100.衝撃
すみません、長くなり過ぎたのでお話を分けます。
ステラさんの船が出航してひと月。
俺はあと一ヶ月という永遠のような時間を思って、はあ...、とため息をついた。
「ちょっとセリウス。鍛錬中にため息何度も吐くのやめなよ。アイザックが怯えてるじゃないか」
ファビアンが細身のレイピアをシャッと音を立てて納刀し、俺に向かって眉を寄せる。
彼の言う通り目をやってみれば、同じく鍛錬に励んでいたアイザックがこちらを伺う様な目で「な、何か粗相を...?構え方ですか...?」と俺に尋ねた。
「いや。お前の事ではない。ただ...」
「ただステラさんが居なくて寂しいだけでしょ〜?君のそれは怒っている顔と見分けがつかないんだから配慮しなよ」
ファビアンに嗜められ、ぐ、と言葉に詰まると、アイザックが安堵した様に息を吐く。
「奥方様の事でしたか...。まだひと月ありますもんね」
「そうそう。もーセリウスったらすっかり忠犬になっちゃって。見て?顔はアレでもご主人が居なくて尻尾が垂れてる」
「誰が犬だと?」
俺がぎろりと睨みつければ「わっ、牙剥いた!ステラさーん!躾が足りないよ〜!」とファビアンは叫ぶ。
苛立って指先から氷のつぶてを撃ち込むと、パン!と光の盾で弾き飛ばして彼はくつくつと笑った。
そんな様子を微笑ましく見ていたヴィゴも、剣を鞘に収める。
「そう言えば奥方様の体調について便りはありましたか?おそらくまだ先でしょうが、二ヶ月も海に出るとなれば心配ですな」
彼に尋ねられ、俺はきょとんと目を丸くした。
「彼女の体調?先とは何だ」
「まさかご存知ないのですか?ここを出られる前に溢しておられましたよ。常に口に物を入れて居ないと吐き気がする、と」
「なんだと」
確かに彼女は常に何かしらを口にして居たが、吐き気がするなんて俺には一言も言わなかった。
あの凛々しいステラさんがビスケットやナッツをもそもそポリポリと食べる姿は妙に可愛らしくて癒される。...などと呑気に構えていた俺は愕然とする。
それを聞いていたファビアンが慌てて俺の方に歩み寄った。
「待って待って、それって完全にアレじゃない!いつから彼女の食欲が増えたのか覚えてる?」
「アレとは何だ」
「いいから!」
「おそらく、四ヶ月ほど前から...?」
俺が答えるとエルタスとヴィゴが顔を見合わせる。なんだ?と訝しむとファビアンがさらにこちらに詰め寄った。
「他は?同じ時期から他に変わったことはない?」
いつになく真剣な目で尋ねられ、俺はこの数ヶ月の彼女の変化を思い出してみる。
「そういえば、すぐ胸焼けするからと酒を控えるようにはなったな。あとは読書に当てていた時間をほとんど昼寝に費やしているような...。しょっちゅうあくびをしている気がする」
「...しかし胸焼けは菓子ばかり食べるせいだろうし、単純に気候がいいから眠いのでは?」
と俺が顎に手を当てて首を傾げると、ファビアンは目元に手を当てて、はあ〜〜〜っとため息をついた。そして俺を見るとびしりとこちらを指差し口を開く。
「君、それはどう考えても“悪阻”だよ!」
「悪阻...?食べ物が食べられなくなったり吐いたりするらしいあれか。全く当てはまらないと思うが」
俺がさらに首を傾げると、一部始終を見ていたアイザック以外の面子がまたも同時にはあ〜〜〜っとため息をついた。
彼らはやれやれと首を振りながらこちらを見る。
「あのね、悪阻にも色々あるんだよ!うちの奥さんみたいに食べられなくなるタイプも多いけどさ」
「“食べづわり”と言って、食べ続けて居ないと吐き気がするのもよくある事です」
「日中が眠くなるのもおそらくそれでしょう。胸焼けも、吐き気の勘違いかと。てっきり私はお二人とも気付いておられるとばかり...」
彼らに呆れた顔で次々と言われ、俺は突然の情報に混乱しながら彼女の様子を思い出す。
ひと月前の夜も、俺は彼女を組み敷いたはずだ。その時確かに彼女の身体を確認している。昼に「太った気がする」とは言っていたものの、彼女の身体はいつも通りしなやかで。
「腹は全く膨らんでいなかったぞ?」
俺が焦ってそう言うと、ファビアン達はさらに呆れた顔をする。
「あのねえ、悪阻っていうのはだいたい妊娠から二、三ヶ月でもう始まるんだよ」
「妊娠初期なら腹はそこまで出ませんよ。彼女は鍛えておられますしなおさらでしょう」
「いきなり腹がポンと出て“妊娠しました”なんて目に見えるものではありませんからね」
そ、そういうものなのか...?
俺は彼らの言葉に混乱しつつも口を開く。
「で、では彼女は本当に...?」
恐る恐る問いかけると、彼らは一斉に頷いた。
「身篭ってるね」
「おめでたですね」
「ご懐妊でしょうね」
言葉は違うものの口々に同じ意味の言葉を告げられ、俺は手に持って居た剣を取り落とす。
ガラン、と音を立てて落ちた剣を拾うこともできず、脳内に稲妻の様な衝撃が駆け巡った。
ス、ステラさんが俺の子を...!?
ならばなぜそんな重要な事を俺に言わない!?
いや、言っていたのに俺が聞き流してしまったのか!?
そして俺は、彼女が妊娠している事に気づかず海へと送り出してしまったというのか!
というか妊婦とは、ラングロワ夫人のように腹が前に出て動けなくなるものではなかったのか...。
そうでないならいったい今、腹の子はどれくらいなのだ。そして彼女の体調はどうなっている。苦しんでいないか、痛みなどはないのか...全く、てんで想像がつかない。
固まって思考を巡らせているとファビアンにつんつんとつつかれるが、正直それどころではない。
もう一月も彼女は海にいるのだ、今すぐ彼女を引き戻さなければ。
彼女の身になにかあれば...そうだ、戦や嵐に見舞われたら、ましてや敵に身重である事が知られたら!?そしてまた彼女が囚われてしまったらどうする!
海は遠く、広大だ。今この瞬間ですら彼女がどこにいるかも把握できない。だというのに俺は、身重の彼女をどうやって助ければいいのだ!?
こんなに離れていて、俺に出来る事は何があると言うんだ!?
ど、どうすれば、...俺は何をすれば...!?
そこまで考えて頭が真っ白になり、俺の思考は剣を取り落としたまま遥か彼方へ旅立つ。
「だめだ。完全に処理落ちしてるよこいつ」
俺をつつき続けていたファビアンが呆れた口調で彼らを振り返る。しかし思考が働かず、憎まれ口を返す余裕もない。
まるで強い匂いを嗅いでしまった猫の様に、その場で固まった俺を見兼ねてか、彼らはそっと近づくと俺の背中をさすった。
「大丈夫、大丈夫。おそらくまだ産まれるような週数ではありません」
「彼女には多くのお仲間も居ますし、きっとご無事で帰られますよ」
「うんうん。まあ、案ずるよりなんとかって言うじゃない?とにかく便りを出して返事を待とう?」
「そっ、そうですよ!聡明な奥方様なら無茶はされないはずです!」
アイザックにまで背をさすられているというのに、俺からやっと出た言葉は情けなくも、脳死の「どうすれば...」だけである。
そんな状態のところに、別の任務で出て居たザイツとライデン、ガトーが戻ってきて目を丸くした。
「何事ですかな」
「団長殿、背中でも痛めましたか?」
彼らが尋ねるとファビアンが笑いながら答える。
「ステラさんがおそらく身篭ってるって教えたら、こいつ石像になっちゃってね。今みんなで溶かしてるところ」
その言葉を聞くと三人が同時に噴き出す。ガトーまで同じ反応をする事はないだろうに。
「そうでしたか。おめでとうございます、団長殿」
「いやーめでたいっすねえ!」
「おめでとうございます。感慨深いですなあ」
口々に彼らから祝われるが、全くもって頭に入ってこない。今こいつらはなんと言ったのか。
めでたい...?めでたいのか、俺は。
しばらくそのまま動けないまま、見兼ねた彼らに引きずられる様にして俺は執務室へと戻された。
———
それからしばらくして。
頭が整理できないながらもなんとか
“俺の子を身篭られたとは真ですか。航海を中断し直ちにこちらへお戻り下さい。”
と走り書きの短文を鳩に持たせる。
早く届けと焦って魔石を三つも重ね付けした伝書鳩は、城内の庭木を爆風でしならせながらチュンッと音を立てて光線のように空へと消えた。
ファビアンに「鳩が空気抵抗で燃え尽きたらどうするの。可哀想に」と呆れられたが、そんな心配をする余裕など俺には無かった。
だが吹き飛んでいった鳩は無事だったらしい。
早くも一刻足らずで戻り、執務室の窓ガラスを突き破って煙を立てながら床にめり込んだ。
防護魔法をかけていたのが功を奏したらしく鳩は元気にクルクルと鳴いていたが、敵の光線を受けたのでは!?と勘違いした兵士たちが一斉に武器を取って飛び出してしまった。
兵舎内では一気に迎撃へと備えて各騎士達が編成を組み始め、地下の砲台がゴゴゴ、と迫り上がる。
大変な事態となってしまったその場の誤解を解くため、実に三時間ほど。
騎士団の面子を巻き込んで、全てを治めるには多大な労力を要した。
それらが終わると俺は呆れ顔の陛下により「お馬鹿が過ぎます。冷静になりなさい」と大変なお叱りを受ける。そして始末書を書いている内にようやく我に帰り、ひたすらに猛省したのである。
その後、ようやく彼女からの便りを確認する。
しかしその内容に俺はまたも冷静さを欠くこととなる。
返された手紙の内容は俺の予想を遥かに裏切り、衝撃どころではなかったのだ。
“あたしも気付かなかったのに、まさかお前が気付くとはな。
腹の子は双子だ。今八ヶ月らしい。
悪いが戻りをひと月伸ばす。
船で産んで帰るから楽しみに待ってろ。
それから、鳩が突っ込んで甲板に穴が空いた。
お前は阿保なのか。弁償しろ。
鳩が不憫だが発動した魔石の戻し方はわからん。そのまま返すぞ。早く外してやれ。”
「ふ、双子で、八ヶ月...、船で産んで帰る、と...」
よろめきながら青くなった俺がそう告げると、談話室にいた騎士団の面々は大きく目を見開いた。
「まさかあれで七ヶ月だったのですか!?」
「しかも双子ですと!?」
「団長、お気を確かに!」
「セリウス深呼吸、深呼吸だ!ほらひっひっふー!」
「団長補佐、それでは団長が産む側ですよ!」
彼らの言葉を取り合うこともできず、俺はよろよろと談話室の椅子に掛けると顔を両手で覆った。
「なぜ船で...。楽しみに待てなどと、不安でしかない...」
彼らは青どころかもはや蒼白になっていく俺を見やると「流石に同情します...」と俺の肩を叩いた。
出産とは命懸けである事を、俺は母の死で嫌と言うほど理解している。
なのになぜ、俺から遠く離れた場所で産むなどと彼女は言うのだ。いざという時に船の上で治癒魔法もなく、子供もろとも命を失ったらどうするつもりなのか。
ましてや子供だけが助かったなんて事になれば、それこそ俺は父の二の舞だ。
どんな目でその子を見ればいい。そして産ませた俺はどんな気持ちで生きていけばいいのか。
タイムリミットはあと二ヶ月。
なんとかして彼女を引き戻さねば。
船で産むなどと、馬鹿な事を辞めさせなければ!
それから俺はひと月の間、幾度も彼女に戻るよう懇願する手紙を鳩に持たせた。
が、彼女の意志は頑として変わらなかった。
“いい加減にしろ。しつこいぞ。
あたしはそんな事では死なん。
昨日も賊の船を一つ沈めたところだ。
海賊とそこらの女を一緒にするのはやめろ。
それに、あとひと月だ。
ようやく中から蹴られる様になった。
安心しな、お前の子は元気だよ。
あたしの運に期待してろ。”
全く何を言っているのだこの人は!
そんな事を言われたとて安心など出来るものか!
もはや心配を超えて怒りと化した感情に、こめかみをぐしゃりと握って低く唸りに似たため息を吐く。
抑えきれない怒りと焦りが稲妻となって身体から迸った。
するとヒュッと息を吸い込む音が聞こえ、顔を上げる。目をやった先には、アイザックが書類を持って執務室の入り口に立っていた。
「しっ、失礼しました!」
「いい。要件は何だ」
怯えて敬礼をするアイザックを促すと、彼は恐る恐るその書類を持って机へと歩み寄る。
「その、陛下から騎士団へ出撃命令が出ております...」
俺は書類を受け取って目を通す。
そこにはこの国の東に位置する島、アルストイ島への遠征の命が記されていた。
アルストイ島はアガルタ帝国側に最も近い領海内の島である。陛下のお父上の代から、幾度も上陸しようとする帝国の軍隊と戦闘が続いて来た。
しかし長らく膠着状態にあったこの島に、遂にアガルタ軍が上陸したらしい。そしてさらには旗まで建て始めたと現場より報告が上がった。
見兼ねた陛下は内政が安定の兆しを見せたこのタイミングで我が騎士団を投入し、全てを殲滅させる事を決断したのだろう。
そして案にそれは“ひと月で決着をつけろ”と仰られていると言う事でもある。
何しろ陛下は、ステラさんが出産して戻るのはひと月後である事を知っておられるのだ。
「...拝命した。アイザック、お前にとっては初陣だな」
俺が彼の目を見て告げるとアイザックは肩を震わせ、ごくりと喉を鳴らす。
「ひと月で終わらせる。死ぬ事は許さん。...いいな」
厳しい声で彼に念を押すとアイザックはカッと踵を打ってびしりと敬礼をする。同時に「承知致しました」と勇ましく声を張り上げた。
彼が執務室を出て行く姿を見届けて、俺は書類を再び手に取る。
数年ぶりのまともな戦か。
...流石は陛下。
俺の事がよくわかっておられる。
このどうしようもない苛立ち、煩悶、そして焦燥感。
これらを持て余した俺をぶつけるには、戦場ほどおあつらえ向きの場所は無いのだから。
おかしいな...。このところ、書こうと思っている内容とボリュームが全然コントロールできません。1話でステラの出産まで行きつかないよどうして...??
次回でなんとかなるはず!ごめんなさい!
リアクションや感想を頂けますと大変喜びます〜!
いつもお読みいただきありがとうございます!




