04_あなたを失うくらいならいっそ
数日後、レイが率いる中隊の必死の抵抗も虚しく、都市アトラスは――陥落した。魔法によって、街はすっかり破壊されてしまった。生き残った隊員たちとともに、命からがら後退し王宮に戻ると、エトワールの葬儀がひっそりと行われていた。
一国の女王が死んだというのに、参列者はほとんどいない。生前の彼女が、多くの貴族たちから支持を得られなかったことを証明するかのようだった。彼女は聖女ポセニアと比較され、臆病者だの怠け者だのと揶揄されてきた。そもそも、愚王と呼ばれた先王の失政のせいで、もうとっくの昔に王家への信頼は失われていたのである。
暗殺の事実は一般には伏せられ、病死したことになった。けれど、エトワールの代わりに玉座に据えられたイザールが手を下したことは、もはや公然の秘密である。
そしてレイが独自に調査したところ、イザールはルニス王国との間で密約を交わしていたことが分かった。
女王エトワールを殺して政権を奪取し、ルニス王国の傀儡国家を誕生させることで、都市アトラスへの軍事侵攻を止める、という密約だ。アトラスでは民間人の虐殺が続いていたが、イザールが国王に即位したことでぴたりと止まった。そのおかげで民衆は、イザールの交渉術が優れていたと勘違いしている。
(あの男は金に目が眩んだろくでなし――売国奴だ)
これからレストナ王国は、実質的にルニス王国の支配国となり、権益を割譲し、文化は崩壊し、人々は奴隷のように扱われることになる。
(敗北する前に白旗を上げるとは、情けない男だ。これがお前のやり方か? イザール)
イザールは自分が殺したエトワールの棺に祈りを捧げていた。
いつも無表情で、何を考えているのか分からない男だった。そして、彼の隣には聖女ポセニアの姿があった。
「あぁ……っエトワール様……! いやっ、そんな……うう」
彼女は棺に項垂れ、人目もはばからず声を上げて泣いている。この葬儀の会場で、彼女以外には誰ひとりとして涙を見せていない。
死んだ女王のために心を痛めているポセニアの様子に、人々は感心する。
「聖女様はなんとお優しい……」
「彼女こそ、国母に最もふさわしいお方だろう」
そんな噂話が耳を掠め、レイは眉をひそめる。
ポセニアは類まれな治癒魔法の使い手として、長らく王国騎士団の医療奉仕部隊に所属しており、レイとも面識があった。戦地で汗を流しながら騎士たちに献身するポセニアのことをみんなが賞賛するようになっていた。
王女と聖女は何かと比較された。
王女エトワールは、愚かで怠け者で臆病者。
それに引き換え聖女ポセニアは、勇敢で聡明――だと。
――だが、みんなに褒めそやされていたポセニアは、エトワールの夫と浮気をしていた。
いつそんな関係になったのかは知らないが、医療奉仕部隊の一員として戦地に随行していたポセニアは、あろうことかエトワールの婚約者であるイザールを愛していたのだ。そしてまた彼も、聖女に惹かれていった。
そしてとうとう彼女は、イザールの子を妊娠したのである。イザールの即位とともに、彼女が王妃として迎えられることも発表された。
(反吐が出るな)
聖女だなんだともてはやされていたが、その正体は人の夫に手を出すろくでなしではないか。
レイが侮蔑の眼差しでふたりの後ろ姿を見ていると、祈りを終えた彼らが、こちらをくるりと振り返った。
裏切り者であるイザールの顔を見た途端に、強烈な殺意が湧き上がる。しかし、この男を殺したい衝動を、なけなしの理性を掻き集めて堪える。
すると、爪を立てたせいで握り締めた拳から血が落ちる。それを見たポセニアが、心配そうな顔をしてこちらに駆け寄り、レイの手を取って言った。
「まぁ、大変ですわ。レイ様、血が出ております。すぐにわたくしが治癒魔法を――」
「触るな」
彼女の手を振り払うと、ぱしんという乾いた音が響き渡る。
その音を聞いて、会場中の人々の注目が集まった。ポセニアは申し訳なさそうに言う。
「ご、ごめんなさい。このような状況ですもの。気が立ってしまうのも無理ありませんわ。まさかエトワール様が急死なさるなんて……。わたくしもすごく驚いております。お若いのに、なんて早い……」
涙を浮かべる彼女に対し、にこりと愛想よく微笑む。
「いやはや、嘘泣きがお上手ですね。聖女様」
パチパチ、とわざとらしく拍手をすると、彼女はいぶかしげに眉をひそめる。
「え……?」
「本当は笑いが止まらないんじゃありませんか? 何しろ、あなたの恋を阻んでいた女性が消えたんですから」
「そのような言い方……ひどすぎますわ……っ」
「ひどいのはどっちでしょう。妻がいない間に不貞を働き、女王陛下の全てを奪っておいて……。僕にいい顔をしようとしても無駄ですよ。あなたは聖女なんかじゃない。醜く卑劣な――悪女だ」
ポセニアの形の良い瞳から、ほろりと涙が零れ落ちたのと、イザールが声を上げたのはほぼ同時だった。
「――その辺にしておけ」
「……」
「口を慎め。彼女はこの国の次期王妃だぞ」
「はっ、彼女には随分と過保護なんですね? 女王陛下が誹謗中傷を受けているときは、一度として庇わなかったくせに」
「……エトワールは死んだ。もう女王と呼ぶのはやめろ」
レイは眉間に縦じわを刻み、イザールを睨みつけた。凄みのある威圧に、傍に立つポセニアが肩を小さく竦める。
「この国の王はただおひとり、エトワール・フェレメレン女王陛下だけだ。この紛い物が」
レイが手をかざした瞬間、棺の周りに黒い結界が張り巡らされていき、レイを除いた全ての者たちが一瞬で外に追い出される。
「おい、レイ! お前、何のつもりだ……!」
「この結界は、僕以外の人間に解くことはできませんよ」
立て続けに防音魔法を発動させれば、イザールの鬱陶しい声もその他の人々のざわめきも掻き消される。
外から結界内の様子は暗くて見えないようになっているが、レイの火魔法によって内部は明るく照らされている。
静かな空間に、こつ、こつ、とレイの靴音だけが響く。
棺の中でエトワールは、眠るように死んでいた。もともと白い顔が更に白くなっていて、青みを帯びている。
夜の空を吸い込んだような漆黒の髪。
凛とした眉に、長いまつげが伸びる瞳。
小さな鼻に、ふっくらとした唇……。
畏れ多くもレイが恋い焦がれ、最も美しいと賞賛してきた造形美がそこにあった。けれど彼女は二度と目を覚まさない。二度と、笑いかけてはくれない。
レイはその場に崩れ落ち、エトワールに語りかける。
「ただいま戻りました。レイですよ、陛下。こんなところで眠っていてはお身体が冷えてしまいます。起きてください。起きてくださいよ、陛下……」
いつものように軽い調子で話しかけてみたが、最後の方は尻すぼみになっていく。
「ぅ……ふっ……陛下、陛下……」
陶器のような滑らかで冷たい彼女の頬を撫で、泣き縋る。どんなに呼びかけてみても、返事は返ってこなかった。ひとしきり感傷に浸ったあと、腰に下げていた剣をするりと引き抜く。
(このまま彼女を失うのは、俺には耐えられない)
静かに決意をし、囁く。
「僕はこれから――禁忌を犯します。神がいるのならどうか、罰は罪を犯した自分だけにお与えください」
そして、薄い唇を開き、古語で呪文を唱え始める。かつて賎しい孤児だったレイが、裏社会でたまたま手に入れた情報の中に――禁忌魔法の存在があった。古代に禁止された魔法は、代償を支払えば大きな効力を発揮する。
その危険性ゆえに、禁止されてきたのだ。けれど、エトワールが理不尽な目に遭ったまま死ぬのは、あまりにも忍びない。
「……――時を、戻せ」
呪文を唱え終わった瞬間、レイは自らの胸を何のためらいもなく――貫いた。剣を引いたと同時に、辺りに強い光が離散する。
時戻しの魔法。それが、たった今レイが実行した禁忌魔法のひとつだ。莫大な魔力と――術者の命を代償とする。だが、自分の命を捧げることに、一切の迷いはなかった。
血が溢れだし、命が消えていくのをありありと感じる。棺の上に倒れかかると、エトワールの白装束が赤く染まっていく。
(陛下は、こんなに痛い思いをなさったのか。俺が代わって差し上げられたらどんなによかったか……)
助けてもらっておきながら、近衛騎士でありながら、肝心な時に役に立たなかった自分が情けない。
己のふがいなさに項垂れながら、彼女の寝顔を一瞥する。そして、血で汚れた手で、彼女の手を上から包むように握り、目を閉じる。
「……愛して、います」
それが、レイが残した最期の言葉だった。レイの絶命とともに――時空が大きく歪んだ。