117.家令騎士の日常 前編
※今回は家令騎士アイネス視点のヴェルドマン家の日常となります。前後編です。
「おはようございます、旦那様」
「ああ、おはよう」
早朝、訓練場にて鍛錬を終えられるのを見計らって手拭いをお渡しすれば、頷いた旦那様が屋敷の方へと視線を向けられました。
「そろそろ彼女が起きた頃だろう、着替えを頼む」
首元の汗を拭いてお申し付けになる旦那様はいつもながらに仏頂面ですが、奥様のお話をすると口元がほんの少し緩むのも見慣れた事。
ご結婚から3年経っても相変わらずの睦まじさに、臣下の私としてもつい笑顔にならずにはおれません。
私、アイネスことアイネス・マクラグレンは、代々ヴェルドマン家にお仕えする家令騎士であります。
上級騎士の城に勤める騎士の役目は訓練や護衛だけではありません。掃除に炊事に洗濯、薪割りから火起こしまで。主君であるヴェルドマン家の家令としてお支えするのが常でございます。
それでも外より奥様が迎え入れられれば、同時にメイドをお雇いになる事もよくある事。
女性には女性の身支度がございますからね。男である我々がお世話できないのはご不便をかけるでしょう。
「ああ、アイネスか。着替えならその辺に置いといてくれ」
しかしながらこの奥様は、海賊であられるその生い立ちからか、私が異性である事をまーったくもって気になされません。
今でさえ下着を含んだお召し物を私が手ずからお届けしても、鏡台から笑顔をお向けになるだけ。
初めは旦那様がメイドをお雇いになると気遣われたそうですが、「こんな辺鄙でむさ苦しいとこに女の子を連れて来ちゃ可哀想だろ」と奥様がお断りになったとか。
まあ実際、それはそうです。
ただでさえ重々しい砦にぐるぐる囲まれた高台の上。そこに居るのは鍛え上げられた大柄な男たちばかり。領地に居るのはこれまた鍛え上げられた巨馬ばかり。その上、主人である旦那様があの威圧感と無愛想ですからね。
とてもじゃありませんが、うら若きメイドには耐えかねるでしょう。
「うわ、またレースの下着かよ。服に響かないのはいいけどさあ...」
奥様が着替えの下着を手に取って苦々しい表情をされます。元はシンプルな紐で結ぶだけの布の下着だったのが、繊細なシルクレースに変わっていくのがご不満なご様子。
「洗濯ですぐほつれちまうのにもったいない...。高価なレースをバカスカ買い替えるなんて無駄でしかないのに」
奥様はそう言ってため息を吐かれますが、ご不満をこぼしたところでどうにもならない事を私は知っています。
何を隠そう、今お召しのナイトドレスもその下着も、旦那様のご指示で取り寄せているのはこの私なのですから。
「まあまあ、それで旦那様がお喜びならいいではありませんか」
「ったく...何が嬉しいんだかねえ。あいつのこういう好みだけは未だにわからん」
そんな憎まれ口をこぼしながらも結局はお許しになるのですから、奥様もお優しいことです。
だとしても旦那様、奥様に感謝された方が良いですよ。夜着や下着を勝手に決められて贈られるなど、普通の女性なら怖気立つところですからね...。
「子供達は?」
「まだ寝ておられますよ。昨晩はリュシアン様にお会いできるのが楽しみではしゃいでおられましたからね」
そう、本日は旦那様のご友人であるラングロワ様ご一家がいらっしゃる日にございます。
かつては同じく見習い騎士であった旦那様とファビアン様の友情が今なお続いておられるのは、私としても喜ばしい事です。
奥方様同士の仲も大変良好のようで、お茶会の誘いにお出かけになることもしばしば。
王城勤めとなられてからは屋敷に行き来する事が無くなっていた旦那様とファビアン様が、こうして新たな家族をきっかけに再び交友なさるのは、なんとも感慨深い...。
なんて考えて頷いていれば、湯を浴び終えた旦那様が髪を拭きながら戻られました。そしてそのまま鏡台に掛ける奥様に抱きつきに行かれるのも、もはや見慣れたものです。
「新しい紅ですか?」
「うん。ヴィオレッタがくれたから使ってみた」
「柔らかい色合いもよくお似合いです。俺からも礼を申し上げなくては」
「彼女が困るからやめてやれ」
軽口を交わしながら奥様にキスの雨を降らせる旦那様の嬉しそうなこと。
最初はそのお姿にラウールやジェンキンスと目を剥きましたが、我らにも甘えなかったあの暗い目をした少年が、愛する人に大型犬のようにじゃれているのは親代わりとして悪くない光景と言えましょう。
旦那様より放たれるハートの数々がこちらにまで飛んでくるようですので、私はそっと扉に足を向けて寝室を後にいたします。
さてさて、ファビアン様達がいらっしゃる前にもう一度お屋敷とお庭を整えなくてはなりませんね。
その間にミラ様とユリウス様をお起こしして身支度を済ませるよう、ラウール達に声を掛けに行きましょうか。
————
「やあセリウス!君んとこの領地ときたら相変わらず馬と馬装屋と鍛冶屋ばっかりじゃないか!流石にもうちょっと観光に力入れたら?屋敷も全然変わってないし、うーん、ひたすら堅くて重苦しいこの感じ!あまりの感傷で涙が出そうだ!」
馬車から降りられたファビアン様こと、ファビアン・ラングロワ様が饒舌に笑い声を上げられます。
「こちらに来たいとしつこくせがんだ奴の台詞がそれか。馬車に戻れ。お前だけ送り届けてやる」
「やだなあ、ただの挨拶じゃないか!しっかしこの屋敷の重圧感、元団長殿の地獄のしごきが懐かしいったら」
不機嫌に眉を顰める旦那様の肩を叩いて笑うファビアン様は相変わらずの軽快さ。
かつて騎士見習いであられた頃はこの屋敷の訓練場でクラウス様のもと、お二人で喧嘩をしながら共に励んでおられたのが懐かしいことです。
「ファビアンったらまたそんな失礼を!いいですかリュシアン、お父様のようになってはいけませんからね」
「はい、おかあさま」
そんなファビアン様もお美しい奥様とお子様にお恵まれになって、時の流れとは速いものです。
「ヴィオレッタもこんなところまでご苦労だったな。そちらの屋敷のような優雅さはないがゆっくりしてくれ」
「うふふ、本当に“軍事施設”とおっしゃっていた通りで驚きましたわ。砦も騎士達も実に壮観ですこと」
「ふふ、そうだろう?ああ見えて気のいい奴らだ。食事を用意させてる。上がってくれ」
奥様方が和やかに笑みを交わされる様子は、程よく砕けた仲の良さを伺わせます。
華やかで堂々たる奥様と淑やかで優雅なヴィオレッタ様がお並びになるとまた対照的でお美しい。どちらもそれぞれ手のかかる旦那様方をお射止め、御される程の魅力ですと、まこと納得と言えましょう。
「アイネスも久しぶりだね。見ないうちに落ち着いた紳士になっちゃって。君の剣圧はまだ重いかい?」
旦那様から視線を移されたファビアン様に肩を叩かれ、思わず笑みが溢れます。
「ええ、あの頃より研鑽は欠かしておりませんよ。おそらく団長補佐殿にはもう敵いませんが」
「ははは!よく言ってくれる、後で手合わせしよう!」
「ええ、喜んで」
本当にあの頃よりずいぶんと背が伸びられて。今や騎士団で旦那様の背中を任されるファビアン様は、性格はそのままに大人の貫禄をすっかり身につけられたようで喜ばしい。
「リュシィ!!」
「わあ!ミラ、きゅうにだきつくとあぶないよ」
「リュシ、まってた...」
屋敷に入った途端、一つ上のリュシアン様にミラ様が飛びつかれ、ユリウス様が嬉しそうに頬を綻ばせます。
まだおぼこいながらもリュシアン様はもうしっかり二人の“おにいさん”でいらっしゃる。聡明なお振る舞いにミラ様とユリウス様が懐かれるのもよくわかります。
ゆるやかな癖の金髪のリュシアン様に、跳ねる夕焼け色の髪と、艶やかな黒髪をそれぞれ肩まで下ろしたミラ様とユリウス様。なんだかまるで毛色の違う仔犬のようで、勝手に目尻が下がってしまいますなあ。
「ほら、遊ぶのは後だよ。食事にしよう」
「「はーい」」
奥様に頭をぽんと撫でられ、お二人が同時にお返事をされるご様子もお可愛らしい。待ちきれない様子でそわそわと微笑みあっていらっしゃるのは、性格が違ってもやはり双子ですな。
————
「美味しい...!不思議なソースね、これは何ですの?」
「マオンネーゼっていう卵と酢のソースだ。こっちでも作れそうだったから真似してもらったんだよ。珍しくセリウスの口に合ったから二人も好きかと思って」
「うん、これは確かに美味だ!肉料理に合うねえ!いいなあ君は、異国のものが色々出てくるのは楽しいじゃないか」
珍しい美味に盛り上がる皆様に笑いかけられ、旦那様は少し困ったような顔をされます。
「毎回こうであればいいが...。苦行かと思うものがたまにある」
「こいつ、酸っぱいものや辛いものがダメみたいでさ。この顔で青くなったり赤くなったりするからつい試したくて...、あの“ウメ”の時は最高だったな」
「あれは食べ物ではありません」
くつくつと震えて笑う奥様に旦那様がますます渋い顔をされるので、ファビアン様が嬉しそうに笑われます。
実際、“ウメ”というあのピクルスは本当に酸い食べ物で、旦那様は吐き出すわけにもいかず目を瞑って震え、試しに食べた私とジェンキンスは唇が無くなったかと思うほどにすぼめてしまいました。
それを見る奥様は笑いながら平気で食べておられるので驚いたものです。
「ステラさん、ぜひ兵舎にもそういうの持ってきて下さいよ!僕もセリウスの苦しむとこ見たいんで!」
「やめろ、焚き付けるな」
「ずるいわファビアン!ね、次の我が家のお茶会にいたしましょう?きっと楽しいに違いありませんわ」
「ヴィオレッタ殿まで...」
「じゃあ今日のティータイムに何か出そう。全員の反応が見られて楽しそうだ」
青くなっていく旦那様と喜んで目を輝かせるご夫婦が対照的で思わず口の端が上がってしまいます。
「なにだすの?くろいあめ?」
「わかってるじゃないかミラ。サルミャッキ、絶対みんな変な顔になるぞ」
「リュシィ、あれ、ほんとにまずいの...」
何かわかっておられるらしいミラ様とユリウス様が「うぇーっ」と舌を出して見せ、リュシアン様がきょとんと首を傾げられます。
対するファビアン様ご夫婦は心底“わくわく”と言ったお顔。
旦那様はいいとして、実にお可哀想なリュシアン様。御年4才にして未知の味覚の犠牲になられるのですね...。
ちょっと書き方を変えてみたくて、アイネス視点のほっこりヴェルドマン一家を書いてみました。
後半へと続きます。




