41.目覚め
前半ステラ視点、後半セリウス視点に切り替わります。
ふと目が覚めると、何かに鼻が触れる。
なんだこれ...。
ペタペタと触って確かめるとそれが彫刻のように整ったセリウスの顔だと気付き、思わずひゅっと息を吸う。
そ、そうだ。あたし、酔い潰れたこいつをここに寝かせたんだった...。心を落ち着けながら暗闇の中で目を凝らすと、眠っているらしいその顔は子供のように穏やかなのに、喉仏と男っぽい輪郭に少しどきりとする。つんつんとその頬に触れて、起きそうにないことにほっと息を漏らすと、あたしはするりとベッドから抜け出した。
その時、布団の中から腕を掴まれる。
あっと思ったその瞬間、その身を強く抱き寄せられ布団の中に引き摺り込まれた。
同時に低い声が囁く。
「俺から逃げられるとでも?」
強く息を吸い込み、はっと目が覚める。
今の...、夢!?
ドッドッドッと心臓が大きな音を立てている。
身体の感覚が夢そのままな事に慌てて身じろぎをすると、セリウスの腕はしっかりとあたしに回され、当の本人は穏やかに小さな寝息を立てている。こ、これのおかげで変な夢を見たのか...。
あたしは彼の指をつまんで一本ずつ外すとその大きな手をどけて、今度こそ腕の中からそろそろと抜け出す。
はあ...、夢のせいでなんか疲れた...。
天蓋をわずかに開けてベッドから抜け出ると、机の上のランタンをぽう、と灯し、懐中時計を確認する。
早朝四時半...。
ずいぶん早く目が覚めちまったな。
振り返ると、天蓋の隙間から乱れた黒髪と彼の美しい目鼻立ちがランタンの柔らかな明かりに照らされて妙に艶めかしい。夢を思い出して、かあ、と頬が火照るのを感じ、あたしはそっと天蓋を閉める。
流石にもう一度あそこに戻って眠る気にはなれない。
しかしどうする。まだ日も登っていない早朝だ。
...流石にこんな時間ならあいつも起きて来ないだろう。
そもそも泥酔してるんだ。酔いが覚めるまで起きっこないよな。よし、この隙にひとっ風呂浴びて気持ちを変えてしまおうか。
そうと決まれば。
あたしは薪ストーブの扉を火かき棒でひっかけて開けると、すっかり熾火になっていた炭に薪を何本か足してふうふうと息を吹きかける。にわかに赤く火が立ちのぼり新しい薪がパチパチと燃え始めて、煙が漏れ出ないよう鉄の扉を閉める。
軽くて薄い琺瑯の大きな鍋に、部屋の入り口近くの樽から木のバケツで何度か水を注ぐとストーブにかける。水を汲んだバケツも満たして置いておき、隣に沐浴用の陶器の水差しと石鹸、香油を並べる。部屋の端にあった大きなタライをずるずると引き摺ってストーブの前に移動すると、大盤の麻布をばさりと被せた。
ふう、これでよし。
湯気を立てる鍋の湯を、気をつけてタライの中に注ぎ入れる。熱さを確かめて少し水を足し、水差しの中にも適温の湯を汲んでおく。しっかりとストーブで暖まった部屋の中で、あたしはシャツと下着を脱いで床にぱさりと落とす。満を持して、湯を張ったタライの中に爪先からちゃぷんと座り込んだ。
あー...、あったまる...。
身体半分しか浸かれないとはいえ、温かい湯は良いものだ。あたしは湯をすくって顔を洗うと、石鹸を湯の中で溶かしながら泡立てた。もこもことタライの中に泡が溜まっていく。水差しを持ち上げ髪を濡らし、ゆっくりと泡を揉み込んでほぐす。ルカーシュのあの大きな浴場はすごく豪華だったけど、一人きりで落ち着ける、素朴なこの空間だって悪くないよな。
はあ、やっと気持ちが落ち着いてきた。
あいつが起きたら紅茶でも淹れて、ギャレーからパンとベーコンでも取ってくるかな...。
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ちゃぷ、と水音がして目を覚ます。
体感はいつもと同じ、早朝五時。うっすらと目を開ければ、手が触れるのはしっかり掛けられた毛布、ふかふかの枕...。俺はいつ屋敷に戻ったんだろうか。
昨夜はステラさんを食事に誘い、俺の正直な言葉に恥じらう彼女に“今日こそは”と畳み掛けたものの、タイミング悪く出てきた料理にあっさりと負け...。それからボトルを催促する彼女との飲み比べが始まり、しばらく付き合って....それから...、それから、記憶がない。
人生であんなに酒を飲んだのは初めてだ。
成人した時に振る舞われてから騎士団の食事会や、「嫁探しだ」と連れられた夜会などで酒を口にする機会は度々あったが、対して味がいいものだとも思えず、酔って楽しいという感覚もわからず。酒とは仕方なくその場で一、二杯付き合うくらいのものだった。
それなのにあれほどステラさんに付き合ったのは、彼女の言うように打ち負かせば希望があるのではという淡い期待と、彼女があまりに楽しそうに飲むものだから。このままこの時間が続けば良いと、からからとよく笑う彼女に見惚れているうちにグラスの杯数など忘れてしまったのだ。
おかげで頭がズキズキと酷く痛む。なんだかベッドが揺れている気さえする...。酒とは、飲み過ぎるとこうなるものなのか...。
ちゃぷ...、ぱしゃ、と水音の幻聴まで聞こえる。
ふと音の方向に手をやれば厚いベルベットの布に手が触れた。カーテン...いや、これは天蓋...?俺のベッドに天蓋など無かったはず。では、ここは何処だ。
痛む頭を押さえながらゆっくりと起き上がり、天蓋をほんの少し開ける。見慣れない部屋に、ほんのりと照らすランタン。水音の方向を見れば、立ち上る湯気の中に女の背中と濡れた夕焼け色の髪が見えた。
濡れた髪から滴った雫の線が、彼女の滑らかな背から細く締まったくびれををなぞるように落ちていく。柔らかな灯りに照らされながら水差しを持ち上げ、湯を浴びる姿は何処かで見た女神の彫像のようだ。その持ち上げられた二の腕の隙間から、豊かな膨らみがふっくらと主張するーーーーー
ーーーーッ!?
呆然と見惚れてしまった自分に気付き、慌てて身を引いて天蓋を閉じる。がば、と両手で顔を覆い、今見てしまったものを必死に整理するが思考がまとまらない。
ここは!?いや、これは、一体どう言う状況だ!?
なぜステラさんが湯浴みを、綺麗だ、いやそうではなくて、ここはどこで、俺はいったいどうしてしまったんだ。思い出せ、思い出せ。
そうしている間に暗闇に目が慣れてきて、灯りに透けた布の向こうに彼女の影が浮き出ている事に気づいてしまう。
ばしゃ、という水音と共に水差しを掲げた彼女の影が湯を浴びて、トン、と水差しを置く音と共にゆっくりと立ち上がる。細くくびれた腰の下から丸い膨らみが、そこから長い脚がすら...と現れ、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
目を離せぬままに、きゅぽん、と何かの栓を開ける音がして、ゆっくりと身体をなぞるように彼女の手の影が滑り始める。誘惑するような艶めかしいその動きに、思わず身体が熱を持つ。いや馬鹿か俺は、...香油、そう、香油を塗っているだけのはず。
これ以上見ていては彼女に失礼だし、もう色々耐えられない。片手を目元に当て神に祈る様に天を仰いで耐えるも、しゅる、ぱさ、と着替えの衣擦れの音が想像を掻き立てる。
なんなんだ、この苦行は...!?
ひたすらに耐え続けていると、やがてズズズ...と何かを引きずる様な音とバシャンと水を流す音がして、とんとんとん、と足音が近づく。
そして覚悟をする間もなくするりと天蓋が開かれた。
俺は目を覆ったまま、思わずびくりと体を硬直させる。
「うわっ、起こしちまったか?」
ステラさんの驚いた声がするも、顔が見れない。
今顔を見てしまったら、先ほどの湯浴み姿に重ねてしまいそうな気がする。
そんな俺の気も知らずに、彼女の指が俺の目を覆っている指にかけられる。
「眩しかったか?ごめん、まだ5時半なんだよ。」
そう言いながら俺の手を退けて笑う彼女が可愛らしくて、ぐっと胸が潰されるような気がした。
唇に紅が引かれていない彼女はいつもより少し幼く、湯上がりでほてった頬が柔らかそうだ。
「天蓋の中が寒くないかと思ってさ...。今紅茶を淹れてるけど、飲む?」
「い、いただきます...。」
ベッドから足を下ろし腰掛け、見回すとそこは見たこともない調度品で満たされていた。
異国の刺繍が散りばめられた絨毯、重々しい木でできた海図を固定するらしきテーブル。おそらく北国の優美な装飾をされたクローゼット、貝殻の様な光沢の模様が目を惹く大きな本棚、部屋の隅でパチパチと火が弾ける鋳物の薪ストーブ。壁には謎の少し不気味な仮面、異国の楽器か置物...。その全てが全て頑丈に部屋の中に太い釘で固定されている。
「なんだよぼーっとして。そんなに船が珍しいか?」
彼女の声で合点が行く。
そうか、ここは彼女の船...。それもおそらく船長室。
どうやら俺は酔い潰れてここに連れて来られたらしい。道理で地面がゆらゆらと揺れている様に感じたわけだ。ズキズキと痛む頭に、この船の揺れは地味に辛い。
「はい。...あと頭痛薬。初めての二日酔いか?」
ステラさんはふふ、と微笑んで湯気の立つ紅茶のカップと小さな紙の包みを俺の手に乗せる。なんだか子供扱いをされているような気がしながらも、素直に薬を流し込む。
「...すみません、まさか酔い潰れてしまうとは。」
俺がそう言うと、彼女は悪戯っぽく笑う。
「お前の重たい体を運んで重装備を解くのは骨が折れたよ。まあ、飲ませ過ぎたあたしも悪かったしチャラにしようぜ。」
そう言われて自分を見ると、上着がなくなり一枚の上衣とズボンだけで後は裸足だ。見回すと衣服は適当にその辺りにかけられている。そして俯けば、ベルトが抜かれズボンの前部分が少し開いている事に気がつく。
「な、...ぬ、脱がせたんですか!?」
慌ててズボンの止め具を留めて非難するように俺がそう言うと、ステラさんは憮然として紅茶を啜る。
「その金具だらけのかったい服と一緒に寝れるかよ。お前が寝違えなかった事に感謝してほしいね。」
「一緒に寝...っ!?まさか、このベッドで...」
俺がさあっと顔を青くするも、彼女は紅茶をふうふうと冷ましながら当たり前の様に答える。
「そうだけど。」
あまりの情報に思わずくらりとする。
後ろに倒れそうになりながらも俺は少しの間を置いて彼女になんとか向き直った。
「...あ、貴女って人は、本当に馬鹿なんですか...!?」
そう言われた彼女は俺の言葉を予想していたのか、
つーんと向こうを向いて紅茶を啜る。
「馬鹿とはなんだよ、感謝しろ感謝。」
この人は本当に、危機感というものが無いのだろうか!?全く響いていないその姿に呆れと共に苛立ち、俺は思わず前のめりになる。
「俺などその辺に捨て置けば良かったんです!酔った男を、しかも貴女を口説いた男を自分の部屋に上げるばかりか同衾するなど...!あれほど脅かしたと言うのに、俺が手を出していたらどうするつもりだったんですか!」
俺がそう声を荒げても彼女はカップの方しか見ない。
「手を出すも何も酔い潰れてたし、揺さぶっても起きなかったぞ。」
先ほどから全くこちらを向こうともしない彼女に苛立ちが増す。この無防備さ...黙っておこうと思ったが、正直に言うしかないようだ。
「しかし貴女は先ほど、俺が起きているのに湯浴みまでしていたでしょう!布一枚挟んで俺がどんな気持ちで耐えていたか...貴女は自分が大切ではないのですか!」
俺がそう言うと打って変わって、ぴた、と彼女の体が固まる。そして恐る恐る彼女はこちらを振り返った。
「そ...それは...、えっ、起きて...?」
しどろもどろになる彼女に、俺は大きくため息を吐きながら答える。
「起きていました!」
途端に彼女の頬はみるみるうちに真っ赤に染まり、みるからに動揺を露わにしてその場から立ち上がった。
「うううう、うるっさいな!!だいたい二日酔いであたしに何するってんだばーか!寝たフリしてる方がタチ悪いだろうが!」
俺に人差し指を突き立て、寝たフリだと言ってのける彼女に思わずこちらも焦り立ち上がる。
「ねっ、寝たフリでは!いえそうではなくて...っ、」
焦ったせいで言葉に詰まる、違う、俺が言いたい事は...!ええい、手元のカップが邪魔だ!一息に飲み干すとその場にタン、と置く。
「...ああくそ、...俺はっ!貴女を大切に思っているからこそ迂闊な事をして欲しくないだけです!!」
ぐいと彼女の腕を取り、引き寄せる。
「っ...!!」
彼女が目を見開き、息を小さく吸う。
俺はそのまま彼女の両肩を抱いてその顔と真っ直ぐに向き合った。少し息を整えて、言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。
「...俺は、無理やり貴女を手籠になどしたくありません。ですが、...これは、昨日も言いましたが」
俺は二度目であると分からせるためゆっくりと語気を強める。
「俺は“男”なんです。好いた貴女が無防備でいれば触れたくなってしまう。...貴女を本気で慕っています。ですから、自分の身を危険に晒すような事は止めて下さい。こんな事を、もし俺以外にもしているのなら耐えられません。俺を嫉妬に狂わせたいのですか。」
俺の真剣な訴えに、彼女のエメラルドの瞳が揺れる。
「セリウス...」
彼女が見つめあったまま、俺の名をつぶやく。
...今度こそ、俺の気持ちをわかってくれただろうか。
そう俺が安堵のため息を吐きかけたその時、彼女が俺の胸にトン、と身体を預け体重をかける。
ドキリとしたのも束の間。
彼女にぐいと肩で押され、ドサッとベッドに押し倒される。衝撃に固まっていると、彼女は俺の上で起き上がりその大きな瞳でこちらを睨んだ。
「悪いけど、あたしの行動はあたしが決める!それでお前がどれだけ振り回されようが知っっったこっちゃないね!あたしが大切だって思うなら、お前が惚れた女はそういうやつだって諦めな!」
一息に言い終わった彼女はふん!と息を吐くと
照れ隠しの様に髪をばさっとかきあげて立ち上がった。
「...な...。」
俺は完全に油断していた所を突かれ言葉を失う。
「...それからな、誰にでもこうやってると思うなよ。じゃ!あたしは朝メシを取ってくるから!大人しくそこで寝てろ!」
わかりやすく顔を赤く火照らせながらも、彼女はドアの向こうの柵からひょいと飛び降りて行ってしまう。
は、反撃された...!?
彼女は今まで、俺が正直な好意を告げる度に赤くなって逃げようとしていたが、俺が追撃を緩めるか邪魔が入らない限り、追い詰められた獲物のようにその場で動けなくなっていた。
今回は特に、王手と言えるくらいには真っ向から向き合って追い詰めたはずだ。
なのに、まさか押し倒されてしまうなんて。
しかも1ミリも俺の話が響いていない。
ようやく彼女に効果的なアプローチが分かり始め、いずれその心を射止められるかと思いきや。
まったく、どこまでも手に負えない人だ...!
マチルダ夫人はじゃじゃ馬と言ったが、もはや虎でも御そうとしているかのようだ。
思い返せば練兵場の一戦でも、昨日の食事でも、彼女を捕まえたと思えば強かに反撃を喰らっている。
そのくせ誘惑するような行動ばかりで翻弄されて。
俺は寝転がったまま両の手を目元に当てた。
....なぜこんな厄介な人に、俺は惚れてしまったんだ...。
ステラはMBTIで言うとESTP起業家型、セリウスはISTJ管理者型で書いています。しっかり説明すれば分かるだろうと思っているセリウスと、自分の価値観に無いものは知らね〜!と思っているステラなので惚れてるセリウスが苦労します。