85.ラングロワ夫人
夜会の会場に着き、馬車から降りたファビアンは背筋を伸ばして辺りを見回した。そして何かに気付いたように嬉しそうに目を見開くと、白い鳥の紋章の刻まれた馬車へと駆け寄る。
彼は馭者と何かを会話をし、護衛の騎士らしき男の肩を笑顔で叩くと馬車の扉を開けた。恭しく手を差し出されたその手を取って、一人の女性が降り立った。
亜麻色の緩やかな巻き毛をふわりと下ろし、締め付けのない柔らかなラベンダー色のドレスに身を包んだ美しい女性は、ファビアンを見つめて穏やかに微笑む。胸の下から膨らんだ腹部は、彼女が身重である事を誰の目にも明らかに告げている。
ファビアンも彼女の微笑みに柔らかく頬を上げると、こちらへと手を引いてゆっくり歩み寄った。
会場へと続く階段前で彼らを待つあたしたちの前まで来ると、その女性は琥珀色の瞳を開いて驚いたようにセリウスとあたしを交互に見る。ファビアンがその様子に肩を震わせて笑った。
「ふふ、やっぱりこの姿だと混乱するよねえ。彼女はれっきとした女性だよ。」
ファビアンは笑い終えるとこちらに向き直った。
「ステラさん、こちらが僕の妻、ヴィオレッタです。セリウスは結婚式ぶりだね。」
ヴィオレッタと呼ばれた彼女は紹介されるとはっとしてカーテシーをの体制を取った。身重の為かファビアンがその背を支える。
「紹介に預かったステラ・バルバリア・ヴェルドマンだ。緋色の復讐号の船長を務めている。ついでに、こいつの妻だ。よろしく頼む。」
あたしが隣のセリウスを軽く小突いて見せながら軽く礼をして微笑むと、ヴィオレッタは口元に手を当てた。
「まあ、本当に女性のお声...!こちらこそ、よろしくお願いいたします。お話には聞いていたのですが、ここまで男装がお似合いだとは思わず...驚きましたわ。」
そう言って感嘆する彼女がおかしいのか、ファビアンはくすくすと笑う。
「ふふふ、もはや似合いすぎてセリウスが男色趣味みたいでしょ?」
「ファビアン!」
セリウスが眉を顰めるのと同時に、ヴィオレッタは慌ててファビアンを睨み彼の足をぎゅうと踏みつけた。「いたたた!」とファビアンが顔を歪ませるが抵抗せず踏まれているあたり、どうやらヴィオレッタの尻に敷かれているらしい。
「うちの主人が大変申し訳ありません!もう、本当にこの人は...!」
「いえ、お気になさらず。こいつの無礼はいつもの事です。」
必死に頭を下げる彼女に、セリウスは軽く手を上げて制止させる。あたしはその様子に笑いながら、彼の肩に腕を掛けた。
「ちなみに、男色に興味が無いことはあたしが保証するから安心してくれ。」
「いや、当たり前でしょう...。」
ため息をつくセリウスにあたしとファビアンが再び笑えば、ヴィオレッタも控えめに笑いをこぼした。
会場内に入れば、既に内部に居た貴族達の大勢の視線がこちらに注がれる。令嬢達があたしとセリウスの顔を見て目を輝かせ、貴族達の口から黒の騎士、二大英雄、という言葉があちらこちらで囁かれるのを耳が拾う。
歩みを進めつつ隣のセリウスがおもむろにすっと腕を出す。あたしはその手を取りかけて少し躊躇した。
「いいのか?今のあたしは男の格好だぞ。」
「構いません。貴女が女性である事は周知の事実。俺の妻なのですから、堂々となさい。」
涼しい顔で微笑むセリウスの言葉に、あたしも表情を緩める。
「それもそうだな。」
そう言って彼の腕を取れば、それを見た令嬢達が黄色い声を上げた。あたし達の後ろからファビアンが現れると、さらにそのざわめきが強くなる。
彼の口調やその性格のおかげで忘れかけていたが、金髪碧眼に眉目秀麗のファビアンこそ、まさに正統派の美男である。白の騎士と囁かれる彼が令嬢達を騒がせるのは当然の事だ。
そんなファビアンは緊張した面持ちのヴィオレッタの手を取ると、彼女を隠すように胸を張る。気後れする妻を庇っているのだろう。人好きのする笑顔を振り撒き、あえて自らに注目を集めるとは、なかなかいい夫ぶりじゃないか。
会場の奥で人の輪に囲まれる主催者の元へと歩み寄ると、集っていた人々はこちらを見るなり慌てて道を開けた。艶やかに髪を結い上げた美しい熟年の貴婦人が、開けた道の先に現れる。
「サヴォワール夫人、今宵はお招き感謝する。」
そう告げてセリウスと共に胸に手を当てれば、彼女はこちらを見据えて優雅な笑みを浮かべた。
「お二人とも、お久しぶりですわね。ご夫婦となられてからも来て下さって嬉しいわ。結婚生活はいかが?」
セリウスの顔を見やって夫人はにっこりと微笑む。たじろぐかと思いきや、彼は穏やかに笑みを返した。
「幸甚に至り、この上なく。」
口元を綻ばせ、睫毛を伏せるセリウスの姿に、夫人は唇に扇子を当てて驚いた顔をする。あたしは彼の大袈裟な表現にむず痒さを覚え、思わず視線を煌びやかな天井に向けた。
「まあ、貴方...そんなお顔が出来たなんて。お心を溶かしたステラ様にはまさに感服ですわね。」
彼女がおかしそうに目を細めてこちらを見るので、あたしは夫人へと視線を戻す。
「...あたしは何も。たまたま海賊なんかを妻にしたがる奇特な騎士に捕まっただけだ。」
苦笑するあたしに夫人も品良く笑みをこぼした。
「ふふ、その気取らなさこそ貴女の魅力でしたわね。」
そしてあたし達の後ろのファビアン達に気付くと、にこやかに微笑む。
「あら、ラングロワ団長補佐様とご夫人もご一緒でしたの。よく来て下さったわね。」
名を呼ばれた二人は丁寧に礼の姿勢を取り、顔を上げた。ファビアンが笑顔で夫人に歩み寄る。
「お招きいただき感謝します。本日は、我が妻の懐妊の旨をお知らせしたく参りました。陛下には既にご報告済みですが、妻と縁深いかの娼館を任される夫人には、ぜひお顔を合わせなくてはと。」
その言葉を聞いた夫人は頷き、一歩前に出てヴィオレッタの手を取ると優しく握った。
「マチルダから貴女の経緯は聞き及んでいます。ご懐妊、誠にお喜び申し上げますわ。後ほど彼女にも必ず伝えましょう。」
微笑まれたヴィオレッタは目を見開くと、わずかに目を潤ませる。
「お心遣い、痛み入ります。」
その姿に夫人は優しく笑みを返すと、あたし達全員にゆっくりとそのまなざしを向けた。
「今宵は陛下の覚えもめでたいあなた方が訪れて、みな浮き足立っています。久方ぶりの夜会、どうぞお楽しみ下さいな。」
夫人への挨拶をつつがなく終わらせて、その場を離れる。振り向けば、待ちきれないようにこちらに熱い視線を送る令嬢達と目が合った。
「お嬢さんたち、久方ぶりだね。相変わらずみな華やかで愛らしいな。」
あたしがそう言って笑いかけると、きゃあと彼女達は嬉しそうにこちらを囲んだ。隣のセリウスが若干顔をこわばらせ、後ろのヴィオレッタもわずかに身をすくませる。
「ご機嫌よう、ステラ様!騎士団長様もお久しゅうございます!」
「また礼装姿を拝めるなんて嬉しいですわ!」
「変わらぬ凛々しいお姿、騎士団長様とお並びになると耽美ですこと...!」
令嬢達は口々に言葉を返し、うっとりと腕を組むあたしとセリウスを眺める。婚約パーティーの時にセリウスにあたしを取られたと泣いた娘までが同じ表情をするので、あたしは目を丸くした。
「おや、正直夜会でこいつの手を取るのは躊躇ったんだが。予想に反して妙に嬉しそうじゃないか。」
あたしがそう言うと、令嬢達は熱い眼差しを向けてその手を胸の前に握った。
「不思議とその礼装姿で寄り添い合われると魅力的で...!」
「何故だか胸が高鳴るのです。不思議ですわ...。」
「今までに無い感覚でたまりませんわね...!」
彼女達は嬉しそうにきゃいきゃいと手を取り合って騒いでいる。
...なるほど。
そう言えば一度本で読んだ事があったな。
思い至ったあたしは、セリウスに小声で「聞くところによれば、美男同士の絡みは女に好まれるらしいぞ。」と囁く。
彼は怪訝な顔をした後に「何ですかそれは...。理解に及びません。」とため息をつき、あたしは可笑しくてくつくつと笑った。
その様子を呆然とした表情で見守っていたヴィオレッタに気付き、あたしは彼女を振り向いてにこりと微笑みかける。
ファビアンが彼女の背を優しく押して、あたしの隣へと促した。
「皆、こちらのご婦人を紹介しても構わないかな。」
そう声を掛けると、騒いでいた令嬢達は「もちろんですわ。」と頷いて淑女らしく表情を整える。あたしは優しくヴィオレッタの背を支えると口を開いた。
「ヴィオレッタ・ラングロワ夫人だ。後ろの団長補佐殿の奥方だが、社交界から長く離れていたそうでね。この度めでたくご懐妊され、報告の為に社交界に戻られた。」
令嬢達はその言葉に口元に手を当て、ざわめいて彼女に視線を移した。
こう見えて令嬢達のコミュニティは繊細で強力だ。
彼女らはその華やかな姿と裏腹に、自らの輪に加える人間を厳しく評価し、扱い方を見定める。
どんなに位の高い貴婦人だろうが、彼女達によく思われなければ社交界で生きづらくなるのは明白。王弟派を広めるさなかに、彼女らの繋がりの力を痛いほど理解したつもりだ。
ヴィオレッタはただでさえ上級騎士の妻、夫の戦果を含めず位だけで言えば令嬢達には劣る準貴族となる。長く輪の外にあったヴィオレッタを紹介するにあたって、慎重に言葉を選ばなければならない。
あたしは令嬢達の目を一人ずつ見つめながら、丁寧に言葉を続ける。
「かつては同じく社交界の右も左も分からなかったあたしを、君たちはここまで導いてくれた。聡明な君たちの力添えが無ければ、国家を揺るがす陰謀を阻み、陛下に玉座をお渡しする事は叶わなかっただろう。」
「ヴィオレッタは我が夫の戦友の奥方だ。その身に宿る子もいずれこの国を護る騎士となるだろう。未だ反勢力の燻る社交界において今一度、君たちの力を借りたい。」
そう真摯な眼差しで彼女らへ訴えかけると、令嬢達も真面目な面持ちでこちらを見つめ頷いた。
「陛下をお支えする君臣として、ヴィオレッタ様とその子を蛇達よりお護りいたしましょう。」
「お任せ下さいませ。」
あたしは彼女達に頷き返し、ヴィオレッタに視線を送る。それに気付いたヴィオレッタは慌てて頭を下げた。
「不束者ではございますが、皆様方のご教示を得たく存じます。どうぞお見知り置きを。」
その不慣れな姿に令嬢達は顔を見合わせ、優しく微笑む。
「先ずは、社交界へのお戻りとご懐妊をお喜び申し上げます。わたくしどもは今より貴女の後ろ盾となるのですから、気軽にお頼りになってくださいな。」
「志を同じくする身にお気遣いは無用でしてよ。」
彼女達の言葉に頷くと、あたしもヴィオレッタを見やり微笑んだ。
「皆、あたしを支える優れた才女たちだ。悪いようにはしないから心配するな。」
笑顔を向けられた彼女は少し安堵したように、「はい...!」と小さく返事を返すのだった。
「いやー、流石の立ち居振る舞いでしたね。あそこまですんなりと、いや寧ろ使命感を持たせ令嬢達に妻を受け入れさせるとは予想外でした。感謝します。」
しばらくの挨拶回りの後、あたし達はその輪を離れ会場の端のソファでヴィオレッタを休ませていた。ファビアンがあたしに穏やかに微笑むと、セリウスも顎に手を当てて頷く。
「今までも隣で見て来ましたが、貴女の令嬢達の扱いの巧さにはいつも舌を巻かされる。俺には到底真似できません。」
「そりゃ根っからの軍人気質のお前には無理だろうな。ま、軍隊と違って厳しい規律が無い世界じゃ、人心掌握に船員も女も変わりはないってこった。」
結局のところどちらであっても、適切な場面で褒め、時に頼り、意見を聞きつつ強引に引っ張って行くだけだ。女の場合は“特別優しくしなければ”というあたしの意識が、たまたま彼女らの期待に上手く噛み合ったとも言える。
「セリウスもちょっとは見習わないとねえ。厳しさだけじゃダメって事だよ。」
ファビアンにそう小突かれて、セリウスは眉根に皺を寄せて唸る。あたしに向けるあの柔らかな微笑みをほんの少しでも表で出せば簡単だろうに、どうにもそこだけは不器用らしい。
...ま、正直なところ悪い気はしないので黙っておく。
「比べてわたくしは五年ほど離れただけで、社交界に戻るのが恐ろしくて...。実は、セリウス様からお聞き及びかもしれませんが...、13の歳に没落してから、18まで身売り先で下働きをするうちに、何もかも抜け落ちてしまいましたの。」
彼女のその言葉に、あたしは初めて聞いたような表情を取り繕ってみせる。騎士団の面々が話した事がファビアンに知れるのは望ましくないだろう。
「いや、初耳だ。離れていた理由がそんな事とはね...。社交界のお披露目が大体13だったか?なら作法が身に付かないのも仕方ないだろ。」
そう言うとあたしはセリウスを見やり、その肩をポンポンと叩きながら続けた。
「それに、あたしだってこいつから礼儀作法を叩きこまれるのにまる一年掛かったんだ。ヴィオレッタは騎士夫人らしい言葉が使えるだけ充分だろう。あたしはハナから諦めてる。」
「ええ。その上、ステラさんは指摘する度に不機嫌になられるので骨が折れました。ラングロワ夫人はその点に関しては心配ないでしょう。」
あたしが冗談っぽく笑い、セリウスも釣られて笑みを溢しながらヴィオレッタに目を向けて見せる。
「ふふっ、お心強いお言葉、感謝いたしますわ。」
その様子に、彼女も口元に手を当てるとおかしそうに微笑んだ。
まだ読んでくださっている方はいらっしゃいますでしょうか...?リアクションや評価を頂けますと励みになります!そろそろ第二章を始めようかと思うのですが、需要があるのか正直不安です。




