第八章:何も言わずに
月曜日の朝。
ジジはいつもより少しだけ早く出社した。
鞄の中には、昨日買って冷蔵庫に入れておいた苺のミルフィーユがひとつ。
(持ってきちゃったよ……いや、別に“あげよう”ってんじゃなくて、“余ったから”っていう自然な流れを……いや、そもそも俺、何してんだ?)
ひとしきり心の中で自問自答しつつ、席に着いた。
アカネはすでに到着しており、PCを立ち上げていた。
白いブラウスにグレーのカーディガン、髪はきっちりまとめられ、いつものように無表情。
「おはようございます。」
「……おはようございます。」
表情は変わらずとも、返事はある。
それだけで、ジジは少しだけ救われる気がした。
午前中の仕事を終え、昼休み。
ジジはコンビニで軽めの昼食を買って戻ると、冷蔵庫のケーキを取り出して紙袋に入れた。
休憩スペースにはすでにナオトとミナミが来ていた。
「ジジ、なんか良いことでもあった?」
「ん?なんで?」
「顔が、いつもより3%明るい。」
「誤差だよ誤差。」
ジジは苦笑いしながら、自分の席に戻り、バッグから小さな袋を取り出す。
中には、昨日のケーキ。
ためらいながらも、席の間に小さなメモを添えて置いた。
「間違えて多く買ったので、よかったらどうぞ。」
名前は書かない。あくまで自然に。
“おすそ分け”という日常の偶然を装う。
しばらくして、アカネが席に戻ってくる。
目の前に置かれた袋に気づき、無言でじっと見つめる。
手に取る。
袋を開ける。
中を確認する。
……そのまま、何も言わず、またPCを開く。
(……あれ?反応ゼロ?スルー?っていうか、それどうすんの?)
夕方。
ジジが書類を整理していると、アカネが突然立ち上がり、空の小さな紙袋を持ってゴミ箱へ向かう。
ゴミ箱に袋を捨てる動き——その手元が、一瞬だけ丁寧すぎるほど慎重だったのを、ジジは見逃さなかった。
(……あれ、絶対食べたな。)
そのまま、何も言わず戻ってくるアカネ。
目も合わせず、PCに向かうその姿は、いつもと変わらない。
だけど、ジジの中で何かがほんの少し動いた。
(いいよいいよ……言葉なんていらない。俺は“沈黙のリアクション”も翻訳できる男だからな。)
そう心の中でつぶやき、彼は少しだけ笑った。
月曜の午後。
隣にいる無口な彼女との距離は、言葉のないやり取りで、ほんの少しずつ縮まっていく。
それが心地よくて、悪くなかった。