有難い
「ねえ、初キスって、どんな味がするのかな」
俺は今、駅のホームにあるベンチに座して、ただ漫然と呆けている。
冬の早朝の白んだ空気は、己が肺を幾度となく満たし、また、抜け出していった。
忙しく忙しく、何度でも何度でも。
当たり前だ。
空気が肺を満たすのは当然だし、また、抜け出していくのも当たり前だ。
それをはじめとするように、俺の今を構成しているもの、並びに俺を取り巻く環境は、当たり前のものばかりであった。
いつも通りの物ばかりであった。
いつも通りの高校の制服。
いつも通りの電車の時刻表。
いつも通りの退屈な風景。
別に、それらを卑下している訳ではない。
寧ろ有難いことだと、俺は認識している。
有ること難き事だと、認識出来ている。
先刻羅列した『いつも通り』たちは、人類の闘争が、歴史が築いてきた、積累した愚行達による賜物だ。
滅多に有るもんじゃあない、ここまで愚かしいことは。
有ること難き事だ。
有難い事だ。
そんな、そんな有難い物等の中でだ。
俺の横に座る少女は、そう尋ねてきた。
≪ねえ、初キスって、どんな味がするのかな≫
「・・・はい?」
「いや、だから、初めてのキスってどんな味なのかなって」
断っておくが、この横の少女、初対面である。
馴れ馴れしいとかの段階ですら無い。
なんなんだ、と思い、それとなく少女の容貌を視認する。
見た感じ、同年代程度の年齢。
とはいえ、少々年齢の割にあどけない。
顔の作りは、悪くないように思えた。
美少女という奴だろうか、端正な顔立ちだ。
眉目秀麗。
容姿端麗。
一国傾城とまでいくと、若干言い過ぎなのだろうが、それでも見目麗しいという言の葉とは、そう違はない相貌だ。
そしてどうやら、俺と同じ高校の制服を着用しているし、恐らく同級生なのだろう。
だが、そうなると奇妙だ。
俺は他人に興味のある方では決してないが、同じ駅から通う同級生を、初めて知るのがこんな2年の冬とは、不自然と言わざるを得ない。
引っ越してきたのだろうか、こんな田舎町まで。
益々不自然である。
「・・・あれじゃ無いのか? その・・・レモンの味とか、そういうの」
「えー・・・、つまんない答え。
ステレオタイプってゆーか、テンプレートってゆーか」
初対面の女子に横文字でなじられた。
有る事難すぎるだろ。
「じゃあ、そうだな、これは何処かで聞いた話なんだが、初キスの味ってのは直前に食べた物に左右されるらしいぜ」
「ニンニクの味とかしたら嫌だからダメ」
「・・・じゃあ一体どんな答えだったらよかったんだ? 」
脳を支配する苛立ちを抑えつつ、横の少女に答えを求める。
この謎な状況においての最適な答えの方が知りたかったが、生憎この少女が知るはずもない。
この状況を作り出した本人だしな。
いわば黒幕である。
「そーだなー・・・」
少女は思案気な表情を作ると、いかにもな"天啓が落ちた"顔をして見せた。
苛っとくる。
「今考えたな、答え」
「答えは常に更新されてく物なんだよ」
「答えになってねえ」
そんな俺の指摘を物ともせず、というか無視して、彼女はAを突きつけた。
立ち上がって、人差し指を突きつけて。
「そう、特別な味だよ!」
・・・。
・・・・・は?
あれだけ引っ張って、答えがソレ?
曖昧にも程がある。
具体性はどこにおいてきたんだ。
ひょっとしてこいつ、
馬鹿にしてるのか?
「馬鹿にしてるのか? 」
素で言った。
言っちまった。
「してないよー! ふふっ」
自分が出した答えに余程気に入ったのか、独りで笑い始めた。
不気味だ・・・。
先刻の失言に言及されなかった事は良かったのだが、こうも不気味だと、早々に帰りたくなる。
いや、もう帰らなくて良いから早く学校行きたい。
などと考えていると、噂をすればというのか、電車がこちらにやってくるところだった。
俺はやっと現れた救世主に安堵しつつも、目の前の、否、目の横の少女に宣言した。
「俺、あの電車乗らなくちゃいけないから、それじゃ」
足早に、この場から流れんが為、端的に。
「あっ」
少女の戸惑いの声が聞こえたが、知るものか。
逃げるが勝ちである。
そう思い、正式名称のわからない、お馴染み黄色い線の前に立った。
助かった。
これでもう奴と関わらないで済む。
全く、疲れ果てた。
僅か数分の邂逅だったと認識しているが、ここまで体力を吸うとは恐ろしい。
これだから現代っ子は。
誰も突っ込まない冗談を言っていると、電車が完全に停車しきったところであった。
両サイドから横並行でドアが開く。
此処は田舎、というか、辺境の地なので、電車から降りてくる人々など存在しやしない。
なので、何者にも遠慮する事なく、足を踏み入れ───
───ようとしたところで、背後から肩を叩かれた。
俺はそれに対し、殆ど反射で振り向いた。
「なんです───────」
──────頬に、熱を感じた。
痛いという領域には入らずとも、それでも鮮烈に感じた。
鮮烈ではあるけれど、何処か優しい、温かみのある熱。
対照的なまでの冬の外音が、余計に熱を加速させた。
それと共に、冬の乾燥に起因してか、微かに水分不足気味で、それでいて肉感的な感触が降り落ちた。
柔らかい。
しかしそれは、不足した水分を補うかのごとく、どこか艶やかで、扇情的ですらあった。
色欲、情欲、肉欲。
そんな単語が、瞬きの間に、瞬く間に、脳内を席巻したが、それ等と会合するには、余りに品性のある、気品漂う物だった。
それの正体には、実を言うともう気づいている。
唐突だし、突然だし、脈絡もない。
だけど、伏線はあったように思える。
この、謎の数分間に散りばめられた、数多の伏線。
ここまで回収が早いのも、きっと珍しい方だ。
「ああ、口にするつもりだったのに! 」
─外しちゃったよ。
頬を紅潮させて、目の前の少女はそう言った。
そう、それは───────
「────初キス」
全くもって、有難い。
※
電車は、とっくに駅を経っていた。
この辺境の地において、次の電車などありはしない。
否、あるにはあるが、来たところで黄昏時だ。
という事で、俺は今少女と行動を共にしている。
どういう事だ。
俺の純潔は目の前の少女に散らされたわけだが、もはや目の前の少女というか、目の上のたんこぶだった。
「ねえねえ、初めてのキス、何味だった? 」
「『天下逸品 国府宮店舗 コッテリ味噌ラーメン ニンニクマシマシの上』の味」
「なんで私の朝ごはんしってるの?! 店舗まで言い当ててるし!」
驚愕した様子を見せると、少女は自らの身体を抱き締めるように腕で抱え、後ずさりした。
「まあ初キスの味とか言ってるけど、俺がキスされたの頬だけれどな」
「余計わかっちゃダメでしょ!? 何、君能力者?! 」
仮にそうだとしたら、随分と非生産的な能力だ。
「違うよ、横に座ってた時の吐息でわかっただけだ」
「ああなんだそういう・・・どういう?! 」
またしても衝撃といった感じの素振りで、後退りを重ねた。
その仕草は、どうにも馬鹿っぽい。
「・・・というかお前、『ニンニクの味したら嫌からダメ』とか言ってたのは、自分がニンニクマシマシの上頼んでたからだったのか」
─朝ごはんに食うもんか? それ。
わかりやすく聴こえてない事を表明する為にだろう、耳を塞いで「あー!あー!」とか言っている。
これまた、迅速な伏線回収だった。
駅から降りて、この辺境の地を散策している訳だが、
いやはや、全くもって何もない。
畏敬の意を表するよ。
広い割に、何もない。
スカスカと言って良いだろう。
俺の人生みたいだ。
しばらく歩いて、心も落ち着いてきた。
いや、正直なところずっと脈は早いし、心臓もバクバクだったのだ。
そりゃあそうだろう。
だって頬とはいえ、初キスだからな。
「なんで、俺にキスなんてしたんだ 」
尋ねてみた。
一番に訊くべきことだったが、あまりの衝撃故に忘れていた。
仕方ない事だ、責めないで欲しい。
「えっ、そうだなー・・・」
なんか考え込んでる。
何も考えてなかったのか。
「強いて言うなら」
唇に人差し指を当て、妖艶な仕草で語りだす。
「心臓を奪う為かな」
有る事難すぎだろ。