61.香水商
シュリー嬢の屋敷へ向けて朝焼けの中を馬車は走る。
資料を眺めていたあたしは、ちら、と向かい側に座るセリウスに目をやった。
同じく資料に目を落とし、ぱら、とめくるセリウスの澄ました目元があたしの視線に気付いてこちらを見た。やわらかな白い朝日の中で、金色の瞳がほんの少し細められた。
「どうされましたか。」
その声色の優しさにどき、としてあたしはまた書類に目を移す。
「なんでもない。それよりちゃんと覚えたのかよ。」
そう言ってごまかすと、セリウスは「ええ、問題ありません。」とゆっくり頷いて見せる。こちらは目を逸らしたってのに、まだその穏やかな視線があたしに注がれているのを感じる。
あたしは資料を少し持ち上げて、顔を隠した。
あの夜、セリウスの肩を借りて泣いてから、なんだか彼の態度が以前よりも柔らかくなった気がする。
そもそも泣く気なんてなかった。
はっきり言って不覚だった。
あいつの地響きのような低い声で追い詰められ、感情が揺らいだところをあんなに強く抱きしめられたせいだ。
あの声で迫られ、壁に手をついた大きな身体に覆い被さられ思わず身がすくんだ。しかし同時に、彼の心がイスティアではなく間違いなく自分にあるというその言葉に、何故か震えるほど安堵と喜びを感じている自分がいた。
そしてあたしを抱きしめた彼の体温がひどく温かくて、その熱に包み込まれるような安心感がどうしようもなく堪らなくて。
必死に抑え込んできた、あの日の深い悲しみが、まだ捨てきれないイスティアとの思い出が、堰を切ったように溢れ出してしまったのだ。
母さんが死んだ時だって、誰にも涙を見せなかった。皆が泣く中、親父代わりのジャック達に抱き締められたってちゃんと涙を堪えられた。
次代の船長として、女王として君臨するのだからと、あの日に涙なんて捨てたと思っていた。
なのにこいつといるとペースが狂わされっぱなしで、築き上げてきた強い自分を忘れそうになる。
あたしは“女の子”なんかとっくにやめちまったのに。
「少し隈が薄くなりましたね。眠れるようになりましたか。」
あたしを気遣うような彼の声で、意識が現実に引き戻される。あたしはこれ以上絆されないようにわざとにっこりと笑顔を作った。
「ああ、おかげさんでな。
お前もちゃんとあの魔法、万全に使えるんだろうな?足だけ消えてないとかやめてくれよ。」
そう冗談っぽく笑ってみせると、彼も釣られてふっと笑う。
「問題ありませんよ。ただ神経を使いますので、触れていない人間には適用できません。お側を離れませんよう。」
そう微笑んで見せる彼に、あたしはわざとふいっと窓の外へ視線を移してやる。
「やだね。肩組んで仲良く潜入なんて馬鹿らしいことできるか。でかいお前が消えてりゃいいのさ。」
セリウスはその言葉を聞いて信じられないという目つきをした後、呆れて馬車の天井を仰いだ。
「本当に言う事を聞きませんね、貴女は...。」
馬車がシュリー嬢の屋敷に到着し、コートと帽子を預ければ家令によって広い応接間へと通される。
時間はまだ昼前、香水商が来るのはもう少し後だ。
彼女と共に以前香水商が来た時の様子や、控える馭者の数などを聞きつつ作戦内容を固めて行く。
その後客室を借り、潜入の為に装備を整える。
あたしは目立つ髪を三つ編みにしてきっちりとまとめ上げ、シュリー嬢から借りた黒のレースヴェールを修道女のように被って髪と目元を隠す。厚みのある黒いレースはあたしの瞳の色を隠すが、こちらからは視認できるので都合がいい。
いつものぴったりとした黒い革の上下は変わらないが、足音を残さないようにヒールに布を貼ったブーツに履き替えて、硬く紐を編み上げた。
セリウスは姿を消せるのでそのままかと思いきや、彼にも潜入用の装備があるらしい。
普段よりも少し厚めの黒のタートルネックに黒革のベストを羽織り、胸当てのついたベルトを上から纏う。ズボンがはためかないように膝の下までを黒い脚絆で締め上げる。
特殊な紋様が施された指先の空いた革の手袋、そして足音を消すと言うグリップの効いたブーツ。最後にその黒髪を高いところできっちりと結い上げ、黒いフードを被り口元を同じ色の布で覆った。
全身を真っ黒な装備で覆われ、覗く金の瞳だけがセリウスだとようやく認識させる。
その立ち姿は騎士というより、どう見てもアサシンのようだ。聞けば、王弟の側近として与えられたもので騎士団が所有する装備ではないのだという。
いわゆる隠密、“王家の影”の装束なのだそうだ。
シュリー嬢はあたしたちの姿に大変喜び、彼女が潜入するわけでもないのに一番やる気にみなぎっている。しばし彼女を落ち着かせながら最終確認をして、約束の時間まで香水商を待った。
「...なかなかお知らせがないのですもの、首を長くしてお待ちしてましたのよ。」
「いやはや、ご贔屓頂き光栄の至りにございます。本日も“あの香水”から新商品もご用意しておりますので、お楽しみいただければと...」
応接間への廊下を歩む、出迎えたシュリー嬢と香水商の男の声に聞き耳を立てる。ゆっくりとした足音と共に上擦った猫撫で声の男がこちらへと歩み寄る。
「さあ、どうぞ。メイドに紅茶を淹れさせますからこちらでお待ちくださいな。」
「ああどうも、ではお先に...」
カチャリ、
とドアが開けられ男が足を踏み入れたその瞬間。
ドアのすぐ側に控えていたあたしは男の足に爪先をかけてよろめかせ、胸ぐらを掴んで引き倒す。
「うお!?」
男が声を上げると同時にダン!と音を立ててセリウスが床に押さえ付け、即座に男の手を背中側に押さえると魔封じの布で強く縛り上げた。
「ぐぅ...ッ」と男が苦しそうな声を上げる。
その早業にシュリー嬢とその後ろに控えていたメイド達が黄色い声ともにぱちぱちと拍手を降らせた。
「こらこら、見せ物じゃないんだよ。」
あたしが呆れて言うもシュリー嬢は「良いものが見れましたわねえ」とメイド達と嬉しそうに手のひらを合わせた。
あたしはそれを見て軽くため息をつくと男の前にゆっくりと歩き、口を開く。
「...さて。
このまま跡形もなく消し炭になるか、
それともあたし達を案内して暖かい家に帰るか。」
「好きな方を選びな。」
顔の前にしゃがみそう微笑むと、男は観念したように力無く項垂れた。
セリウスの魔法で馭者を上手く脅し、夕暮れを待って縄を解いた男を馬車に乗せる。あたし達も向かい側に乗り込むと、男はこちらの視線に身体を縮めた。
屋敷での尋問の結果、男には魔力が無かった。それもそうだ、魔力に反応する香水の商売をするのに魔力持ちでは到底扱えないのだから。ましてや末端の駒にわざわざ紋章を入れる手間はかけないだろう。
「良いか。少しでもおかしな動きがあれば燃やす。」
指先からバチリと派手な火花を散らしてみせる、セリウスの低い声に男は息を吸い込む。それと同時に馬車がゴトンと動き出した。
普段の精悍な騎士然とした姿ではなく、口元を隠しフードを目深に被って隙間から金の瞳をぎら、と光らせる姿はまさに賊か暗殺者のようだ。
その上、地を這うようなその声で人を脅してみせる違和感の無さときたら。“騎士たるもの”なんていつも言う割に、そのまま賊の頭目にでもなれそうじゃないか。
セリウスはそんなこちらの視線に気がつくと、ヴェールで目元まで隠したあたしの唇をちら、と見るなり、なにやらため息を吐いて目を逸らした。
男の話によると工房の内部は三棟に分かれており、そのうち最奥の棟で“特別な香水”が製造されているらしい。その棟には限られた人間しか入ることを許されず、原料となる花が栽培されているのだとか。
であれば“特別な香水”のみならず、王の暗殺に使用された“薔薇の雫”もその棟で製造されている可能性が非常に高い。
香水が効いてしまうので最奥の棟の中に入れるのはあたしだけ。セリウスは外部であたしの侵入を気付かれぬよう警備の兵を始末する分担となった。
「そっ、そろそろです...。」
男が怯えながら口を開く。
ちら、と馬車のカーテンを小さく開ければ、道の少し先に物々しい塀に囲まれた工房らしき建物が目に入る。その建物は工房とは名ばかりで、もはや大工場のような規模だ。外部の侵入を相当警戒しているらしく、ここから見えるだけでも数多く傭兵を雇っているのがわかる。
「...こちらへ。」
セリウスがそう言うなりあたしの身体を抱き寄せて、パチンと指を鳴らす。
その途端、全身に光が纏い、じわじわとあたし達の身体がその空間に馴染んで消えていく。目の前の男が目を見開き分かりやすく狼狽えた。
完全に男の視界から消え去り、自分でもその身体を視認できない。抱き寄せられたセリウスの感触はそのままあるものの、見つめても見えないのでおかしな感じだ。
「姿が消えているだけだ、狼狽えるな。
怪しまれぬよう普段通り動け。」
セリウスが男にそう告げるとびくりと跳ねるように男が驚き、小さな声で「は、はい」と答えた。
馬車がゆっくりと門の前に着けられ、警備の兵が馭者と何かを会話している。そして兵が窓越しにこちらを覗き込み、馬車の扉を開けた。
「シュリー嬢の元へ向かったエイダン・ウェルズか。随分と戻りが遅かったな。」
「すっ、すみません!道中で腹を下してしまって...。」
男がそう言うと兵はふん、と憮然として答える。
「いいから戻れ。持ち帰った香水の在庫は必ず記録して倉庫に戻せよ。」
そう言うなりドアが乱暴に閉められた。
どうやら上手く切り抜けたらしい。
馬車は門をゆっくりと潜り、大きな倉庫の前に着けられる。男が荷物を下ろすのに時間をかけるフリをしている間に、あたし達はそろりと馬車を降り立った。
夕暮れの出発からすっかり日は落ち切っている。
これなら多少魔法が解けたところであたし達の黒の装束は闇に溶け込むだろう。
「さあて、始めるかね。気ぃ引き締めろよ。」
あたしがそう囁くと、セリウスが隣で頷く気配がした。
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