第三章:0.1ミリの進歩
火曜日の朝。
ジジはいつも通り出社し、カフェオレの缶を片手に自席へと向かった。
隣には、すでにアカネが座っていた。
背筋はまっすぐ、表情はまるで石像のように変わらない。
「おはようございます。」
「……おはようございます。」
声は小さいが、確かに返ってきた。
ジジは自分の席に座りながら心の中でガッツポーズを取った。
(よし、今日も会話成立。連続二日記録更新中。)
PCを起動し、ジジは今日の業務内容を確認する。
午前中はデータ整理とメール処理。アカネには別の資料の確認作業が割り振られていた。
上司からの指示で、今日もジジが彼女をサポートする役目になっている。
ジジは軽く肩を回しながら声をかけた。
「アカネさん、資料の中で不明なところがあれば、遠慮なく聞いてくださいね。」
「はい。ありがとうございます。」
それだけ。話はそれ以上広がらない。
けれど、ジジはもう慣れていた。
(……まあ、会話が膨らまないのは毎度のこと。俺の人生、片想いと一方通行でできてるからな。)
昼頃、ジジは財布を手に会社の外へ。
近くのコンビニでおにぎりと唐揚げ棒、それからお気に入りのプリンを買って戻ってくる。
社内の一角にある自販機の前に、ちょうどアカネの姿があった。
彼女は無言でブラックコーヒーを選び、支払いを済ませると、何も言わず近くのテーブル席に座った。
ジジも離れた席に腰を下ろし、コンビニ袋を開く。
(毎日ブラックコーヒー……胃、大丈夫か?)
心の中で軽くツッコミを入れつつ、彼も昼食を始めた。
ふと、午後の予定を思い出したジジは、缶を置いてから声をかけた。
「アカネさん、午後にチームの定例ミーティングがあります。15分くらいで終わるので、参加だけお願いします。」
「わかりました。」
視線を合わせることなく、答えはいつも通り淡々としている。
それでもジジは微笑んだ。
(うんうん、必要なことはちゃんと通じてる。それでいい。)
午後、ミーティングは予想通りあっさりと終了。
会議中、アカネは何も発言しなかったが、必要な資料にはすべて目を通し、的確にメモを取っていた。
(すげえな……新人っぽくない。てか、俺より真面目かも。)
ミーティング後、オフィスに戻る道すがら、ジジはふと口を開いた。
「メモの取り方、めちゃくちゃ早いですね。なんかコツあるんですか?」
アカネは一瞬だけジジの方に顔を向け、静かに言った。
「……特に。慣れているだけです。」
「おお、プロの風格。見習います。」
それ以上、会話は続かなかった。
でもジジはそれでよかった。
17時半を過ぎ、そろそろ退勤時間が近づいてきた頃。
ジジは書類の整理を終え、立ち上がりながら言った。
「今日も一日お疲れさまでした。」
アカネはモニターから視線を外さずに、短く返す。
「お疲れさまでした。」
それだけのやり取り。だけど、ジジはどこか満足そうな表情だった。
(いいね。感情ゼロだけど、ちゃんと締めてくれる感じ。……俺、こういうの嫌いじゃない。)
心の中でそう呟きながら、彼はポケットに手を突っ込んで出口へと歩き出した。
会話は少なくても、今日も平和な一日が過ぎていった。