分が本当にやりたいのはデザインだ。
成績を落とさないよう勉強しながら、学内のデザイン講座に参加し、作品集を作り始めた。
その頃、絢香さんが頻繁に颯真のいる校舎へ来るようになった。
彼女は四年生で、授業はかなり少ない。
基礎ゼミが終わる頃に教室の外で待っていることもあった。
何度も続けば、周囲も当然気づく。
「朝倉、今日も彼女迎えに来てるじゃん」
ノートを片づけていた私は顔を上げなかった。
颯真がこちらを見た気配だけは分かった。
そのあと、低い声で絢香さんに言う。
「毎回来なくていいよ」
「なんで?」
「兄貴の彼女だろ。みんな勘違いしてる」
絢香さんの声が不機嫌になる。
「昔はあんなに私についてきたのに。こっちから会いに来たら嫌なの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
パソコンを鞄にしまう。
その先を聞く必要はなかった。
二人の問題だ。
週末はよく久世家へ行った。
母に会うことも目的だったが、千紗ちゃんの家庭教師もしている。
彼女は高校受験を控えていて、久世家からは十分すぎるほどの時給をもらえた。
そのおかげで、悠人さんとも自然に話す機会が増えた。
彼は私より三学年上で、絢香さんと同じ四年生。
成績もよく、奨学金や学内外のコンテストで何度も名前を見かける人だった。
朝倉兄弟のような、育った環境からくる華やかな自信とは少し違う。
悠人さんは落ち着いていて、人との距離の取り方も上手だった。
家庭教師が遅い時間まで続いた日は、大学へ戻るついでに送ってくれることがある。
遠方の大学へ進んだ莉奈に会うため、安い航空券を取って出かけることもあった。
作品制作のために布を買ったり、自分で服を直したりしているうち、着るものの雰囲気も少しずつ変わった。
私にとっては、全部ただの日常だった。
けれど絢香さんは、それを別の物語に変えた。
最初は、
「月乃ちゃんのお母さん、前は朝倉家の住み込みの家政婦だったのよ」
という程度だったらしい。
それ自体は隠していない。
誰も特に気にしていなかった。
けれど少しずつ、話が変わっていった。
「普通の家庭なのに、よく高そうな車で送ってもらってる」
「週末も遠くへ出かけてるよね」
「服だって、そんなにお金ない子には見えないし」
やがて誰かが言い始めた。
「パパ活でもしてるんじゃない?」
一度そういう言葉が出れば、説明より噂のほうが速い。
気づいた頃には、校内で妙な視線を感じるようになっていた。
すれ違った男子学生が、わざと聞こえる声で話していた。
「目元の傷、逆に目立っていいんじゃない?」
「金出す男がいるのも分かるわ」
足を止める。
そのまま二人の前へ回り込んだ。
「今、何て言った?」
まさか直接聞かれると思っていなかったのか、二人とも一瞬固まった。
片方が誤魔化すように笑う。
「別に。金持ちの彼氏いるんだって?」
「誰から聞いたの?」
「白石先輩」
もう一人も口を挟む。
「朝倉と仲いいし、月乃のこと詳しいんじゃないの?」
胸の奥が熱くなる。
「車で送ってくれる人は、家庭教師をしてる家の息子さん。同じ桐明大の学生」
二人の表情が変わった。
「ほかには?」
「昔、白石先輩を池に突き落としたって」
思わず笑いが漏れた。
そこまで持ち出すのか。
まず颯真にLINEを送った。
「池の件、防犯カメラ見たよね。私が絢香さんを押してないことは分かってるはず」
「今、それを学校で言いふらされてる。事実だけ説明してほしい」
すぐに返事が来た。
「今、大学の外」
続けて、
「すぐ戻る。一人で絢香のところ行かないで」
「待ってて」
今度は悠人さんにも事情を送った。
高級車で送迎していると言われている以上、彼も当事者だ。
こちらもすぐ返事が来る。
「今、大学の近く」
「月乃ちゃん、先に行かないで。俺も向かうから」
二人を待つ気はなかった。
先に寮のグループLINEで事情を説明する。
「月乃が週末家庭教師してるの、私たち知ってるよ」
「前にも噂聞いたから説明したけど、信じない人もいた」
「一緒に住んでるんだから、どんな人かくらい分かるって」
画面を見ながら、少しだけ肩の力が抜けた。
その直後、同室の藤井美咲から個別メッセージが来た。
「白石先輩、第二講義棟の近くにいるよ」
上着を手に取った。
「行ってくる」
9
第二講義棟まで走った。
ちょうど絢香さんが階段を下りてくる。
「絢香さん!」
声をかけると、目に見えて驚いた。
周囲にいた学生も何人か足を止める。
「私がパパ活してるって言いふらしてるんですか?」
すぐに平静を取り戻したような顔になる。
「私、そんなこと言ってないけど。知ってることを話しただけ」
「家がお金持ちじゃないのに高そうな車で帰ってくるとか、よく遠出してるとか?」
「違うの?」
「週末は久世家で家庭教師してます。送ってくれるのは、その生徒のお兄さんです」
絢香さんが笑った。
「家庭教師?」
露骨に馬鹿にするような目を向けてくる。
「桐明に入るためにあれだけ必死だった月乃ちゃんが、人に勉強教えるの?」
周囲の空気が少し変わった。
大学へ入ってから、私はほとんど毎日のように図書館へ通っている。
成績は学年でも上位だった。
デザイン関係のコンテストにも参加している。
一方の絢香さんは四年生になってから不足単位が増え、卒業が危ういとまで噂されていた。
何か言おうとしたとき、後ろから声がした。
「月乃ちゃんは毎週、うちで妹に勉強教えてるよ」
一斉に振り返る。
悠人さんがスーツ姿で歩いてきた。
就活帰りらしい。
「遅い時間になった日は、俺が大学まで送ってる」
絢香さんを見る。
「それの何が問題?」
顔色が変わった。
「私、そんなの知らなかったし――」
「知らなかったら、何言ってもいいの?」
悠人さんの声は穏やかなままだった。
「本人に確認もせず、金の出どころが怪しいみたいに言うのは違うでしょ」
絢香さんが口を閉じる。
周囲のざわめきも、さっきとは違うものになっていた。
「池のことも」
今度は別の声がした。
人の間から颯真が現れる。
急いで戻ってきたらしい。
視線を絢香さんへ向ける。
「映像、見た」
彼女の顔が白くなった。
「月乃は押してない」
淡々と言葉を続ける。
「絢香が月乃の腕をつかんで、自分から後ろに倒れてた」
「颯真……」
「なんで今も、月乃がやったって言ってるの?」
絢香さんの目に涙が浮かぶ。
「何よ……みんな月乃ちゃんの味方?」
誰も答えない。
声だけがどんどん弱く、幼くなっていく。
「一人も私のこと信じてくれないじゃない。みんなで私を悪者にするんだ」
そのまま人混みを抜けて走り去った。
周囲も徐々に散っていく。
私は悠人さんを見た。
「ありがとうございました」
「何が?」
「来てくれなかったら、もっと説明が面倒だったと思います」
少し笑う。
「本人が目の前にいるのに、噂のほうを信じる理由ないでしょ」
ふと思い出して尋ねた。
「池の話は?」
「池?」
「私が絢香さんを押したっていう話。信じたことあります?」
数秒考えたあと、首を振る。
「ない」
「どうして?」
「俺が知ってる月乃ちゃんは、そういうことしないから」
あまりに自然な答えだった。
「それに今日は、月乃ちゃんの側に立つつもりで来たし」
何を返せばいいか分からなくなる。
悠人さんが、私の髪に軽く触れた。
「悠人」
横から颯真の声がした。
表情が険しい。
「月乃のこと、好きなの?」
悠人さんは一瞬止まり、それから笑った。
「うん」
私へ目を向ける。
「好きだよ」
少し照れたように続けた。
「今、ちゃんと振り向いてもらおうとしてるところ」
颯真の顔がはっきり曇る。
「駄目だ」
さすがに腹が立った。
「颯真に決める権利ないでしょ」
彼がこちらを見る。
「月乃、俺たち――」
「今は何の関係もない」
途中で止める。
「私が誰と付き合うか、颯真に許可をもらう必要もないから」
悠人さんの視線がずっとこちらに向いている。
気づくと、かえって落ち着かなくなった。
ちょうど次の授業の時間が近い。
「じゃあ、私、行きます」
悠人さんに軽く頭を下げ、そのまま校舎へ向かった。
10
――朝倉颯真
それから、颯真は以前のように何度も月乃を追いかけなくなった。
諦めたわけではない。
ただ、自分が近づこうとすればするほど、月乃が離れていくことに気づき始めていた。
そんな朝倉家を大きく揺らしたのが、雅臣の事故だった。
絢香が大学を卒業したあと、両家の間では正式に婚約が決まり、発表の準備も進んでいた。
その矢先、雅臣が友人と海外旅行中、サーキットでの体験走行中に大きな事故を起こした。
一命は取り留めたものの意識は戻らず、医師からも短期間での回復は難しいと言われた。
事故のあと、絢香はしばらく颯真の前に姿を見せなかった。
ある日突然訪ねてきたとき、目はひどく腫れていた。
「颯真、助けて」
「どうしたの?」
絢香が袖をつかむ。
「お父さんもお母さんも、婚約を解消しちゃ駄目だって言うの」
声が震えている。
「雅臣が事故に遭った直後に別れたら、白石家がどう見られるかって」
颯真は黙って聞いていた。
「うちの会社も朝倉家との取引が多いから、せめて雅臣の状態が落ち着くまでは婚約者として付き添えって」
涙を浮かべて顔を上げる。
「でも、もし雅臣がずっと起きなかったら?」
颯真は眉を寄せた。
「俺にどうしてほしいの?」
袖をつかむ指に力が入る。
「おじさまに言って」
「何を?」
「私と結婚したいって」
颯真は答えなかった。
「颯真が私と結婚するって言ってくれたら、雅臣との婚約を続けなくて済むでしょう?」
長い沈黙が落ちた。
前の人生の自分なら、こんな言葉を聞けば喜んだかもしれない。
長く好きだった絢香が、自分との結婚を求めているのだから。
けれど今、頭に浮かんだのは病院のベッドで眠り続けている兄だった。
雅臣はまだ事故に遭ったばかりだ。
それなのに絢香は、どう支えるかではなく、どう婚約から逃げるかを考えている。
「無理だよ」
絢香が固まる。
「……何が?」
「結婚できない」
「どうして?」
答えずにいると、信じられないものを見るような顔をされた。
「昔はずっと私のこと好きだったじゃない」
颯真は目を伏せた。
確かに好きだった。
そのために、月乃から差し出されていたものを少しずつ踏みにじった。
失ってから、それが何だったのかを知った。
「ほかのことなら、できる範囲で助ける」
静かに言う。
「でも、結婚は無理」
「月乃ちゃんのせい?」
否定しなかった。
絢香の表情がゆっくり変わっていく。
「本当に、あの子のこと好きになったの?」
答えは言葉にしなかった。
沈黙だけで十分だったらしい。
「誰があなたを助けたと思ってるの!」
絢香の声が急に大きくなった。
「私は命懸けで池に入って、颯真と雅臣を助けたのよ。だから少しくらい私を大事にしてくれて当然でしょう?」
颯真の呼吸が止まりかける。
あのときの恩。
それが、絢香から完全に離れられなかった理由の一つだったことは否定できない。
それでも首を横に振った。
「恩は返す」
一拍置く。
「でも、結婚は恩返しでするものじゃない」
絢香は長いあいだ彼を見つめていた。
やがて、小さく笑い始める。
「颯真って、本当に馬鹿」
眉を寄せる。
絢香が一歩近づいた。
「まだ、私が助けたって信じてるんだ?」
声が低くなる。
「じゃあ教えてあげる」
胸の奥に嫌な感覚が広がった。
「あのとき颯真を助けたの、月乃よ」
身体が固まった。
「……何?」
「聞こえたでしょ」
絢香は笑っている。
「雅臣も知ってる。岸に上げられたあと少し意識が戻って、月乃がもう一度池に入るところを見てたから」
頭の中で何かが弾けた。
月乃の目尻に残った傷。
その傷について触れられるたび、彼女がわずかに目を逸らしていたこと。
前の人生で何度も「絢香は命の恩人だから」と言いながら、月乃に我慢させたこと。
ばらばらだった記憶が一気につながっていく。
「そんな……」
「何がそんなの?」
絢香の目にはもう涙もなかった。
「あの傷だって、颯真を助けたときについたんだよ」
一歩下がる。
「どう?」
笑みが深くなる。
「本当に助けてくれた月乃を、ずっと後回しにしてたって知って、どんな気分?」
さらに追い打ちをかける。
「しかも、今じゃ月乃はもう颯真のこと好きでもない」
何も言えなかった。
今度ばかりは、自分を正当化する理由が一つも思いつかなかった。
11
悠人さんと映画館を出た頃には、女子寮の門限が近づいていた。
最近話題の恋愛映画だったけれど、内容そのものはごく普通だった。
それでも隣に悠人さんがいるだけで、上映中ずっと落ち着かなかった。
大学へ戻る道でも、彼はいつもより口数が少ない。
少しでも一緒にいられるように、歩く速度を落としている気がした。
右手には、悠人さんからもらった花束。
十二本の真っ赤な薔薇ではない。
淡い色の小さな薔薇とカスミソウが数本。
歩くたび、悠人さんの指先が左手に触れ、そのたびに少し気まずそうに離れていく。
何度か繰り返したあと、本人が先に小さく咳払いした。
「月乃」
それまでずっと「月乃ちゃん」と呼んでいた声が、少しだけ近く聞こえた。
「はい?」
「手、つないでもいい?」
一気に耳が熱くなった。
言葉では答えられず、小さくうなずく。
次の瞬間、左手を包まれた。
掌が温かかった。
前の人生では、颯真に人前で手をつないでもらうだけでも、ずいぶん時間がかかった。
今こうして悠人さんと歩いていると、あれほど必死に欲しがっていたものが、ずっと昔のことのように思える。
寮が見えてきたところで、入り口近くに人影があった。
近づいて、颯真だと分かる。
目が赤かった。
かなり前から待っていたのだろう。
「月乃」
まっすぐ立ち上がる。
「話がある」
悠人さんが眉を寄せた。
私はつないだ手を軽く叩く。
「大丈夫です。先に帰ってください」
「本当に?」
「はい。ちゃんと話します」
颯真へ一度だけ視線を向ける。
「何かあったらすぐ電話して」
うなずくと、ようやく悠人さんは歩き出した。
背中が見えなくなったところで、颯真がこちらへ来る。
いきなり手首をつかまれた。
「月乃、分かったんだ」
眉をひそめる。
「離して」
すぐに手を放した。
けれど目は逸らさない。
「五年前、俺を助けたの……月乃だったんだな」
何も言えなくなる。
「絢香から聞いた」
声が掠れていた。
「雅臣も知ってた」
目が赤くなる。
「月乃、ごめん」
胸の奥に、少しだけ苦いものが広がった。
けれどそれは、もう恋ではなかった。
「前の人生で、何度も機会はあったよ」
颯真の肩がこわばる。
「絢香さんを命の恩人だと思ってたことを責めてるわけじゃない。恩返ししたかったのも分かる」
まっすぐ彼を見る。
「でも私と付き合ったあとも、選ぶ場面ではいつも絢香さんを選んだよね」
「月乃……」
「それは、誰が颯真を助けたかとは別の話だよ」
颯真の目から涙が落ちた。
「変わるから」
低い声だった。
「月乃が欲しかったもの、今なら全部できる」
「颯真」
「前は、あんなに俺のこと好きだっただろ」
何かにすがるような目をしている。
「本当にもう何も残ってない? 一回だけ、もう一回だけやり直せない?」
小さく息を吐いた。
「残ってないよ」
身体から力が抜けたように見えた。
「前はね、ずっと待ってた」
少し間を置く。
「いつか私を一番に選んでくれるって」
颯真は黙っている。
「でも、もう待ちたくない」
それだけで十分だった。
「誰かの二番目にも、もうなりたくない」
何か言おうとして、颯真の唇が動く。
けれど声にはならなかった。
「今、好きな人がいる」
悠人さんを思い浮かべると、心が静かになる。
「颯真」
最後に、きちんと名前を呼んだ。
「前の人生は終わったよ」
「私たちも、もう終わってる」
一歩後ろへ下がる。
「じゃあね」
颯真の腕が力なく身体の横へ落ちた。
そのまま寮へ入る。
階段を上がったところで、一度だけ窓から下を見た。
颯真はまだ街灯の下に立っていた。
長く伸びた影だけが、やけに寂しく見えた。
すぐにスマートフォンが震えた。
悠人さんからだった。
「寮、入った?」
続けてもう一件。
「嫌なことされてない?」
思わず笑った。
「大丈夫です。ちゃんと話せました」
ほとんど間を置かず返事が来る。
「ならよかった」
スマートフォンをしまい、階段を上がった。
もう振り返らなかった。
その後、颯真のことは時々、人づてに耳にした。
長いあいだ精神的にかなり不安定だったらしく、カウンセリングにも通ったという。
雅臣さんの事故をきっかけに朝倉家と完全に揉めた絢香さんも、たまに颯真のところへ現れたらしい。
二人で昔の傷を掘り返しては、互いに苦しめ合っていると聞いた。
大学の近くで、遠くから颯真を見かけたことも何度かある。
もう声をかけてはこなかった。
私も気づかないふりをした。
その代わり、隣にいる人の手を少し強く握る。
この人生では、誰かの予備にはならなかった。
いつか自分を見てくれる人を、待ち続けることもしなかった。
私をきちんと見て、大切にして、迷うべき場面で迷わずこちらへ歩いてきてくれる人に出会えた。
だから今度は、私もその人のほうへ歩いていく。




