愛人枠
【二人の新婚時代のお話です】
セリウスにしつこく言い寄る令嬢視点と、それに対するセリウスの対応とは———?
最後はちょっとだけステラ視点。
セリウス・ヴェルドマンが結婚した。
それは彼に恋した男爵令嬢であるわたくし、ソフィア・ルクレールにとって酷い衝撃で、なおかつ敗北の知らせだった。
・・・
初めて夜会で見かけたあの夜から、彼のことが頭から離れなかった。
抜きん出て見上げるような高い背に、腰まで流れる艶やかな黒髪、冷たい光を湛えた黄金の瞳。
わたくしの上擦った挨拶に静かに名乗り返し「...お見知り置きを」とだけ応えた低く甘美な声は、社交界の凡夫に飽きたこの胸を矢のように貫いた。
けれど彼はそれからちっとも夜会に姿を現さず、次に見かけた時には令嬢たちの輪の中だった。
相変わらず彼はほとんど喋ることなく、誰に対しても冷ややかな視線を向けるだけ。それは必死に話しかけようとするわたくしに対しても同じことで。
そのうち群がっていた令嬢方もまったく絆されない彼の態度と氷のような視線に怯え、遠巻きに眺めるだけとなって行った。
“冷徹な黒の騎士”、“氷の騎士団長”
そんな異名と共に
「黒の騎士様はまた縁談を断られたそうよ」
「お見合いで詩のお話に“それに何の意味が”と冷たく返されたとか」
「酷い態度...、お相手のミレット嬢は泣いてしまったそうだわ」
「あの方はきっと戦にしか興味がないのね」
なんて諦めの声も囁かれていた、そんな矢先。
彼は王弟殿下と共に夜会へと姿を現した。
隣に、美しい男装の麗人を連れて。
長い四肢に目の覚めるような夕焼け色の豊かな髪、エメラルドを嵌めたような意志の強い大きな瞳。顔立ちは凛々しく、睫毛の長い美男子のよう。
彼と並ぶと対照的なその人は、まるでこの場の支配者のような余裕の笑みを浮かべていた。
それもそのはず。
彼女は海賊、海の支配者だったのだから。
ステラ・バルバリア。
突然現れた、社交界を塗り替えるような暴力的な美貌。
それでいて女には驚くほど優しく、彼女の甘い囁きと男性顔負けの振る舞いに令嬢方が軒並み落ちて行った。相手は女じゃない、馬鹿馬鹿しい。
わたくしはずっと彼だけを見つめ熱心に声をかけ続けた。
しかし彼はわたくしにはほとんど言葉を返さず、男装の彼女とだけ対等に話せるようだった。
夜会の一角で何かを囁き合い、時折小さく笑みを浮かべる姿に痛みと衝撃を受けつつも目が離せなかった。
...いいえ、彼が男装女に絆されるなんてありえない。だって隣にふさわしいのは、このわたくし。
いつだって物語では、“孤高の騎士には可憐な美少女”と決まっているもの。
おそらく彼にとってこの女は、男と大差ないのだわ。
...そして冒頭の話に戻る。
婚約パーティに現れた彼女の姿は、まるで別人。
彼の瞳の色の煌めくドレスから張り出た胸元を覗かせ、すらりと伸びた白い太ももに、目元に浮かべた朱と妖艶な紅い唇。
その姿はどう見ても理想的な“女”だった。
わたくしは突然の失恋に酷く落胆した。それはまるで、この世の終わりとすら思うほど。
けれども、同時に気がついてしまったのだ。
彼は決して“女に興味がない”わけではない。
しっかりと女に対し欲を感じる人間だと。
そして思い直した。
ステラ・バルバリアは海賊である。
彼の妻となってもそれは変わらず、聞くところによれば二、三ヶ月海から戻らないこともザラではないらしい。
新婚の、女を知ったばかりの男がそれに耐えられるだろうか?
否、並の男に耐えられるわけがない!
これは千載一遇のチャンス。彼の結婚相手にはなれなかったが、愛人ならばまだ空きがある!
貴族の中で愛人を持たない男など稀なのだ。
彼は騎士だが、男は男。英雄色を好むと言うし、家を継がぬ男爵家の次女のわたくしにとって、囲い込まれる立場も悪くない。
その上わたくしは背も小さく華奢で、誰からも“妖精のように可憐な美少女”ともて囃されてきた。
まるであの女と真逆の清純さと可愛げを持つわたくしは、愛人としてこれ以上ない。
癒しを与える女ほど、愛される女は居ないのだから。
さあ、こうしてはいられないわ!
すぐに行動に移さなくては!
あの女と結婚したおかげでまたも夜会から足が遠のいた彼に会うには、練兵場の見学に訪れるしかない。
ここは無邪気に声援を送り、未来の愛人としての存在感を知らしめておかなくては。女の黄色い声援が嬉しくない男などいないもの。
「素敵ですわ!騎士団長様〜!」
けれども彼はちらりともしない。
いいえ、わたくしの鈴の転がるような可愛い声にきっと照れているだけよ。もっと声援を送って差し上げなくては。
「きゃーっ!騎士団長様、こちらを向いて!」
何回目かの声援に、彼が振り向く。
眉を寄せた彼の金の瞳が刺すようにこちらを貫いて、思わず胸を押さえてしまった。しかし彼はふいっとまた目を逸らしてしまう。
いいわ、存在はちゃんと認識されたのだから!
「騎士団長様、どうぞ!差し入れを持ってきましたの!」
鍛錬の終わった彼へと小さな包みを差し出す。
彼は変わらぬ冷たい視線を向けると胸に手を当て、慣れた仕草で礼をした。
「...申し訳ありませんが。そのような物は受け付けておりません。では」
静かに告げてくるりと背を向ける彼に、わたくしは追いすがる。
「どうして?わたくし、団長様の為に手作りしましたの。応援の気持ちを受け取ってはくださらないの?」
「...恐れながら」
それだけ言って彼は兵舎の中へと消えてしまう。
もうっ!なんだというの!こんなに可憐な令嬢に手作りの焼き菓子を差し出されても受け取らないなんて...。
ああ、そうだわ!きっと人前を気にしておられるのよ。何事にも建前というものがありますものね。
「というわけで、騎士団長様に差し入れをお渡ししてくださる?」
彼の騎士団に所属する濃い金髪の騎士へと声をかける。いかにも軽そうな雰囲気は、女の頼み事を二つ返事で聞いてくれそうである。
「いやー、申し訳ありません!団長殿への差し入れは預かりかねます。勝手にもらうと俺が叱られるんで」
ならば、と隣のオリーブ色の髪の騎士に尋ねれば
「いえ、安全の観点から食物の受け渡しは出来かねます。どうしてもとおっしゃるならお毒見に犬をお連れしますが?」
わたくしの差し入れを犬にですって!?
この男、笑顔を浮かべてなんて不躾な事を言うのかしら!ならもういいわ、とまた他の騎士達を当たってみるものの
「団長殿は甘いものが苦手だったと思いますよ」
「僭越ながらそういったものは召し上がられないかと」
「ほっほ、これはもったいない。なんならこの老人がありがたく頂きますが」
「我が団長殿へ無闇に近づくことはお控え下さい。よもや、奥方様を侮辱されておられるのですか」
なにもなによ!
いいわ、副官の“白の騎士様”はお優しいそうだからきっと頼まれてくれるでしょう。
「貴女はせっかくきゅるきゅるして可愛らしいんですから!妻帯者のあいつよりもっとお似合いのお貴族様がいらっしゃると思いますよ〜!」
はっはっはー!と笑い飛ばされ、ひらひらと手を振って歩き去ってしまった。
結局取り憑くしまも無いので、仕方なく新人らしき兵士に「貴方にしか頼めないお願いなの」と押し付けた。兵士はすっかり赤くなってこくこくと頷いていたし、最初からこうするべきだったわね。
包みの中には手紙をわかりやすく添えておいた。
“一人の夜の寂しさを埋めてさしあげます”
と一言だけ。彼はまだまだ遊びたい盛りの二十歳だもの。きっと食いつくに違いない。
けれども彼から返信は来ないどころか、その上あからさまにわたくしの視線を避けるようになってしまった。
いけない、これではいけないわ。
なんとかしてあの女の不在の間に彼を振り向かせなくては!わたくしは兵舎に足繁く通い詰め、鍛錬終わりの彼へと何度も駆け寄った。
「騎士団長様って本当にお強いのね!すっかり見惚れてしまいましたわ」
まるで無垢な子供のように頬を染めて笑いかけ、
「ところで、どこか浮かぬお顔に見えましたけれど...。何かお辛い事があるのでは...?」
たおやかな修道女のように彼を労る。
「もしかしてですけれど、奥方様のことではございませんか...?」
こちらを見ずに無表情で「はい」「いえ」と儀礼的に返事をしていた彼がぴくり、と眉を上げる。
わたくしは口元が上がるのを必死で隠した。
「新婚だと言うのに夫を置いてふた月も家を空けるだなんて、自分勝手で酷いお人...。わたくしなら絶対そんな振る舞いはいたしませんのに」
「貴方様の寂しさは、どれほどかしら...」
妖艶に見つめて、彼の腕に触れたその時。
黙り込んでいた彼の右手からパリ...ッと青い稲妻が迸る。同時に金の瞳が、はるか頭上からぎらりとわたくしを見下ろした。
「...ここは魔法が飛び交います。何かの弾みでお怪我をなさらないとも限りません」
「危険ですので、お下がり下さい。...“ご令嬢”」
地が震えるような低く恐ろしい声で告げられ、思わず全身がぶわりと粟立つ。
慌てて息を吸って離れたわたくしから彼はふいと目を逸らすと、ばさりと振り払うように外套を翻して背を向けた。
...どうして、どうして、どうして!!
他の男ならすぐにわたくしのものとなるのに、なぜ彼だけがわたくしに振り向かないの!?
ストロベリーゴールドのくるんとした巻き毛、長い睫毛、光を取り込む大きな瞳。
鏡に映ったわたくしは誰が見たって完璧な美少女。
ぽわ、と柔らかく染めた頬にまるで色付き始めた果実のような唇は、男の心を掴んで離さないはずなのに。
もういいわ、こうなったら最後の賭けよ!
わたくしの魅力で彼をこの手にしてみせる...!
「こんばんは、騎士団長様」
とっぷりと日の落ち切った暗い夜。
わたくしは彼の執務室の扉を開けてにっこりと微笑む。彼は私を見るなり、不機嫌に眉を寄せてため息をついた。
「...また貴女か。こんな場所にまでいらっしゃるとは非常識な」
「官衙はご令嬢の踏み入れる場所ではありません」
吐き捨てるような彼の言葉は聞こえない。
追い出そうと立ち上がった彼の目の前までずいと歩み寄ると、わたくしは自らの胸元に手を掛けた。
「騎士団長様は奥手なようですから、導いて差し上げるために来ましたの」
するりと開いたリボンの内、柔らかな白い胸元を彼の前に見せつける。
彼は切れ長の目を見開いた。
「一人の夜は長いから、仕事で誤魔化しているのでしょう?」
「奥様の立場を奪う気などございませんわ。ただ、貴方の中に押さえ込んだその“熱”を、わたくしにも分けていただきたいだけ...」
「...ねえ、お願い」
そう言って上目遣いで見つめれば、彼はわたくしをじっと見つめ返して黙り込む。
そしてふと思い直したように口の端を上げ、優艶にこちらを見下ろした。
「...いいでしょう。貴方がその気であるのなら。三日後の夜、またここにおいで下さい」
「望みのものを差し上げます」
その低い囁き声は酷く甘美で、わたくしの全身に熱を持たせる。
ああ、ついに、ついに勝ったわ...!
あの女からようやく彼を奪える!
この美しい男を、わたくしのものにできる時が来たのだわ...!!
そしてとうとう三日後の夜。
喜びに震えながら、わたくしは執務室の扉に手を掛けた。この日の為に下着もドレスも、全てを完璧に整えた。甘い香りを身に纏い、柔らかに肌を磨き上げて。
彼はきっと喜ぶはず。野蛮な海賊などでは味わえない、至高の“女”に夢中になるに違いないわ...!
しかし開いた扉の先には、彼の姿は見当たらない。
どうして、時間は間違えなかったわ。
初めての不倫だものね。きっと緊張して遅れているのよ。ふふ、可愛らしいお人...。
「んっ、...ああ、...!」
どこからか聞こえる艶めかしい女の嬌声。
冷たいものが胸の内に走り、わたくしはひた、と立ち尽くす。
固まった思考の中、耳は必死にその声の出どころを追う。
「...っん...」
執務室の奥の扉。
あそこから確かに聞こえる。
そろ、そろ、とわたくしは扉に近づき、その前に立つ。すると扉の向こうから、低い囁きが耳へと飛び込んだ。
「ほら、力を抜いて...。ここが一番“いい”のでしょう」
普段の冷徹さが嘘のように、蕩ける彼の甘い声。
「...あっ、そこ...、だめだっ、て...!」
先ほど聞こえた、女の嬌声。
苦しげでいて確かな色を纏った声は...
嘘よ、どうして...!!
ここに居るはずのない“あの女”...!!!
「いっ、セリウス、もうちょっと、優しく...っ!」
「おや、この程度で根を上げるのですか?まだまだ耐えて頂かなくては...」
余裕と悦びを滲ませるのは間違いなく、わたくしの憧れた“氷の騎士”と同じ声...。今夜その甘さを注がれるのは、わたくしだった。
わたくしの為の夜だったのに...!!
どうして、どうして、どうして...!!
胸の内に渦巻いた動揺と黒い感情が溢れ出し、思わず扉に触れ、強く爪を立ててしまう。
しまった、と思った時には遅く、ガリ、と音が鳴ると扉の中の音も静まる。
冷や汗が伝い、永遠のような沈黙の後、
ガチャリと扉が開かれる。
軍服を着崩し、熱の余韻を纏った彼が姿を現した。
「...っ!」
息を飲むわたくしの前で、静かに彼は扉を閉めてこちらをじっと見下ろす。
途端にしん...と部屋の中の音が消え去り、わたくしの心臓の音だけが耳に痛いほど響く。
そして彼はゆっくりと薄い唇を開いた。
「...望み通り、こちらの熱を分けて差し上げたというのに。わきまえの無いお方のようだ」
こちらを斬り伏せるように冷たく言い放たれ、心臓が凍りつく。
彼の視線は明らかな蔑みを纏い、もはや地を這う虫でも見るようだ。
「俺に熱を与えられるのは、この扉の奥のただ一人」
「..思い上がりも甚だしい」
彼は小さくため息をつくと、一切の感情の無い視線で冷ややかにこちらを見据えた。
「お引き取りを」
形の良い顎を上げて冷淡に指し示されたのは、私の背にある部屋の出口。
彼が示すのは完全な拒絶。
あの甘やかな声はわたくしを叩き落とす為。
全てが、この為の罠だった————
途端に燃えるように顔が熱くなり、地面は遠のき、指先は急激に冷えて行く。羞恥と絶望でわなわなと震える唇は何も紡げず、わたくしは執務室を飛び出した。
どうしてこんなことに...!
こんなはずでは、こんなはずではなかったのに...!!
————
「誰だった?」
扉の外から仮眠室へと戻ったセリウスに、ベッドに寝そべっていたあたしは尋ねる。
「いえ、誰も。積み上げた本が落ちたようで」
彼はこともなげに答えるとあたしの唇にキスを落とす。ちょっと音が違ったような...と思い「ふうん?」と返すが、彼が嘘をつくような理由もない。
あたしは起き上がると、うーんと両腕を天井へ伸ばしてため息をついた。
「はあ〜っ、それにしても肩が軽くなった!痛かったけどやたら効くなあお前の指圧!」
軽く肩を回しながら微笑むと、彼は嬉しそうに瞳を細める。
そもそもは、「社交界は肩が凝る」と愚痴を言ったあたしに「貴女の本で見た東洋医術でも試してみますか」なんて言い出した彼との冗談半分の戯れだった。
しかし、悲鳴を我慢できないほどのあの痛みがこんなに肩凝りに効くなんてなあ。
重かった肩が嘘のように、まるで羽でも生えたみたいだ!
少々辛いが、これなら時々また頼むのも悪くない。なんて彼を見上げた途端、セリウスはにまりと口の端を上げる。
「それは何より。...ではご褒美を頂いても?」
「それが狙いかこの野郎!」
番外なので新しい視点で書いてみたくなり、勘違い令嬢視点でセリウスの冷ややかさをめちゃくちゃ浴びるお話でした。一応ざまぁモノなのかな、と思います。
演技でもステラの本当の嬌声なんて聞かせたくないセリウスはわりと真剣に肩を揉んでた、というオチでした。
いつもお読みいただき、ありがとうございます!




