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145.月夜




「あのアイザックが婚約とはなあ」


 寝室の窓際のソファに座り、湯気を立てる紅茶を一口含む。


 秋口になって少し肌寒くなった夜は、高く昇った満月が窓から室内に淡い光を溢している。

子供達もすっかり寝静まって、屋敷は静かだ。


 硝子細工の小さな皿には、月を模った黄味の濃い円形のビスケットがいくつか。

 月の女神の座すこの国では月にちなんだ祝祭が多くあり、秋のこの日もまた月を愛でるための“望月夜”という。それにちなんだ伝統的な菓子だ。


「まさか大使の件を任せたその日に婚約を告げられるとは。...驚かされましたよ」


 隣に掛けたセリウスが苦笑しながらため息を吐き、ソーサにカップを戻す。

あたしはそんな彼の豆鉄砲を食らったような顔を思い出し、くすりと思い出し笑いをした。



 あの日の午後、あたしはセリウスの終業時間を見計らって執務室を訪れていた。


 この期間の彼は毎年日を跨ぐ程に激務だというのに、朝出る前に“今年こそ定時に上がります”なんて意気込んでいたからだ。


 どうせ無理だろうに、あたしにあんな事を言って無駄に焦っているだろう。ゆっくりやれと声でも掛けてやるか、と王都で流行りの甘い菓子なんかを差し入れてやろうと思ったのだ。


 しかし訪れて見れば、ファビアンのみならずエルタスまでも作業に駆り出して、あと1時間もすれば終わるという。


 聞けば

「日中のミケリア大使のご案内をアイザックに任せました。あやつがいなければ今年も日を跨ぐところでしたが、...今回ばかりは助かった」

なんて珍しく彼が感謝していて、なるほどなと笑っていたのである。


 すると扉がバン!と開かれ、赤毛を振り乱したアイザックがその場に姿を現した。


「ああ、アイザック。ご苦労だった...」

とセリウスが口を開きかけたのも束の間、アイザックは開口一番「団長殿!俺、婚約しました!!」といきなり言い放ったのだ。


「は...?」


 セリウスが間抜けな声を漏らす。

同じく作業をしていたファビアン、エルタス、居合わせたあたしまでが何事かと目を点にする。


 しかしアイザックはそれを気にもせず、勢いのまま熱く語り出した。


「大使殿こそ俺の探し求めた伴侶です!その強さ、美しさ、愛情深さ!この好機を逃す手はないと想いを告げ、何度かの押し問答の末に合意を頂きました!!」


「な、何を言っている...?俺はそんな事は命じていないが...?」


 困惑するセリウスにアイザックは「はい!俺の独断です!」と自信満々に返してみせる。


「お前、大使殿になんたる無礼を...。いや、任せた俺の責任か...?」


 相手はミケリアから親善の為に訪れた特命全権大使殿だ。まさか重要な任務中に部下が口説き落とすなんて思いもしなかったのだろう。

セリウスは分かりやすくさあっと顔を青くする。

 だがアイザックは笑顔で意気揚々と続けた。


「来月にはシェーラ・アルテナ大使殿を我が妻にお迎えし、正式な契りを交わします!挙式は王都の教会にて小さく行い、是非とも団長殿にも参列を——」


「待て、待たないか。話の整理が全く付かん。大使殿は本当に婚約に合意されたのか」

「はい!!“そこまでいうなら娶るがいい!”と」

「どんな合意だそれは...」


 セリウスはますます頭痛がするのか目元を抑えてしまう。するとにまにまと話を聞いていたファビアンが楽しそうに会話に加わった。


「いや〜聞けば聞くほど、本当ならすごいことだよアイザック!会ったその日に婚約を取り付けるだなんて、僕でもできないなかなかの手腕だ!流石は“赤鷹”!見事な狙い撃ちだね!」


「はい!明日、彼女にちょうど登城の予定がありますので、その折にこちらでご挨拶をさせて頂きたく存じます!」

「楽しみだなあ〜!ね、セリウス!」

「俺はどんな顔で会えばいいんだ...」

「いつも通り威厳たっぷりでお願いします!」


 はきはきと返す彼の緑の瞳にはセリウスの当惑は全く映らず、未来の幸せだけがきらきらと輝いている。あたしはそんな彼とセリウスを見比べて、堪えきれずに笑い出してしまった。


「ふふふ!なかなかやるねえ!お前がそこまで気にいるたあ、よっぽどいい女なんだろ?」


「なんだか知らないけれど、よかったねえアイザック。ようやく素敵な人と出会えたのだね」


 あたしが微笑み、エルタスがのんびりと頷けば、アイザックは大きな声で「はい!!」と答える。

 そんな様子にセリウスはますます困惑し、「付いていけないのは俺だけか...?」とこめかみを押さえていたのだった。




「実際、なかなかいい女だったな。27とは思えない貫禄だし、あいつが惚れ込むのもよくわかる」


 さっそく次の日にアイザックに連れてこられた婚約者シェーラ・アルテナは、神秘的な雰囲気を纏う堂々たる美女だった。

 淡い夕焼けの髪に瞑った瞼は落ち着きを感じさせ、赤毛のアイザックと並ぶと実に目を惹く組み合わせだ。


「あの髪色といい、口調といい、貴女に似た部分が多くて呆れましたよ。やつめ、まさか本気で有言実行するとは...」

「そうか?お前の方が似てると思ったけどな。好みが一貫してて怖いってライデン達が引いてたよ」


 毅然とした威厳のある口調にさらりと流れる長髪は、どこかセリウスを思わせて笑いを堪えた程だ。

あたしがそう言って菓子を摘むと、セリウスは「だとしたらますますあやつは馬鹿です」なんてため息をつく。


「まあでも、上手くまとまって良かったじゃないか。シェーラは話が簡潔で割と好きだな。“幸運”の指導役を買われそうになった時は焦ったけど」


「ああ...、えらく前のめりで迫られていましたね。断ってしまって良かったのですか」


 挨拶もほどほどにあたしの姿を確認したシェーラから「奥方殿。貴殿の髪色は濃い“幸運”の証。持ち腐れにも程がある、使い方を学ぶべきだ」と妙に熱量高く詰め寄られたのだ。

 だがどうにも興味を抱けず、あたしはその場で「やめとくよ」と断った。


「なんでも幸運に頼ったら張り合いねーだろ。博打も加護だと思えばつまんなくなっちまったし」


 おかげで最近は、ルドラーと世間話をする為にしか賭場に行かなくなった。

 ルードと知ってからは苦手意識もすっかり無くなり、賭場は今や“若干面倒な酒飲み友達”に落ち着いた彼に会うだけの場所だ。

 もう博打に幸運を使うこともきっとないだろう。


 

そろそろ次の段階に進めて終わりへ向かいたいなあと思っています。

いつもお読みいただきありがとうございます!

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