第六章:彼女はいつも通り
木曜日の昼前、オフィスにはいつものようにキーボードの音が静かに響いていた。
「……う〜ん、数字が合わない……」
ジジが画面を見つめながら唸っていると、後ろの席から声がかかった。
「ジジ、さっきの資料ミスってるぞ。」
振り向くと、同僚のミナミが苦笑いしながらプリントを振っていた。
「マジで?またやっちゃったか。俺、計算ドリルからやり直した方がいいかな。」
「うん、小学生のやつから。」
「いっそ九九の歌から覚え直そうかな。“いんいちがいち〜!”」
「黙れバカ。」
そんな会話に、別の同僚・ナオトも加わる。
「てかジジ、昨日のプリンの話、マジだったの?」
「マジだって!あの視線は“狙ってた”レベルだった!」
「……それ、恋じゃなくて狩りだな。」
「うちの会社、獣系ヒロインいたのか……!」
3人で笑っていると、ふと静かな足音が通り過ぎた。
アカネだった。
ジジたちの後ろを無言で通り、飲み物を買うために自販機の方へ向かう。
会話がピタリと止まる。
「……あ。」
「……聞かれてた?」
「たぶん。」
ジジは頭をかきながらつぶやいた。
「まあ、大丈夫でしょ。どうせ全部忘れてくれるタイプ……たぶん。」
その日の昼休み。
ジジはおにぎりと唐揚げ棒、そして当然のようにプリンを買って戻ってきた。
休憩スペースにはすでに何人か社員がいたが、アカネはいつものように離れた席で静かにコーヒーを飲んでいた。
ジジは空いていたテーブルに座り、袋から食べ物を取り出す。
ナオトとミナミもやってきて、同じテーブルに腰を下ろした。
「ジジ、今日もプリンかよ。」
「俺の正午の癒しなんだよ。これがなかったら午後働けない。」
「よく飽きないな……」
すると、その時。
ジジはふと、あの“視線”を感じた。
チラリと横目で見てみると——やはりいた。アカネが、またしてもプリンを見ている。
無表情。完全なる無言。だけど、その視線は明らかに“ロックオン”。
(き、来た……!またその目だ!これはもう確信犯だろ!?)
ジジは笑いそうになるのをこらえながら、スプーンを手に取った。
「プリン、いただきます……」
スッ。
アカネ、視線を逸らす。
(あれ?いじけた?……いや、そんな感情あるのかこの人に?)
ナオトがこっそり尋ねた。
「なあ……あれ、見てたよな?」
「見てた。」
「もう、なんかあげなよ。毎回それ見てて、ちょっとかわいそうになってきた。」
「いや、それで“いりません”って言われたら、俺、立ち直れない。」
ジジは冗談っぽく肩をすくめながら、プリンを一口すくって口に入れた。
(……でも、次はひとつ多めに買ってみるか。)
心の中でそうつぶやきながら、静かな“甘い戦争”が今日も続いていた。
午後、アカネは何事もなかったように仕事に集中していた。
そしてジジもまた、ふざけながらも、しっかり業務をこなしていた。
同じフロア、隣同士。けれど、世界はまだ、少しずれている。
それが、心地よい距離だった。