39.紳士的な狼
ルカーシュに教わった道順を辿りながら城内を彷徨き、それらしき部屋を見つける。ここがあいつの執務室か。城付きの騎士一人に当てがわれるにしては随分立派な作りの扉だな。
よし、今日こそはあのクヨクヨ野郎を叩き直して、あたしを無駄に避けるのをやめさせてやる。
あたしはその両開きの扉をばん!と開けた。
「喜べセリウス!」
「...ステラさん、どうしてここに」
セリウスは横長の重々しいデスクに書類の山と向き合っていた。あたしはセリウスの仕事机につかつかと歩み寄ると、どかっと机の上に腰掛ける。
「ルカーシュに聞いた。それより聞け!香水の効果は魔力の強さに比例してたんだ。お前がああなったのは、誰よりも魔力が強い体質で効きすぎたせいなんだよ!」
あたしが座ったまま机に片脚を上げて彼の目の前に片手を付くと、セリウスが体を少し後ろに引いて何か言いたげにあたしの名を呼ぶ。
「...ステラさん、」
足を乗せた事に文句があるのだろう。
でも今はあたしがここ最近のお前の態度へ文句を言わなきゃならない。あたしは声掛けを無視してもう片方の手をセリウスの目の前につき、ぐいと身を乗り出して彼に迫った。
「ったく、なのにずっとよそよそしい態度取りやがって。あたしは気にしないって言ったのにやり辛いんだよ!」
「ステラさん」
眉根に皺を寄せて再度名を呼ばれるが、今日という今日はその態度を改めさせないと我慢ならない。あたしは未だ紙の上を滑る羽根ペンを持つ彼の手をぎゅっと握って止めた。
「なあ、手を止めてちゃんと聞け。ちょっと近づいただけで避けられるのは流石に気に触る。あたしを落とすとかなんとか言っといてあの程度で狼狽えててどうすん...「ステラさん」
突然、怒りの混じった声と共にセリウスに腕を取られる。バランスを崩し彼の前にぐいと上半身を引き寄せられると、鼻と鼻が触れ合う程の近さで金の瞳が不機嫌にあたしを見据えた。
「いい加減にしてください。あの時、俺は操られていた訳ではないと言ったでしょう。距離を取っていたのは、一度揺らいだ事でまた何かの弾みでこうして俺の自制心が揺らぐのを危惧した為です。」
「えっ、あ...」
言葉を失っているあたしにセリウスは苛立ったようなため息をついて続ける。
「そんな人の気も知らずに...。密室で自分に気のある男に迫るなどと、貴女は本当に危機感が足りないと見える。俺は少し腹を立てていますよ。」
そしてぐいと力強くあたしの腰を引き寄せる。
彼らしくない行動に思わずドキリとして動けないでいるとセリウスが低い声で囁き、熱い息が耳にかかる。
「俺だって男なのですから...香水が無くとも、二人きりで誘惑されれば唇の一つも奪いたくなります。...貴女が許すと言うなら話は別ですが。」
言い終わると共にぱっと手を離され、あたしはバランスを崩しかけてセリウスの両肩に手をついた。
「ゆっ、許すわけないだろ!誘惑だってしてない!」
「ならば尚のこと行動を改めるべきです。」
「うるさいな!あたしの普通を改めさせようとすんな!」
彼の肩についた手でセリウスを押すようにして体を戻すとあたしは机の上に座ったまま背を向ける。
(く、唇!?自制心!?それであたしに触れないようにしてたっ...て...いやいや落ち着け、心臓がうるさい、顔が熱い...のはちょっと驚いただけだ!別に男っぽい行動に当てられたわけじゃないし、狼狽えてなんかない!)
あたしは後ろを向いたまま必死に呼吸を落ち着ける。
セリウスは何事もなかったように散らばった書類をトントンと纏めながらあたしの背に声をかけた。
「...しかしおかげで、ここまで煽られても踏み止まれる事が分かりました。俺も気を張り過ぎていた様です。あの時はステラさんの言う通り香水が俺に相当効いたのでしょう。」
セリウスはそう言いながら書類を引き出しに仕舞い、立ち上がって椅子を机に戻す。
「丁度仕事が終わりました。前と同じ店で良ければ、夕食でもいかがですか。」
そう言われた瞬間、腹がきゅる、と音を立てて思わず両手で抑える。そう言えば、まだエール一杯目で飲み切らないまま出てきてしまったんだった...。
セリウスはそんなあたしを見てくすりと笑う。
「了承された、という事で?」
気恥ずかしさを誤魔化すように、あたしはセリウスを振り向くと彼の胸元をトンと強く小突いた。
「しょ、...しょうがないから奢られてやるって事だ!誘ったからには一番高いのを選んでも文句言うなよ!」
「ーーーで、抱きつこうとしたコンラッドの手が当たって革袋が落ちてさ。店中が臭いって騒ぎ出してわかったってわけ。ん、これ美味い。なにこれ?」
結局、今回もこの店の一々長ったらしいメニューがよく分からずセリウスに注文を任せてしまった。そして喋りながら口にした名前の知らない何かが思ったより美味くて話を中断するも、セリウスは丁寧に答える。
「イリエマスのフリット、つまり川魚の揚げ物です。...効果が判明したのは何よりですが、副船長殿とは普段から抱き合うような仲なのですか。」
そう訊きながらも、まるで気にしないとでも言う様にこちらを見ずナイフを動かすセリウス。ははーん、本当は気になってしょうがないんだろ。ハグくらいで可愛いやつ。さっきはちょっと驚かされたけど、やっぱり所詮は年下だな。
「酔っ払いに抱き付かれるのはごめんだが、ハグくらいは普通だろ。んん?なんだお前、嫉妬してんのか?」
あたしはさっきの仕返しとばかりに悪戯っぽくにやにやと笑いかける。またどうせ赤くなって目を逸らすんだろ。そうなったらもっとからかってやる。
「ええ。嫉妬しますね。とても。」
対して、まるで料理名でも答えるかの様に淡々と言ってのけたセリウスに、あたしは思わず面食らう。
「お...お前、なんかそういう事を馬鹿正直に言う様になったな...?」
あたしがおずおずとそう言うと、セリウスは手元から顔を上げ
「馬鹿正直に言わないと、貴女には伝わらない事が分かりましたので。」
と真っ直ぐに言うので、あたしの方が怯んでしまう。
「そ、そうかよ...。」
顔がにわかに火照るのを感じて、誤魔化すようにワインを口にする。くそ、ペースが狂う。
香水が効いた時はあんなに小さくなって照れてた癖に、馬車の中で告白された時も、執務室でも今回も、こいつが強気になるタイミングが全然わからん。
そういう時に限って、低い声も、刺すような金の瞳も、無駄にこちらをドギマギさせる。こんなギャップで心をやられるなんてたまったもんじゃない。嘘、やられてなんかない。年下になんてぜったい靡くもんか。
「そう言うステラさんも、照れると意外と分かり易いのですね。」
セリウスがこちらを見つめたままふ、と笑う。
指摘された恥ずかしさと共にその笑みが無駄に綺麗な顔立ちに似合っていて、あたしはまた怯みそうになり慌てて捲し立てる。
「っ、...は!?照れてない!ていうか万年赤面症のお前に言われたくない!あ、あたしは酔っただけだし!」
そう言ってワイングラスで顔を隠すように一口煽るも、セリウスは口の端を微かに上げたまま答えた。
「一杯目で貴女が酔うわけ無いでしょう。その赤面症の俺に言われるほど、耳まで赤くなっていますよ。」
くそ、誤魔化しきれない。
セリウスのくせに揚げ足まで取って来やがる。
あたしはますます恥ずかしくなって頬を抑える。
「う、うるさいな!もうほっとけ!」
そんなあたしの姿を今度はセリウスが面白がるように眺めながら微笑んだ。
「ようやく貴女の落とし方が分かった俺が引き下がるとでも?“真っ向から打ち負かされる”のが理想なのでしょう。」
あれはちょっと焚き付ける為に言った出まかせのつもりだったのに。自分が練兵場で言った言葉を使われ、まさに真っ向から来られて怯んでいることに気づいてかあっと頬が熱くなった。
「うう、もうやめろ!そんな目であたしを見るな!」
そう言ってばっと目を逸らすも、笑みを含んだセリウスの視線はこちらを向いたままだ。
「今、とても可愛らしいので無理です。」
...かっ、か、可愛らしい!?
あたしより四つも年下の、すぐ赤くなる純真野郎のくせにこのあたしのことを可愛らしいだと!?
ああもう、その顔をやめろ。調子に乗りやがって。なのになんでこんなに頬が熱くて鼓動が速いんだ。
「やはり、俺は貴女が...」
セリウスが少し身を乗り出して口を開く。
だめだ、今は!逃げ出したい...!
「メインをお持ちしました。子牛のグリエ、ジューヌ風ソースでございます。」
ああ、助かった!いいタイミングでウェイターがあたしとセリウスの間に割って入り、メイン料理を静かに二人分置いた。目の前で格子状の焼き目の付いた肉料理がほんのりと湯気を立てる。
「わ、わあ、美味そうだな〜!ほら、あたしのことはもういいから冷める前に食べよう、な!」
あたしはわざとらしくそう言うと、セリウスの視線を伺いながら正解らしきナイフとフォークを取る。一口サイズに切り分けて口に運ぶと想像以上に柔らかく、とろける様な肉質に思わず目を瞑った。
「んーっ!なにこれ...すっごい美味い!焼いただけでこんなに柔らかい肉があるなんて...」
このソースも、何かわからないけど香りが良くて肉にぴったりだ。はあ、国のお偉いさんってこんないいもんばっか食ってんのか...。
すっかり口説かれていた事を忘れ、料理にうっとりとしているとセリウスが笑いながら溜息を付いた。
「...肉に負けてしまうとは...。このまま押し切れると思ったのですが、なかなか手強いですね。」
苦笑するセリウスにあたしは肉を飲み込んで薄いグラスを唇に当て傾ける。
「ふん、簡単に靡くと思うなよ。ボトル一本開けさせてから出直しな。と言うわけで、はい。」
そう言って空になったグラスを差し出すとセリウスは軽く吹き出してやれやれと手を上げる。テーブルには氷の詰まったアイスペールにボトルが一本置かれ、ウェイターが恭しくあたしのグラスにワインを注いだ。
「ふふふ、そう来なくっちゃ。いやあ、いいねえ!これで口説かれるだけなら安いもんだ。」
すっかりいい気になったあたしが高そうなワインに舌舐めずりすると、セリウスが呆れた様に微笑む。
「ではお望み通り貴女が飲み切るのを待つとしましょう。」
「なーに言ってんだ、お前も飲むんだよ。レディにだけ飲ませて酔うのを待つなんてそれでも男か?」
あたしが手を上げてウェイターを呼ぶとセリウスの前にもワインをなみなみと注がせる。セリウスは観念した様に天を仰ぐとため息をついてグラスを取った。
「明日が非番で良かったと今、心底思っていますよ。」
どんなにステラが無防備でも絶対に正攻法で恋人になりたいセリウスvs真っ向から来られるとめちゃくちゃ弱いのに絶対に素直になれないステラの戦いが始まります。