140.疑念
※今回はセリウス視点です
「セリウス」
「別れてくれ」
彼女の口から発された言葉に、思わず息を呑む。
その日もいつも通り、朝の鍛錬へと降りる前にベッドで寝息を立てるステラさんへキスをしようと身を屈めた時だった。
小さく俺の名を呼んで寝返りを打つ姿に笑みが溢れた次の瞬間、予想だにしない台詞を告げられたのだ。
“別れてくれ”
確かにそう聞こえた。
花弁のような唇から発された、あまりにもはっきりとした発音、毅然として冷ややかな声色。
思わず言葉を失い触れる手を止めた俺に、彼女はそれ以上何も語らず、すう、と寝息を立てる。
そして、驚きで思考停止した脳がようやく言われた言葉の意味を理解しはじめた。
わ、...わ、...“別れてくれ”...!?
しかも俺の名を呼び、続けてそう言ったのだ。信じられない思いで固まっていた俺は、恐ろしい事実に血の気が引いていく。
俺は、俺はそこまで言わせるようなことを...!?
いったい、何をしでかしてしまったというのだろうか。
思い当たる事に思考を巡らせるが、昨夜も彼女は俺の求めを受け入れ、“愛してる”とさえ返してくれたはずだ。おかげで少々いじめすぎたが、噛みつくのは我慢したし、無理な触れ方もしなかった...、と思う。おそらく。
それに日中だって俺の膝の上で本を読み、口付けを交わし、大臣たち上層部への愚痴を漏らす俺の頭を笑って撫でてくれていたはずだ。
きっと何かの冗談に違いない。
俺を驚かしたくて、そう言ったのだ。...そうだろう?
...いや、確かに彼女は冗談をよく言うが、人が本気で傷つくようなことを言う人ではない...。
つまり、あんな事を言うとしたら...それは本心から彼女が望んでいるという事だ。
だがまさか、あんなに俺の側にいたというのに...!?
俺の膝の上で抱かれている時も、夜を共にしている時も、ずっと俺と別れたいと思っていたのか!?
震える指で彼女の肩に触れると、「んん」とどこかしら不機嫌な声を出して避けるようにすくめられる。
それがまるで答えのような気がして、俺は心臓が冷えるのを感じながらそろそろとその場を離れる。
今すぐ起こして問い詰めたい気持ちと、それで本当に彼女の口から拒絶されれば俺はきっと立ち直れないという確信が交錯する。
...とりあえず、いつも通り鍛錬をしよう。
きっとその間に思考も落ち着き、冷静になれるはずだ。冷静になれば何かしらの対策は思いつく、...そう思いたい。
俺は彼女にそっと布団を掛け直すと、壁にかけた剣を取り寝室を後にした。
「父上、おはようございます」
廊下から歩み寄るユリウスに声をかけられ、俺は気持ちが全く入らないまま「ああ」と応える。
「...どうされたのです?顔色が...」
ユリウスに気を遣われるが、子供に両親の不仲など話せるわけもない。適当に「いや。動けば治る」などと答えて足早に階段を降りた。
しばらく鍛錬に打ち込むものの、ユリウスと剣を交わす間もぐるぐると彼女の言葉が頭の中を占め続ける。
起きてきた彼女は俺を見てどんな顔をするのだろうか。
もしも俺を厭うような冷め切った目で見られたら。いや、むしろ視線すら向けられず、口も聞いてもらえなかったら。
どうしたらいい、どう接したら彼女にこれ以上嫌われずに済む...!?
じりじりとした焦りが腹から胸に迫り上がり、もはや吐き気すらしてきた。
「父上、やはり体調が悪いのでは。どこかおかし...ッ!?」
ガンッ!!!
追い込むようなユリウスの問いかけに、思わず思い切り剣を振り切って彼の剣を打ち飛ばす。
ユリウスのはるか後ろで重い金属音が響き、はっとして言い訳のように言葉を探した。
「...何もない。今日の鍛錬は終わりだ」
指の痺れを抑えるユリウスの心底不安げな視線に耐えられず、俺は剣を収めると訓練場を振り返らずに立ち去った。
————
湯を浴び終わり恐る恐る寝室の扉を開ければ、彼女はいつもと変わらず鏡台に掛けていた。
貝殻の器から朱の紅を瞼に滲ませて、長い睫毛をゆっくりとまばたかせる。エメラルドの瞳に窓からの朝日が差し込んで、きらめく様は美しい。
その瞳がゆっくりと俺を捉え、じっと何かを考えるように見つめる。そして柔らかく細められた。
「おはよ、セリウス」
声色は穏やかで優しい。
...だが先ほどの表情はなんだ!?
「お、お早う、ございマス」
詰まりながらもカタコトで言葉を返せば、ステラさんは不思議そうに首を傾げた。夕焼け色の髪がふわ、と揺れる。
「どうした?変な声出して」
「い、いや。なんでも」
俺は答えるものの、そのまま動けず扉の側で立ち尽くしてしまう。いつもならすぐに後ろから抱き締めるというのに、それが出来ない。
そんな姿に彼女は笑って両手を広げた。
「やっぱ変だぞ。ほらおいで、何があったか聞いてやるから」
その笑顔は屈託がなく、手のひらは俺に向けられている。そろ、そろ、と近づけば優しく包まれて、甘い体温が肌にじわりと伝わった。
「...あの、俺に不満など、ありませんか」
恐る恐る口にすれば、彼女は「なんだよ急に」とまた笑う。そして俺を見上げてにっこり微笑んだ。
「無いよ、ひとつも」
その笑顔があまりにも美しくて、ぞくりと背筋が冷える。
わざわざ区切って後付けされた言葉の裏になにか含んだものがある気がしてたまらない。
思い返せば、ステラさんは令嬢達を妖艶な男装と巧みな甘言で惑わし、娼婦に化けた時には新入りらしい清純さすら演じて見せた。
昔であれば身一つで俺から逃げられたが、今や二人も年頃の子供がいるのだ。
この優しさも、微笑みも、俺への愛すら子供達のための演技だとしたら。本当は俺にすっかり辟易しているのに、あえて笑顔で蓋をしていたら!?
そんな思考に囚われていれば、彼女は俺の背をぽんぽんと撫でて「お前はいい旦那だよ。なーんにも心配することなんてないんだから」なんて幼な子に言い聞かせるように囁く。
とろけるような甘い声がますます不安を煽って思わず唾を飲み込む。彼女はくすりと笑って立ち上がり、俺の頬に一つキスを落とすと、するりと離れて衝立の裏に消えてしまった。
その場には着替えの衣擦れの音だけが残されて、腕の中に残った体温が冷えていく。
俺は疑心暗鬼を拭えぬまま、ただただ喪失感で満たされてしまった。
衝撃的な寝言にめちゃくちゃショックを受けて冷静さを失ってしまうセリウス。次回に続きます。
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