一杯目「初恋の紅茶」
その日は、高校2年生の夏休み初日だった。
図書館で勉強した帰り道、太陽が真上に来るぐらいの時間帯に、僕は帰り道を急いでいた。
とにかく暑くて、息をするのにも体力を使った。
軽く、熱中症になりかけていたかもしれない。
アスファルトからは熱気が立ち上っていた。
僕は、以前いた街を思い出しそうになって、頭を軽く振った。
僕は都会からこの田舎町に引っ越してきたばかりだった。
学校は、夏休み明けからこちらの学校に通う。
だからまだ、頭ではこの町に馴染む実感が湧いていなかった。
それでも、別にあっちの学校で、仲のいい奴もいなかったし、この夏休みの間に慣れることに努めるつもりだ。
しかし、こうも暑いと、立ち並ぶビルで日陰が沢山ある都会が忘れられなくなっていた。
僕の喉はどんどん乾燥していき、どうしても家まで我慢できなくなっていた。
どこかで少し休みたい。
そう思って、きょろきょろと、辺りを見渡しながら歩いてしばらくした時。
その店が目に入った。
最初は店だなんて思っていなかった。
だけど、小さな看板がここは喫茶店だと主張しているのを見ると、やはりお店なんだろう。
信じるのが難しい理由は、その建物がお店というより、家にしか見えなかったからだ。
古めかしい、いかにも日本家屋だというような瓦の乗った家。
隣の神社の裏山からの茂みがまるで取り込もうとしたかのように生い茂っている。
門は錆びついているし、庭こそ手入れされているが、とにかく古い家だった。
少し前に流行った古民家カフェとかいう奴だろうか。
いつもの僕なら、絶対に立ち寄らないような、寂れた店だった。
だけど、この時の僕は、いつもの僕ではない。
なにせ、堪え切れないほど喉が渇き、涼けさを求めていたから。
迷う余地はなかった。
僕は、その家の扉を開けて、ベルを鳴らした。
入ると、涼しい風が頬を撫でていく。
その家ーーいやお店は、中は綺麗に整えられていて、三から四人が座れる小さなカウンターと、そう多くないテーブル席が並んでいた。
レトロな暖かみのある橙色の灯りを灯すランタンが、落ちついた雰囲気を醸し出している。
カウンターの奥から女性の落ち着いた声が聞こえる。
涼しげで、だけど、どこか芯のある声だった。
声のする方へ顔を向けると、その瞬間、僕の時が止まった。
その店員さんと思われる女性は、僕が今まで出会った人の誰よりも美しく、まるで、天女や女神のような人間離れした美貌をしていた。
歳は二十代半ばくらいだろうか、長い艶やかな黒髪を花の簪で纏めている。
黒地に紫の花が散りばめられている着物を身に纏い、その上から似合わない白い割烹着を掛けている。
花の柄は、おそらく桔梗だろうか?
彼女に似合っている花だと感じた。
目元の泣きぼくろが、心臓が震えるほど色っぽくて、顔を直視できないでいた。
その女神がこてんと首を傾げながらこちらを見ている。
僕は、その美しさに圧倒されて彼女が何か言っているのを聞き取れなかった。
今思えば、おそらく人数を聞かれたのだと思う。
だけど、その時の僕にはそれを聞き取る余裕がなかった。
一目惚れだった。
僕が何も言わずに、立ち止まっているのを見て、彼女は困ったような顔をする。
それに、はたと気づいて、謝りながら一人だと伝える。
彼女は、僕に好きな席に座るように伝えて、お冷の準備に動き始める。
本当なら、カウンターに座りたかったけど、どうしても気恥ずかしい僕は、端の二人掛けのテーブル席に腰掛けた。
彼女がお冷とメニューを持って、僕の方に近づいてくる。
僕はそれを縮こまって、上目遣いに見た。
彼女がメニューについて教えてくれて、こんなことを言ってきた。
「あらためて、いらっしゃい。ここは初めてよね?ここでは紅茶を売りにしているのだけど、お苦手はないかしら?」
僕は、彼女の問いかけに息を呑みながら、首を縦に振って答える。
すると、目元を和らげた彼女が、少し嬉しそうな声を上げた。
「そう、よかったわ。メニューを見て?気に入ったものがあれば教えてちょうだい?」
正直、紅茶は好きでも嫌いでもない。
冷たい飲み物であれば、なんでもいい。
だけど、この女神にそれをそのまま伝えるには、度胸も勇気もなかった。
困った僕は、とにかくメニューを眺めた。
とにかく、聞いたことのある紅茶の名前を探した。
すると、一つのメニューに視線が止まる。
[あなたへおすすめ 700円]
それは、説明も何もなかったが、手持ち金の気になる僕でも頼みやすく、おすすめだという言葉にも惹かれ、その文字に指差した。
「あの......この、おすすめって何ですか?」
緊張で、掠れてはいたが、声は震えていないことを祈るばかりだ。
彼女は、ただ、そんな僕の様子を知ってか、知らずか。
落ち着いたあの声で説明をするのみだった。
「このおすすめでは、あなたのお気に入りを一緒に、探すのをお手伝いするメニューなの。
今は、暑い日が続いているから、アイスの紅茶の方がいいかしら?」
僕は内心、いい流れだと思った。
彼女と話せて、尚且つ、自分の望んだものが手に入りそうだからだった。
「それで!アイスで、そのおすすめでお願いします!」
思わず、食い気味に言い放った。
彼女はまた、落ち着いた、だけどまるで子供に教えるかのように優しく、話してくれた。
「そうね、それじゃあ、貴方は紅茶は普段良く嗜むのかしら?ミルクやレモンはお好き?」
「好きです!!」
また、食い気味にこの口が勝手に言葉を話した。
顔が熱くなるのがわかって、俯く。
「ふふっ。それじゃあアイスで、レモンにもミルクにも合うものがいいかしら?そうね......ニルギリなんてどうかしら?」
「にるぎり......それで!あの、レモンでお願いします。」
正直、聞いたこともない紅茶だったが、彼女のおすすめだ。どんなものでも飲み干してやる。
僕の中で、謎の使命感が生まれた。
彼女は、一つ微笑んだ後、カウンターの向こうに入って、何やら作業を始めた。
僕は、まずは渇いた喉を潤す為に、持ってきてもらったお冷に手を掛ける。
......はぁ、生きてるって感じがする。
お冷の氷を口の中で転がりながら、落ち着かない気持ちで店内を見渡した。
しばらくして、彼女がお盆にグラスを乗せて、こちらへ来る。
テーブルに紅茶の入ったグラスと小さなサブレが二枚乗った豆皿が置かれる。
どうやら、サブレはサービスらしかった。
彼女に聞くと、紅茶に合わせてくれたらしい。
グラスに入った黄金色の紅茶を見る。
レモンの輪切りが、グラスに掛かっていて、豪華な印象を受けた。
ひとまず、ストローを吸い込み、口に入れる。
すっきりと飲みやすくて、シロップを入れていないのに甘味があって美味しい。それと、ほのかにレモンとは少し違う、柑橘系の香りがする。
これは、好きかもしれない。
普段、紅茶を飲まない僕でも、いつも飲んでいるものとは違うと感じた。
『初恋のキスはレモンの味』だと良く聞くが、それは初恋の紅茶もそうだったのかと、一人で納得する。
サブレを一つ、ひょいと口に入れて、アイスティーで流し込む。
バターの香しさとすっきりとした紅茶が合わさって、また別の顔を魅せる。
思わず、口元が緩んだ。
その様子を見て、女神は、ただ微笑むだけだった。
この日を境に僕は、この女神のいるティールームに何度も足を運ぶことになった。
愛逢月




