60.虚勢
イスティア・フィーエが捕らえられ、五日が経った。
兵舎には日常が戻ったものの、あえて皆が忙しく動き回り、ぽっかりと空いたような静けさを誤魔化しているように感じる。
魔研部署のルオーニ最高術師は彼女の事を知らされると酷く残念そうな顔をしたが、「お詫びとして出来る限りのご協力を」と彼女の研究室を騎士団に解放し、すべての研究員の情報が記された資料をこちらに引き渡してくれた。
ステラさんはというと、あの後の報告にただ頷くだけで兵舎を後にされてしまったので、それ以降会えていない。
感情を閉ざして全てを諦め切ったような彼女にかける、上手い言葉も見つけられなければ、引き留めることすら俺には叶わなかった。
一応、イスティアのその後の処置と魔研部署から預かった資料について記した手紙を送ったものの、その返事は未だ返ってきていない。
だが、彼女とて暇なわけではない。ただでさえ船長として主艦の他に40隻余りの船を所有している上に、護衛契約を組んだ商船団の管理まで行っていると言うのだ。
今は忙しさに身を任せ、複雑な感情を忘れようとしているのかもしれない。
執務室での書類作業が終わり、いつも通りに机の上の報告書を纏め羽ペンのインクを拭き取る。立ち上がり椅子を戻そうとしたその時、バン!と部屋の扉が開け放たれた。
「セリウス!話がある」
夕焼け色の髪を靡かせて歩み寄る彼女がこちらの机に手をつく。その面持ちはあの日見た冷え切った表情ではなく、真剣ではあるものの、いつもの彼女のように見える。
「ステラさん。もう、...よろしいので?」
何が、とも言えず少し遠回りな言い方で彼女を気遣う。
彼女は、はっと吐き捨てるような短いため息をついて、虫でも払うようにその手を軽く振った。
「ああ、あれか。そんな事はいい」
まるで石に躓いただけだとでも言うような口調で言ってのけた彼女は、表情を即座に戻して俺に向き直る。
「それよりも確認したい事がある。お前、魔研部署の全職員の資料を譲り受けたんだろう?今すぐそれを見せろ」
突然の事に驚くも、断る道理はない。
俺は棚の上に積み上げていた膨大な資料を、彼女の前にどさりと移動させた。
「ふうん...、まあそこそこあるな。顔だけ覚えるならなんとかなるか」
彼女はそう言ってぱらぱらと資料をめくる。
「いったいどうされたのです。お話とやらは?」
俺の困惑した言葉に彼女はめくる手を止めてこちらを見る。そしてその目をまた書類に戻しながら口を開いた。
「シュリー嬢の元にレ・フィリアからの手紙が届いた。前回香水を購入できた顧客にのみ、もう一度特別な香水を販売するという知らせだ」
「利用しない手はない。屋敷に来た香水商を捕らえ口を割らせ、その馬車で工房に潜入するつもりだ」
工房内に潜入だと?
あまりに大胆な発言に思わず言葉を失うも、彼女は俺の様子を気にせず言葉を続けた。
「ラディリオはまだ魔研部署に出入りしてるんだろう。ならば姿を変えていても資料にあるやつの顔を借りている可能性が高い。ゴーセット卿によるとまだ香水は作られている。つまり工房内に同じ顔があればそいつがラディリオという事だ」
なるほど。そういう事か。
納得は行ったが、敵地の真っ只中に単身で乗り込むなどあまりに危険すぎる。俺がそう口を開きかけるも、彼女の指先がぴた、と俺の唇を抑えた。
「お前はでかくて目立ちすぎる。あたしはこう見えて体が柔らかいし、屋根を伝うような軽業は得意だ。止めるなよ」
そうしてまたぱらぱらと資料をめくる彼女は、俺がその場に居ないかのように集中してしまう。
突然現れたかと思えば、こちらの心配もよそにこの態度。流石に腹が立って来て、俺は彼女の手の中の資料を取り上げた。
「なんです、その“お前には関係ない”と言いたげな態度は。俺は貴女と任務を共にする片割れでしょう」
彼女は取り上げられた事に不機嫌な顔をしつつも、机の上の別の資料を手に取ってしまう。
「実際問題、あたしにしか無理だから言ってるんだ。お前の出る幕はないから大人しく指咥えて見てろ」
そして資料に目を落とす彼女の手から、また俺は取り上げてばさっと机に重ねる。
「それで貴女が捕らえられ、ましてや殺されでもしたらどうするおつもりですか。貴女は一度死にかけているのですよ」
彼女は明らかに苛立ちながらまた資料に手を伸ばすが、俺はすかさずその手を掴む。
掴まれた彼女がこちらをぎろりと睨みつけた。
「離せよ。それか体を透明にでもしてから言うんだな。あたしはさっさとこの鬱陶しい任務を終わらせちまいたいんだよ」
「いいえ、離しません。俺が透明になる事がお望みなのでしょう。わかりました、叶えましょう。よくご覧になっていて下さい」
そう言うと俺はその場でパチン、と指を鳴らして見せる。その途端、俺の体に光が纏い、そしてじわりとその背景に体が溶けていく。
「なっ...は!?ええ!?」
手を掴まれたままの彼女が俺のいる場所を見つめ驚いて声を上げる。そうして数秒後、完全に俺の体は彼女から視認できなくなった。
俺はその手を掴んだまま、彼女の髪の毛先に触れてみせた。何もないところから触れられたように感じた彼女がその身をすくませる。
「ひっ!?やっ、やめろ!どう言う原理なんだよ!」
俺は魔法を解かないまま、驚く彼女に説明する。
「光学迷彩ですよ。光魔法でその場の風景をこの体に投影する事で、まるで居ないもののように見えるのです。鍛錬でももっと単純な投影で分身を作り出しているでしょう。あれとおおまかな原理は変わりません。...少し神経は使いますが」
そう言ってすう、と魔法を解いて見せる。
「...それで、俺が供をして何か問題が?」
その場に現れていく俺の姿を追うように彼女の目が動き、ぎゅっと目を瞑ったあとに俺の顔をもう一度見た。
「そっ、それは...」
たじろいで何か言いかけたかと思えば、握られた手を見て思い出したように俺をキッと睨みつける。
「...いい加減手ぇ離しやがれこのナンパ野郎!あの女がダメだったからって未練たらしく触れんじゃないよ!」
彼女はその手をばっと振り解く。
あの女?何のことか分からず言葉を返せずにいると、彼女は資料を勢いよく掴み取る。
「付いて来られるからって安心してんなよ。来週までにお前もこの顔を全部覚えるんだからな!」
そう言って俺の胸元に分厚い資料を叩き付けた。
「くそ、こいつら双子か?似たような顔が多いな...」
ステラさんが煮詰まって苛ついた声を上げる。
仕事終わりから執務室で資料を眺め始めて数時間。完全に日は落ち切り、さすがに目も疲れて来た。
「一日でどこまで覚えるつもりですか。もうここも締めますよ。明日にしましょう」
俺は資料をばさりと置くが、ステラさんは資料を手放さない。
「ここはお前の仮眠室に繋がってんだろ。限界まで覚えるからベッドを貸せ。鍵は預かってやるからお前は帰れ」
まったく、先ほどからつま先を苛立たせてせわしなく音を立てている癖に、何を言っているんだこの人は。
気丈に振る舞っているものの、明らかに彼女は酷く焦っている。おそらく先日のイスティアの裏切りがそうさせているのだろう。早く終わらせて過去にしていまいたいと躍起になっているに違いない。
俺はため息をついて、彼女の手にある資料をひょいと取り上げた。
「いい加減になさってください。そんな事をしても彼女を忘れられるものでもないでしょう」
ステラさんにとってはきつい言葉かもしれないが、無理をさせるよりはいい。
しかし彼女は俺をぎろ、と強く睨みつける。
「うるさいよ、お前。あいつに一度惚れたからって甘いもんだな。海賊はね、裏切り者は殺すんだ。殺せないならさっさと忘れちまいたいんだよ」
そう言って凄む彼女に、あの惨状を思い出す。
彼女はただの女ではない。俺と同じく必要とあらば人を手にかけて生きて来たのだ。
しかし今は何故か虚勢にしか聞こえず、その上聞き流せない単語があった。
「...俺が惚れた?だから貴女を襲った事を許してやれと言っていると?馬鹿な事をおっしゃらないで頂きたい」
ぐい、と詰め寄ると、彼女は少し怯む。けれどもすぐに俺を睨みつけ、小馬鹿にするように笑った。
「はっ!可愛らしいだとか守りたくなるとかほざいたそうじゃないか?今更、敵だったから撤回とは情けない奴だな!」
なんだその言葉は。全く言った覚えのない事を言われ侮辱され、腹の奥底からふつふつと強い怒りが込み上げる。
「あの女がそのような事を嘯いたのですか?それで貴女はそれを馬鹿正直に信じていると。そうですか、なるほど。俺が伝えた言葉は忘れても彼女の嘘は覚えているわけだ」
そう低い声で彼女を問い詰め、ゆっくりと壁まで追い詰める。気丈だった彼女の瞳は俺の目から逸らせぬまま少しずつ狼狽え、明らかな焦りを宿して行く。
俺は彼女を逃さぬよう、覆い被さるように壁に勢いよく手をついた。彼女がびく、と震える。
「いいでしょう。早くあの女を忘れたいとお望みならば、今度こそ俺で塗り替えましょうか。より貴女の心に残るような事をすれば、思い出す暇も無くなるでしょう」
「そして俺の心が貴女以外に無いことを
...やっと思い知って下さいますね」
俺が追い詰めた彼女の顎を持ち上げると、彼女がひく、と怯えたように短く息を吸った。
身動きできぬまま俺を見る彼女の目が潤み、大きなエメラルドの瞳が揺れる。
このまま奪ってしまいたい。熱を込めたまま彼女を見つめ、ぐ...と身を屈めると指に彼女の震えが伝わった。
俺を見つめたままの瞳が、透明な雫を纏う。
じわり、と溢れ、
長いまつ毛を濡らしていく—————————
....だめだ。
俺はぐっと目を瞑り耐え、持ち上げた顎から手を離すと、そのまま彼女の身体を強く抱き寄せた。
驚いた彼女の体がびくりと震えるが、抵抗はされない。
「...申し訳ありません。こんな話をするつもりでは...。ただ、貴女の無理をやめさせたかった」
しばらくそのまま抱きしめれば、彼女は腕の中で沈黙する。
そのうちに、言葉を発さず抱かれていた彼女の細い肩が、小さな嗚咽と共に震え始める。
彼女の頭がもたれかかった肩の布が、じわ、と熱を持って濡れて行く。腕の中の彼女の指が、俺の胸元の服をぎゅう、と握りしめた。
「....ひっ...、う、.....」
押し殺すような嗚咽と共に、ぽろ、ぽろ、と俺の肩が温かい涙で濡れそぼる。
俺は彼女の柔らかい髪にそっと触れ、ゆっくりと、優しく、壊さないように撫でた。
「...どうか、一人で抱え込むのはおやめ下さい」
「あのような事があって、平気で居られるわけがないでしょう」
俺がそう言うと、彼女は消え入りそうな声で「うるさい...」と答える。
泣いているというのに、まだ憎まれ口を叩く彼女がいじらしい。俺はその身を包み込むように抱きしめた。
彼女は少しだけ、俺に身を預ける。
そうして、彼女の涙が渇くまで、
静かに夜は更けて行った。
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