08_とっておきの舞
エトワールは、階段の何段か上に立っているポセニアを見上げて、優雅に微笑む。
「せっかく勇気を出して名乗りを上げてくださった先生には申し訳ございませんが、代わっていただかなくて結構ですので」
「王女……殿下。どうして……こちらに……」
ポセニアは当惑して、あちらこちらに目をさまよわせる。それもそのはず。
だって、エトワールは宴の舞の練習なんて全くしていないのだから。普通だったら、そんな状況で踊ろうとはしないはず。舞のことを耳にして逃げ出したとでも思っていたのだろうか。
「ひどいじゃありませんか、先生。どうして舞を披露しなくてはならないことを教えてくださらなかったんですか?」
「違いますわ。これは何かの手違いで、殿下に連絡漏れがあったのです。後ほどきちんとご説明いたしますから」
そのことに、エトワールの表情からすっと笑顔が消える。
「何が手違いよ。あんたが私を出し抜いて、プトゥゼナール国王やみんなに取り入ろうとしている魂胆なんて――見え透いてるんだから。あんたの思い通りにはさせないわ」
ポセニアの顔から血の気が引く。
「あの……そ、え……と……」
十二歳の王女を出し抜こうとしていたことを見抜かれた彼女は、動揺のあまり、意味をなさない言葉を羅列する。
そんな彼女を嘲笑うようにふっと鼻を鳴らし、階段を上る。
エトワールは、すれ違いざまに彼女の耳元でそっと囁いた。
「それと、あんたは今日でクビよ。先生?」
「……っ!」
威圧を込めた眼差しにポセニアは青ざめ、ひゅっと喉の奥を上下させた。
彼女には同盟に関わるこの宴の場で功績を奪われただけではなく、最愛の人も奪われた。積年の恨みつらみがあるのである。十二歳のあどけない王女を騙すことはできても、回帰してきた元女王を騙すことはさせない。
舞台の中央に立つと、会場中の視線が一気に集まった。
「王女殿下は、臆病で怠け者だって噂よ? 社交ダンスの練習もいつも疎かにしていたとか。プトゥゼナール王国伝統の舞はすごく難しいのに、踊れるのかしらね」
「どうせ恥を晒すだけさ。まぁある意味見物だがな」
「聖女様にお任せしておけばいいものを……」
ポセニアが流した噂のせいで、エトワールはすっかり馬鹿にされている。汚名を返上するためにも、ここで失敗する訳にはいかない。
どんなに平静を装っていても、手の震えまでは収めることができなかった。極度の緊張と不安にさいなまれながら、自分をどうにか奮い立たせる。
(まだイザールに殺されたことも、逆行した状況も全然受け入れられてないっていうのに、これが初日なんて、考えられないわね。全く)
人々の信頼を得ることができなければ、五年後に自分は非業の死を遂げる。消えたはずの胸の傷が、じくじくと疼き、顔をわずかにしかめた。
(戦って、足掻いて、生き延びてやる)
ゆっくりと深呼吸をしたあと、ローブを脱ぎ捨てる。黒いローブで覆い隠されていたのは、見事な赤い細身のドレスだった。
差し色に黒が使われており、装飾に惜しみなく使われたダイヤが、陽の光を反射してきらきらと繊細な輝きを放つ。
そして、エトワールのあどけなさもあるしなやかな肉体の曲線美を、はっきりと浮かび上がらせていた。
そして首元には、金細工に大振りの宝石を埋め込んだ首飾りが煌めく。
絵画から飛び出してきたような美しさに、人々は思わず感嘆の息を漏らした。
「おお……美しい……」
プトゥゼナール国王もまた、頬を朱に染め、だらしなく鼻の下を伸ばしている。
「わお……超わしの好み」
彼は顎をしゃくりながらそんなことを呟いた。
そして、楽団が演奏をし始めた。華やかで上品な曲調に合わせて、エトワールは優雅に踊る。
くるくると回転し、跳躍する度にスカートと黒髪がなびく。ぴんと伸びた背筋や、指の一本まで洗練されていて――美しい。手に持った大きなレースのベールが揺れるさまは神秘的。そして振り付けもほぼ完璧だった。
(一度目のとき、舞を踊れなかったのが本当に悔しかった。今でも脳裏に焼き付いているわ。――ポセニアの舞が)
わずかに目を伏せると、ポセニアが純白のドレスで舞を踊った姿が脳裏に思い浮かぶ。
前回の人生での宴のあと、エトワールは何度も何度もこの舞を練習した。意味がないことと分かっていても、自分にも舞えることを証明したかったのだ。結局それを披露する場は得られず、馬鹿にされたままで終わってしまったのだけれど。
そしてリベンジを兼ねたこのとき、純白のドレスを着たポセニアではなく、太陽の光を吸い込んだ赤いドレス姿のエトワールが、大勢の人々の目に焼き付けられたことだろう。
「…………気に入りませんわ」
舞台のすぐ近くで見ていたポセニアが、地を這うようにそう呟くが、音楽に掻き消されて誰の耳にも届かない。
けれどそのあと、彼女がぶつぶつと小さく呪文を唱え出したのと同時に、会場の装飾として飾られている模造剣が、エトワールめがけてまっすぐ飛んできた。
宙を飛んでくる剣に気づいたエトワールは、はっと息を呑む。突然のことで対応できず、硬直した。
(剣……!?)
しかし、エトワールの額に先が当たる寸前、模造剣は不自然にぴたっと静止して、そのまま落下した。
床にからんと転がった模造剣。楽団の演奏は中断され、辺りに静寂が広がる。模造とはいえ、誰かが故意に王女を狙ったのならば大問題だ。舞どころの騒ぎではない。
(一体、誰が……)
辺りを見渡したとき、ポセニアと視線がかち合う。いつも優しげな彼女の表情が、意地悪に歪んだのを目の当たりにして、背筋が粟立つ。
(あの性悪女、まさか舞を中断させるためにこんな真似を――!?)
この舞を成功させてプトゥゼナール国王に気に入られ、同盟を結ぶための二国会談に参加する権利を得るのが今日の目標だ。ここで……阻まれるというのか。
どうしてこうも、思い通りにいかないのだろう。
せっかくやり直しの人生を頑張ろうと奮起していた心が、しゅんと小さくしぼむ。
いやしかし、誰かに足を引っ張られるのなんて慣れている。今さらこんなところで挫けたりしない。
もう一度心を奮い立たせたエトワールは、きわめて平静を装って、模造剣を拾い上げる。
そして、ゆっくりと突きの構えを取った。そして、大気をひゅっと突いてから、横に薙ぎ払う。
軽やかに身をひるがえしながら、剣を使って華麗に舞う。跳躍するときに舞台を蹴る音と、剣で大気を斬る音が混じり合う。まさしく圧巻。エトワールの俊敏で優美な剣舞に、人々は息を呑んだ。
「舞が美しいのはもちろんだが、あの表情……本当に十二歳のものか?」
誰かがそんな言葉を口にする。
滴り落ちる汗の一雫さえも可憐だった。エトワールの舞は、壮絶な悲壮感と憂い、儚さをまとっていて、誰も彼も目が離せない。
王女教育の一環として、護身のための剣術も修めてきたのが功を奏したようだ。エトワールが舞を再開したところで、オーケストラ楽団の演奏も再開する。エトワールの熱演によって、演奏もまた白熱していき、会場全体の空気が一体となっていく。
最後は、剣先を客席に座るイザールに向けてひと突きした。あの男に受けた仕打ちは絶対に忘れてやるものか。
鋭い眼差しで射抜けば、圧倒された彼は息を詰めた。
五分に渡る激しい剣舞の末。演奏が終わったと同時に、盛大な拍手が沸き起こった。
エトワールが何事もなかったかのように舞を継続したことにより、人々はきっと、剣が飛んできたのも演出のひとつだと解釈しただろう。
「はっ……は……、はぁ……」
額に汗を滲ませ、肩を上下させるエトワール。
肝心要のプトゥゼナール国王の反応を見ようと、座席の方を振り向けば、彼は椅子から立ち上がり、歓声とともに拍手をしていた。
「ンンンッ……かわいい、かわいい……ブラボーッ! わし、萌えすぎて灰になりそうじゃ〜〜」
全身に鳥肌が立った。
嫌に決まっているだろう、という言葉は喉元で留めておきつつ、愛想良く微笑むと、彼は鼻血を出しながら後ろに倒れた。
(全くもう。あれが一国の王なんて、世も末ね。でも、良かった。……ひとつ、運命を変えられた)
その刹那、ぽつぽつと雨が降り出す。
大きな歓声に包まれながら、無事に舞を終えたことを安堵するエトワールに対し、舞台の下にいるポセニアは、悔しそうに爪を噛んでいた。
エトワールが視線をちらりと向けると、ポセニアのトレードマークであるチョーカーに嵌め込まれた白い石が、雨に濡れたせいか青みを帯びて見えた。