第四章:書類と沈黙
水曜日の朝。
ジジは少し寝坊気味に出社し、缶コーヒーを片手に席へと向かった。
アカネはすでに席についており、タイピングの音だけが周囲に響いている。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
声のトーンもテンポも、昨日とまったく同じ。
それなのに、ジジは少しうれしくなる。
(うん、いいぞ。三日連続で“あいさつ成功”。これはもはや“習慣”の域。)
ジジは自分の席に座り、PCを起動すると、社内チャットに一件の連絡が届いていた。
「ジジさん、来客向けの書類まとめ、今日中にお願いします。あと、アカネさんにも簡単にフォーマットを教えてあげてください。」
(……おっと、また新人指導ミッションか。)
ジジはアカネの方を向いた。
「アカネさん、すみません。今少しお時間いいですか?来客用の資料作成、今日一緒にやることになりました。」
「わかりました。」
PCの画面を閉じ、すぐにジジの方に向き直るアカネ。
反応は速い。表情は変わらないが、受け答えは的確。
ジジは自分の画面を共有しながら、淡々と説明を始めた。
「このテンプレートを使って、先方の情報を入力していきます。こことここは定型文ですが、日付と部署名だけ変更が必要です。」
「了解です。」
「あと、注意点としては……うちの課長、細かいとこやたら気にするんで、“、”と“。”の位置、間違えないようにだけお願いします。」
「了解です。」
「ちなみに僕はそれで三回直されました。メンタルに来ます。」
「……ご愁傷様です。」
その一言で、ジジは少し目を見開いた。
(え、今の……冗談?皮肉?いや、これ笑うとこだよな?)
思わずニヤけそうになったのを、コーヒーの缶で隠す。
「いやあ、そういう軽口言えるようになったらもう完璧ですね。」
「別に、軽口ではありません。」
「……なるほど。じゃあ、もっと重症だったってことですね。」
「……」
アカネは黙って作業に戻ったが、その耳の先がほんのり赤く見えた。
気のせいかもしれない。でも、ジジにとっては十分だった。
夕方。資料の提出を終えたあと、上司が満足げに言った。
「ジジさん、アカネさん。よく仕上げたね。完璧だったよ。」
「ありがとうございます。」
「ありがとうございます。」
上司が離れたあと、ジジは少し肩をすくめて笑った。
「ね?完璧だってさ。今日の勝利、我々のものです。」
アカネは小さく頷いた。
「……ジジさんの説明が分かりやすかったです。」
「おっと、そんな褒められたら泣いちゃうかもです。」
「……泣かないでください。仕事が止まります。」
(キレあるなぁこの人……)
帰り際、エレベーターの前でふたりが並ぶ。
沈黙のまま数秒が流れ、ジジがふと口を開いた。
「今日、ちょっとだけ喋ってくれましたね。」
「業務ですから。」
「そっか……でもなんか、それだけじゃなかった気もしますけどね?」
アカネは返事をせず、エレベーターのドアをじっと見つめていた。
ピンポンと音が鳴り、ドアが開く。
ふたりは無言で乗り込み、エレベーターは静かに下へと動き出した。
(……いや、いい。これでいい。)
ジジは胸ポケットのプリン無料券を確認しながら、小さく笑った。