合わせ鏡
2022年2月22日22時22分。「2」が並ぶこの瞬間、何かが起きるのではないか。そんな他愛もない遊び心のつもりだった。
都内のアパートに住む大学生の佐藤健は、オカルトに少々興味があり、リサイクルショップで買った二枚の古い姿見を、狭いワンルームの真ん中に向かい合わせで設置した。いわゆる「合わせ鏡」だ。不吉な迷信は知っていたが、SNSに投稿するネタが欲しかった。
時計の数字がすべて「2」に変わったその瞬間、健のスマホのカメラ越しに、異変が起きた。合わせ鏡によって作られた無限に続く光の回廊。その瞬間、二枚の鏡の間を「何か」が通り抜けた。それは、わずか50センチほどの隙間を、確かに横切ったのだ。
健は息を呑んだ。生き物のようだったが、輪郭はひどく曖昧で、色彩は古い写真を煮詰めたような灰色だった。羽音とも低い呻きともつかない音が、一瞬だけ部屋の空気を震わせた。
「……え?」
思わず、床にに視線を落とすが、そこには埃っぽいフローリングがあるだけだ。しかし、健の心臓は早鐘のように鼓動している。
その夜から、健の日常は少しずつ「反転」し始めた。最初は、些細な違和感だった。そして、利き手が変わった。右手で箸を持とうとすると、指がうまく動かない。左手を使うと、まるで最初から左利きだったかのようにスムーズに動いた。次に、手書き文字が変わった。ノートに書いた文字が、すべて鏡文字になった。自分では普通に書いているつもりなのに、読み返そうとすると鏡に映さなければ読解できない。(まるでダヴィンチじゃん)と思う。そして、事態はさらに深刻な方向へ進んだ。
3日後、健は鏡を見るのが怖くなった。鏡の中に映る自分の部屋が、現実よりもわずかに鮮やかに見えるのだ。逆に、自分が今立っている現実の世界は、あの日、鏡の間を通り過ぎた「何か」と同じ、色彩を欠いた灰色に褪せてきているように見える。
「おい、健。顔色が悪いぞ」
大学の友人に肩を叩かれたが、その手の感触がひどく遠い。まるで、分厚いコートの上から触れられているような感覚。友人の声も、閉じた窓を通して聞いているようにこもって聞こえる。
一方で、部屋に置き去りにしたあの二枚の鏡からは、賑やかな雑踏の音が聞こえ始めていた。鏡の中の世界が、こちら側の活力を吸い取っているようだった。
健は、ある考えに思い至った。あの日、鏡のあいだを通り過ぎたのは「異世界の住人」などではない。おそらく、あれは「入れ替わりのスイッチ」だったのだ。鏡を通過した「何か」は、健の「実体」を鏡の中へと連れ去り、代わりに「虚像」をこの現実に放り出した。そして今、虚像である健の身体は、霧のように消えかかっている。
健は震える手で、再び二枚の鏡を向かい合わせた。 今、鏡の向こう側では、あの日とは逆に「色彩に満ちた自分」が、こちらを嘲笑うように見つめている。
「返せ……」
健が鏡に手を触れた瞬間、指先がひんやりとしたガラスを通り抜け、向こう側の「温かい手」に掴まれた。彼は、鏡の中の「自分」の手に強く引き込まれそうになりながらも、本能的な反射で踏みとどまった。視界の端で、部屋の壁が、机が、そして自分の足元が、まるで暖められた水溶き片栗粉のように透け始めている。(このままでは消える)健は死に物狂いで、自由な方の手を伸ばし、近くに転がっていた3kgのダンベルを掴んだ。
「ふざけるな……ここはお前の場所じゃない!」
健は渾身の力を込め、自分の手を掴んでいる鏡に向かってダンベルを叩きつけた。
バッシャン!
耳を劈くような破砕音が響き渡った。しかし、鏡はただ割れただけではない。砕け散った破片の一つ一つに、驚愕の表情を浮かべた「鏡の中の健」が映り込み、一斉に悲鳴を上げた。
次は、もう一枚の鏡だ。健はガラスの破片で手が切れていることも構わず、ダンベルを両手で掴み、残っている鏡にそれを打ち下ろした。
二枚目の鏡が粉々になった瞬間、部屋を満たしていた奇妙な振動が止まった。鏡の向こうの手は、煙のように霧散し、掴まれていた手首には火傷のような赤い跡が残った。
健は激しく喘ぎながら、床に散らばった鏡の破片を見下ろした。 部屋には、色が戻っていた。自分の手を見ても、もうくすんではいない。右利きに戻っている感覚もあった。
「……終わったのか?」
冷や汗を拭い、健は立ち上がった。割れた鏡の破片は、もう何も不気味なものは映してはいない。ただの鋭利なガラスの山だ。彼は安堵し、散らかった部屋を片付けるために箒と掃除機を取りに向かった。
そして、ふと気づいた。 掃除機のスイッチの位置が、逆になっている。健は凍りついた。 部屋を見渡すと、カレンダーの文字も、ポスターの絵も、すべてが鏡像になっている。彼は、恐る恐る鏡像の位置に移った窓の外を見た。 そこには、見慣れた街並みが広がってはいたが、建物、通りの標識、走っている車のナンバープレートが、すべて鏡に映ったように逆向きになっている。
健は鏡を壊して脱出したのではなかった。 鏡を破壊した瞬間、鏡の中の世界を現実として確定させてしまったのだ。足元に落ちている鏡の破片の一つに、ふと目が留まった。 そこには、色彩を失ったモノクロームの世界で、絶望に顔を歪めながらこちらを見上げる「本物の健」が映っている。今の自分は、何なのだ? 健は震える手で自分の顔に触れたが、その肌には確かな体温と、生々しい感覚が宿っていた。
健は、逆転した世界で「偽物」として生きることを拒絶した。足元の鏡の破片に映る「本物の自分」——色彩を失い、絶望に沈むあの男こそが、本来あるべき自分なのだ。健は散らばったガラスの破片をかき集め、血痕が残っている手でそれらを繋ぎ合わせようとした。しかし、一度壊れた鏡は、単なる物理的な修復では元に戻らなかった。
(出口は、きっとどこかに在る筈だ……。あの瞬間、何かが通り過ぎた場所なら……)
健は、「何か」が駆け抜けた鏡と鏡の間の空間を凝視した。そこには今、何もない。しかし、空気を手で探ると、ある一点だけが異常に冷たく、静電気のような痺れを感じる場所があった。
(ここかも知れない……)
空間に浮いた、目に見えない「穴」。 鏡は壊れても、あの瞬間に生じた「通路」は、まだ完全に閉じてはいなかったのだ。
健は、どうすべきかを思案した。そして、根拠はなかったが、部屋中の光源を集めて、周囲からその「通路」を照らした。デスクライト、懐中電灯、スマホのライト、それらすべてが、そこに集中したとき、虚空に細い亀裂が走った。
その亀裂の向こう側には、色を失った、しかし「正しい」向きの世界が見えた。
(戻るんだ!)
健は、その隙間に指をかけ、無理やりこじ開けるようにしてその中へ身を投じた。感覚が引き裂かれるような衝撃。上下左右が消失し、自分という存在が液体になってパイプの中を流されるような不快感。その最中、健は再び「あの生き物」とすれ違った。それは、無数の瞳を持つ影のような存在だった。 そいつは健とすれ違う瞬間、無機質な声でこう囁いた。
「——次は、もう戻れないぞ」
帰還。そして……気がつくと、健は床に倒れ伏していた。 喉を焼くような渇きと、激しい頭痛。恐る恐る顔を上げると、そこには見慣れた、色彩の薄い「元通りの」自分の部屋があった。
時計を見る。デジタル時計の数字は、2022年2月22日 22:23。 あの悪夢のような時間は、現実にはわずか1分足らずの出来事だったのか。
健は這うようにして洗面所へ向かい、鏡を覗き込んだ。 そこには、現実の右利きを映す、文字通りの鏡像が映っていた。
「戻った……戻ったんだ」
安堵の涙がこぼれそうになったその時。 健は、鏡の中の自分の背後に、あるはずのないものが映り込んでいることに気づき、凍りついた。
鏡の中の部屋の隅に、二枚の古い姿見が、まだ割れずに、向かい合わせで立っているのだ。——現実の部屋には、もう鏡の破片すら残っていないというのに。
鏡の中の「合わせ鏡」は、無限の回廊を作り出している。 そして、その無限に続く反射の奥の奥、肉眼では捉えきれないほど遠い場所から、何かがこちらに向かって、猛烈な勢いで駆け寄ってきているのを直感した。それは、一度逃がした獲物を、決して許さないという意志を持っているかのようだった。
「……あ」
健が声を漏らす前に、洗面台の鏡に映る背後の合わせ鏡から「何か」が飛び出し、次に洗面台の鏡の向こうから鏡の表面に激しく激突した。
ドンッ!
洗面台の鏡に、ひびが入った。健は、割れかけた鏡を必死に手で押さえた。鏡に入ったひび割れから、ひんやりとした空気が漏れ出してくる。振動が収まった隙に、健は震える手でそのひびをガムテープで塞ぐと、狂ったように家を飛び出した。
向かう先は、あの二枚の鏡を購入した場末のリサイクルショップ「九十九堂」だ。夜の街を走りながら、健は確信していた。あの鏡はただの古い家具ではない。何らかの「曰く」があるはずだ。
商店街の外れにある、シャッターの錆びついた店にたどり着いた。しかし、健はそこに在り得ない光景を見た。数日前に鏡を買ったばかりだというのに、シャッター前には「都合により閉業します。平成28年12月」と書かれた古びた立て看板が置いてある。
「嘘だろ……。俺はここで、確かに買ったんだ!」
健は半狂乱で店の後ろ側に回り、そこにあった窓を試した。窓の一つが開いたので、よじ登って中に入った。吹き込んだ風で埃が舞った店内を懐中電灯で照らし、何か手がかりがないか探した。そこは、何年もの間、誰も足を踏み入れていないような死んだ空間だった。
しかし、店の奥、受付カウンターと思われる場所に、一冊の分厚い「仕入帳」がぽつんと置かれていた。健はページをめくった。指先が埃で汚れる。探していた記述は、最後のページに、震えるような筆致で記されていた。
品目:合わせ鏡(対)
由来:廃寺の「不還の間」より回収。
警告:この鏡二枚を向かい合わせる時は、『2』が並ぶ刻限を避けなければならない。なぜなら、それは門となり、向こう側の住人が『食餌』のためにこちらの肉体を通路として利用するから。
「食餌……?」
さらに読み進めると、そこには衝撃的な記述があった。
「通過者は一度につき一人。入れ替わった者が戻るには、再び同じ刻限に門を開くしかない。ただし、戻れるのは『中身』だけであり、最初に門を開いた者の『影』は、永遠に向こう側の住人の依代として残る」
健は戦慄した。自分が先ほど戻ってこれたのは、幸運だったからではない。あの日、鏡の間を通り過ぎた「何か」が、健の影を身代わりに奪って居座ることで、健の本体をこちら側に弾き出したのだ。
その時、店内の古い振り子時計が重々しく鳴り始めた。まだ23時だというのに、時計の針は猛烈な勢いで回転し、22時22分を指して止まった。
背後で、ガシャリと音がした。振り返ると、店内に並んでいた大量の古びた鏡たちが、いっせいにこちらを向いている。どの鏡にも、健の姿が映っているが、鏡の中の健には、「影」がない。
「……見つけたぞ」
すべての鏡の中の健が、同時に口を開いた。 その声は、かつて鏡の間を通り過ぎた時に聞いた、あの不快なノイズのような音だった。
鏡の中の「影のない健」たちが、一歩、また一歩と、鏡の表面に近づき、突き破ってこちら側へ這い出し始めた。彼らにとって、健の今の肉体は、奪った影を完全に定着させるための「最後の欠片」なのだ。
健は店内にあった灯油缶をひっくり返した。
鏡の中から這い出してくる「影のない健」たちの指先が、現実の床に触れ、ピチャリと濡れたような音を立てる。健は恐怖に震えながら、灯油の臭いが充満する中で仕入帳をもう一度破れんばかりの勢いでめくった。
「何かあるはずだ……ただ食われるのを待つための記録じゃないはずだ!」
文字が掠れ、血のようなシミが広がる最終ページの裏側。そこに、殴り書きされた一節を見つけた。
「対の鏡は、互いを映すことでしか門を維持できぬ。もし門が開き、影を奪われし時は、その『無限』を断ち切る『第三の眼』を差し挟め。真実を映さぬ鏡をその間に投じれば、因果は逆流し、奪われたものは主へと還る。」
「真実を映さぬ鏡……?」
健は周囲を見渡した。店内に並ぶのは、どれも呪わしいほど鮮明に自分を映し出す古鏡ばかりだ。鏡の中から這い出した「自分」の半身が、すでに棚をなぎ倒し、健の足首を掴もうと手を伸ばしている。
その時、健のポケットの中のスマホが触れた。咄嗟にそれを取り出したとき、彼は気づいた。
(これだ……!スマホのセルフィ―は、鏡みたいなものではないか。)
健はスマホのインカメラを起動し、それを自分に向けて高く掲げた。デジタルカメラが映し出すのは、光を演算して作り上げられた「データ」としての像であり、光学的な真実を映す「鏡」ではない。
さらに、健は22時22分に撮った「合わせ鏡の動画」を再生した。
鏡から這い出してきた怪物たちが、スマホのカメラに捕らえられた瞬間、異変が起きた。
「ギ、ギギッ……!!」
画面の中で再生される「過去の合わせ鏡」と、今、目の前にある「現実の鏡」が、スマホの電子回路を介して衝突した。デジタルで加工された偽物の鏡像が、呪いの魔力を搔き乱したのだ。
仕入帳に書かれた通り、因果が逆流し始めた。 健の足首を掴んでいた冷たい感触が消え、鏡から這い出していた健の鏡像たちが、凄まじい吸引力で「スマホの画面の中」へと吸い込まれていった。
「うあああぁぁ!!」
店内の鏡が次々と粉砕され、その破片から黒い霧のような「影」が流れ出し、健の足元へ、本来あるべき場所へと滑り込んできた。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。 足元を見ると、そこには窓から差し込む月齢20夜の月光でできた確かな自分の影が復活していた。
店内の騒乱は収まった。 鏡はすべてただの割れたガラス板に戻り、鏡の中の怪異も、スマホの中に吸い込まれた「健」たちも、すべて消えた。スマホの画面は、過負荷に耐えきれずひび割れた。
健は仕入帳を抱え、ふらふらと店を出た。 夜風が冷たい。しかし、その冷たさを感じられることに、彼は涙が出るほどの喜びを覚えた。
アパートに戻り、彼は洗面所の鏡の前に立った。 そこには、ただの自分が映っている。ガムテープで補強されたひび割れも、もうただの破損でしかなかった。彼は深く息を吐き、鏡に手を触れた。 その時、ふと指先に違和感を覚えた。鏡の表面が、わずかに、体温よりも温かい。
健は恐る恐る、鏡の中の自分の「瞳」をじっと見つめた。 鏡の中の自分も、全く同じようにこちらを見つめている。だが、その瞳の奥、網膜のさらに向こう側に、小さな、小さな「22:22」という数字が、今もなお明滅しているように見えた。
健は、震える手で仕入帳をアパート近くの広場へと持ち出した。この本がある限り、あの悪夢との繋がりは断ち切れない。そう確信していた。彼はポケットからライターを取り出し、灯油が染み込んだ表紙に火を近づけた。
「これで、全部終わりだ」
カチッ、と火花が散り、小さな炎が紙の端に触れる。だが、奇妙なことが起きた。炎は紙を焼くどころか、仕入帳の表面を滑るように移動し、まるで「拒絶」するかのように消えてしまったのだ。何度試しても同じだった。ライターの火、マッチの火、さらにはキッチンでコンロの強火に晒しても、仕入帳は焦げ跡一つ付かず、ただ不気味な冷気を放ち続けている。
健は確信した。この本自体が、もはやこの世の物理法則から逸脱した「鏡の向こう側の物質」に変質してしまっている。
健は、恐怖と焦燥のなかで一つの決断を下した。
「焼却できないのなら……誰も触れない場所にこれを隠すしかない」
彼は仕入帳を何重もの黒いビニール袋で包み、さらにガムテープでぐるぐる巻きにした。まるで、中にある怪物を窒息させようとするかのように。
彼は夜明け前の街を歩き、埋め立て地に残土を運ぶダンプが停めてある会社を見つけた。そして、その中の一台のダンプの荷台に包みを放り込んだ。
翌日、そのダンプは、健が望んだとおり工事現場で残土を積み、埋め立て地へ運び、そこへ包みもろとも残土をダンプした。
数年後、埋め立て地は整地され、開発プロジェクトが計画された。そして、最新のデジタルサイネージが輝くショッピングモールが建った。モールの広場には、デザイン性の高い「巨大な二枚のガラス板」が、オブジェとして向かい合わせに設置された。
誰も気付いていない。その地下深くで、土に還ることのない仕入帳が、時を刻み続けていることを。そして、再び「2」が並ぶその瞬間、地上の巨大なガラスが、意図せずして「門」を形成することを。
<終>




