146.月夜 後編
———幸運を使うこともきっとないだろう。
そんな事を思っていれば、セリウスはこちらをじっと真剣な目で見つめていた。
「俺としては、何かあった時のために力を使いこなせた方が良いのではと思いますが」
「...お母上も、力を知らずして亡くなったのでしょう」
セリウスは少し言いづらそうに言い足しながらも、あたしをそっと抱き寄せる。
確かに彼の言う通り、母さんは幸運の加護があるなんて一度もあたしに言わなかった。おそらく使い方も知らなかっただろう。
でもだからこそ、未だ母さんの死には不可解な事がある。
あたしは少し考えて、それから母さんがあっけなく死んだあの日を思い出す。
そしてゆっくりと口を開いた。
「...あたしも母さんが幸運を使えてればって考えたさ。でもそれも、逆に幸運が作用してた可能性があるんじゃないかって最近になって思うんだよ」
あの日の母さんの死は、あまりにも唐突で出来すぎていた。いつだってどんな窮地も乗り越えてきた母さんが、あんな奇襲くらいで死ぬなんて何度思い返しても納得いかない。
でもあの直前に母さんは“政治が変わっちまう”と恐れと焦りを口にした。
...それがたまたま幸運を作用させていたとしたら?
「母さんが死ななきゃ、あたしはきっと表立って任務に動くこともなかったはずだ。母さんは陰謀なんかに興味はない。すぐさま王の仇討ちとばかりにレオニードの首を落としただろう」
「そしたらきっとルカーシュやお前とも違う関係になっていた。その結果、この国がラディリオの手によって落ちれば、王妃の言ってたようにお前が傀儡になってセルデアを滅ぼしてたかもしれない」
そこまで言うとセリウスは目を見開く。
あたしはつまみ上げた黄金色の菓子をそっと窓の月に重ねてみる。
「願いってのは思ってもない方向で叶うこともある。使いこなせるなんて思っちまうのは恐ろしいよ」
事実、ミケリアは女王の強すぎる幸運が暴発し、一度滅びかけたのだ。清廉で敬虔深い巫女ならまだしも、あたしみたいないい加減で欲深い人間に向いた力とは思えない。
「...ならばせめて、そろそろ俺の防護魔法を衣服に掛けることを認めて下さい。俺は貴女が心配で堪らない」
セリウスは冷えてきたあたしの肩にガウンをしっかり掛け治して、そのまま腕の中にぐっと抱き寄せる。
少し強引な暖かさに笑みが漏れるのを感じながら、あたしは手に持っていた菓子を彼の唇に押し込んだ。
「やだよ。全身魔法で固めてるなんてダサい船長がいるか。海賊は腕くらい失って当たり前なの!」
「むぐ、...ですからそれは蛮勇と...」
「あはは、蛮勇上等だよ!胴と頭が繋がってりゃなんとでもなるさ」
実際少しくらい何か足りない方が箔がつくもんだ。眼帯や傷なんてものは海賊にとって誇りなのだから。
「...あまり馬鹿を言うと、本気で怒りますよ」
からからと笑っていれば彼に突然低い声で凄まれ、あたしは「う」と言葉に詰まる。
怒りますよっていうか、もう既に怒ってるだろうその声は。
「去年貴女が肋骨を3本折って戻った時に、どれほど航海を禁じようかと思ったか...。貴女ともあろうものが、船員を庇ってまともに攻撃を喰らうなどと」
セリウスはあたしの肩を引き寄せたまま、去年のことを蒸し返す。ま、まずい...。あの時だって宥めるのが大変だったのに、こんなタイミングでまた始まってしまうなんて。
「いやその、逃げ遅れたのはまだ戦えないチビだったから、庇うのは仕方ないっていうか...」
「だからと言って生身で受ける人がありますか。下船と共に血を吐かれたこちらの身にもなったらどうです。俺は貴女を護れなかった副船長殿を本気で殺そうかとまで考えましたが?」
なんとか宥めようと言い訳をするが、ますます地鳴りのような声と金の瞳で見下ろされ、逃げ場のないあたしは冷や汗をかく。
うう、どうしようか。あたしはなんだかんだで、こいつの本気の説教にはとことん弱いのだ。
まるで地の底から響くような声が彼の身体ごしに直に伝わって、ぞくぞくと鳥肌が立ってしまう。
「...まだ俺の言うことがわからないのであれば、このまま貴女の身体の傷を数えて一つ一つ説教しましょうか」
彼はそう言いながら、あたしの脇腹をゆっくりと撫で下ろす。ナイトドレスのシルク越しに、長い指の熱が薄く残った傷をなぞっていく。
「どれ程鍛えようと、女の体がいかに柔く壊れやすいか...朝まで抱き潰せば貴女も思い知るでしょう」
静かな怒りを孕んだ声で耳元で低く告げられて、あたしは思わず小さくなってしまう。
こういう時のこいつの圧には敵わない。しかも本気でやりかねないから恐ろしいのだ。
「...悪かったよ...」
すっかり反論できなくなって俯くあたしを見ると、セリウスは仕方ない、とばかりにため息をつく。
そしておもむろに、机の上に外していたあたしの懐中時計を手に取った。
「...衣服が嫌なのであれば、これにしましょう。少なくとも身につけていれば致命傷には至らないでしょう」
そう言って時計を手のひらに包み込むと、何やら小さく呟く。手の中で光に包まれたそれを手渡されそっと開けば、蓋裏に小さな紋章が刻まれていた。
「斬撃や殴打の衝撃を受けると発動する防護魔法です。砲弾には気休め程度ですが、少なくとも人間相手の死は避けられる」
「お前なあ...。あの時耳飾りにも同じ魔法かけてたろ...」
去年の彼の怒りを治める為に、なんとか交渉したそれで彼は納得したはずなのだ。なのに蒸し返しでまた別のものに魔法をかけられるなんて。
「結局ちょっとずつあたしの物に魔法かけてくつもりだろ。次はスカーフとか、ブーツとか、最終的に全身に...」
だから嫌だったのに...とため息をつけば
「おや、お見通しでしたか」
なんて余裕を浮かべて彼は笑ってみせる。
「アイザックのみならず、いずれは我が子の結婚も共に見届けねばなりませんからね。無事でいてもらわねば困ります」
セリウスはそう言ってこちらの頬にキスを落とし、あたしは予想外の言葉に目を丸くした。
「へえ、ミラとリュシアンの仲をついに認めるのか!どうしたんだよ、意外だな」
あんなにリュシアンにミラを取られる事を嫌がって、「認めない」なんて眉を寄せていたくせに。
いきなりどういう心境の変化なんだか。
「まあ、...あいつの思考は信用できる。それに、何かあればファビアンを尋問すればいい事です」
あいつの思考って、まさか前に意気投合してた“女の趣味”の事か...?
“強気な女がどうこう”なんて下世話な話で男同士で認め合っちまうのかよ。意味がわからん。
しかもファビアンに全責任を負わせるつもりなのか。あいつもなかなか不憫だな。
...ま、娘の幸せを素直に認められるようになったと言う意味では、悪くないんだろうけど。
「ふふ、ミラはどんなドレスを着るんだろうなあ。あとユリウスは結局姫さんを迎えるのか?こんな飾りっけのない家で大丈夫かねえ」
セリウスはそれを聞くと咽せ込みかけて口元を焦って抑えた。
「...いや、流石に陛下のお戯れでしょう。騎士家に降嫁などになれば令息を抱えた諸侯達が黙っていません」
「そうなのか?割と似合いだと思うけどな。ユリウスもあの娘相手なら苦手意識は無さそうだし」
「そう言う問題ではないのですよ...」
そんな他愛もない未来の話をしながら、菓子を摘んで彼に寄りかかり、時折小さく笑い合う。
彼ごしに窓の月を見上げれば、満月は暗い夜空を明るく照らしていた。彼の金の瞳がこちらを向いて、同じ色だな、なんて思ってしまう。
「...瞳に月が映っていますね」
彼はあたしの瞳を見つめて柔く微笑み、顎をそっと持ち上げて口付ける。
「窓の月より、こちらの方がずっと贅沢だ」
薄い唇で甘く囁く彼の声に、じわりと体温が上がる。
「馬鹿」
照れ隠しがわりに軽く彼の頬を軽くつねれば、ふ、と彼の金の瞳が細められた。
それを見てつい、三日月も悪くない、なんて思ってしまったのは...、やっぱり恥ずかしいから教えてやらない。
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