12_婚約者の本性
「あなた、さっきのはどういうつもり!?」
会談が終わったあと、エトワールはイザールのことを廊下の壁際に追い詰めていた。
壁とエトワールの小さな身体に挟まれ、逃げ道を失ったイザールは、わずかに戸惑いの色を表情に浮かべる。
「どういうつもり……とは」
「とぼけないで。さっきの会談で、ミャウン鉱山の権益を割譲しようとしていたのは分かってるんだからね。あの鉱山からの収益は、レストナ王国の経済を大きく支えているのよ」
「ですが、近年の財政は比較的安定しています。ミャウン鉱山の権益を一部失ったところで財政に大きな影響はないかと。穀物庫をふたつ解放するのと大差はありません」
「……正気?」
彼を嘲笑うように鼻を鳴らす。
「プトゥゼナール王国は周辺国の中で最も犯罪率が高い。もともと血の気が多い民族性なのよ。彼らを鉱山に招き入れれば、鉱山の治安は悪化し、秩序は崩壊する。そうなれば、どれだけの損害が発生するか、子どもの私にだって想像できるわ」
「……」
「本当は分かっていたのでは? 分かっていて、この国の経済を弱らせるためにあんな提案をしたんでしょ?」
そのとき、イザールは眉を上げ、ぐっと喉の奥を鳴らした。それを見て、図星を突かれた反応だと理解する。
「それとも誰かに命じられた? たとえば、ルニス王国から――とか」
「…………」
イザールとルニス王国は金で繋がっている。大量のプトゥゼナール王国民を鉱山に受け入れ、レストナ王国の経済が衰退することは、敵国ルニス王国にとって願ってもないことだろう。
「俺がルニス王国と繋がっていると、そう考えていらっしゃるんですね」
「考えて……というより、純然たる事実でしょう?」
彼は、答えなかった。答えなくても、未来から戻ってきたエトワールは、彼が自ら望んでルニス王国の首輪を着けているのが見えている。
そして、イザールは壁につけたエトワールの小さな手をそっと退かしながら言う。「ご名答」――と。
「それが、この国のためだからです。ルニス王国との戦争はもう五十年も続いている。その間に、どれだけの民が犠牲になってきたか分かりません。レストナ王国は疲弊しています。これ以上犠牲者を増やさないために、誰かがこの無意味な戦争に終止符を打たなくてはならない」
「世迷言を。ルニス王国に降参すれば、平和が訪れるとでも?」
「少なくとも、戦争が続くよりはずっといいではありませんか」
「――甘いわね」
歴史の中で、戦争に敗北した国は、重い十字架を背負い続けることになる。
文化や街をことごとく破壊され、国民が虐殺されても文句は言えない。人々は自由を制限され、戦勝国の奴隷にさせられるのだ。実際に、ルニス王国に支配された土地では、レストナ王国民が虐げられている。
「私たちは、この国がより良くなるように常に頭を悩ませ、采配を振るい続ける存在よ。私は、ただ白旗を上げるのが最善だと思わないわ。……確かに今は弱っているかもしれないけれど、この国の底力はこんなものじゃないのよ……っ!」
じわりと目に涙を滲ませながら訴えかければ、イザールは瞳の奥を揺らした。
そして、今度はエトワールのことを壁際に追い込み、片手を壁につきながら見下ろす。
「子どものくせに、あまり大人を馬鹿にするな」
底冷えしそうな眼差しに、背筋に冷たいものが流れる。
「……ようやく、本性を現したわね」
「王家も、この国も、もう沈み掛けの船だ。守れる訳がない。余計な口出しをせずに、子どものお前は夢だけ見て黙っていろ。――死にたくなければな」
そして彼は、片手でエトワールの細い首を掴んで圧迫した。気道が狭まり、息が苦しくなって顔をしかめる。
この表情にはよく覚えがある。エトワールを殺したときもこの男は、こんな風に蔑んだ目でこちらを見ていた。
「子ども子どもって……うるさいのよ。見くびら……ないで。あんたみたいな人でなしに私は、負けない……っ」
「まさか本気で、この不利な状況を打開できると思っているのか?」
「できるできないじゃなくて、やるのよ」
エトワールは彼の青い瞳をまっすぐ見つめた。
「どんな不条理にも、私は――屈しない」
イザールに王位や国、自分の命を二度も奪わせるものか。
エトワールは首を圧迫している彼の手を、両手でどうにか引き剥がした。すると彼は、嘲笑混じりに言う。
「口だけは達者だな。俺の前でそうして、震えているくせに」
「……」
「強がってはいても、やはり噂の通り、お前は臆病な王女という訳か」
挑発に乗ってはだめだと頭では分かっていても、怒りが込み上げてくる。それと同時に、エトワールの中に彼に対する恐怖が常に根付いていた。
指摘を受けたエトワールは、震える手を抑えながら平静を装う。
「あなたって、女の趣味が悪いだけじゃなく、察しも悪いのね。これはあなたのことが大っ嫌いだからこうなるのよ」
「俺の目には、お前が俺に――怯えているように見えるが」
そのとき脳裏にまた、エトワールの胸を剣で貫いたときの、イザールの表情が思い浮かぶ。どんなに消したくても、消えてくれない。
そして、エトワールの白い顔から血の気が引いていく。
「臆病者にしては、先ほどの舞は見事だった。練習がさぞかし大変だっただろう。それとも、家庭教師が優秀だったか?」
「練習は一度もしていないわ。だってそのとっても優秀な家庭教師が私から功績を奪うために、舞のことを知らせなかったんだから」
エトワールはどんっと彼の身体を突き飛ばして、冷笑交じりに言う。
「あんたの愛人は、性悪よ」
するとその刹那、彼の目つきがいっそう鋭さを帯びた。
「彼女を侮辱するな。次に謗りを口にすれば、本当にその喉を潰すぞ」
「……っ」
彼の表情に威圧が乗ると凄みがあって、固唾を呑む。
「やれるものならやってみるがいい。だが、婚約破棄には応じるつもりはない。お前が意志を通そうというのなら、俺は俺の信念を貫く」
イザールの目的なら知っている。女王の夫となったあと、女王を暗殺して政権を奪取し、ルニス王国の傀儡国家を誕生させること。ルニス王国に媚を売って自分の身を守り、私腹を肥やす魂胆なのだ。彼は、自分と愛するポセニアのためだけに、国を滅ぼすつもりでいる。愛国心など、イザールという男の中には欠片もない。
「……もう、いい」
エトワールはそう弱々しく呟いてから、踵を返した。
(俺は俺の信念を貫く? 気持ち悪い、気持ち悪い。あんな男に、二度も殺されたりなんか……)
エトワールは廊下を走った。淑女としてはしたないと分かっていたが、人目もはばからず走り、トイレに駆け込む。
「はっ……はぁ……、はっ……」
トイレの鏡を確認すると、白い首に男の手型がくっきりと残って痣になっていた。エトワールは自分の首に爪を立てて何度も引っ掻く。血が滲んでも構わず、手形を消そうと爪を立てた。
頭の中から、自分を刺したイザールの顔が離れない。何度も何度も浮かんでは、エトワールの心を苦しめる。
(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……っ)
「うっ、……ぇ……」
吐き気に襲われ、口元を抑える。
エトワールはそのあと、昼に食べたものを全て吐いた。




