希望の灯
慣れない家事は、八歳の私にとって、過酷な大仕事ばかりだった。
最初は火もろくに起こせなかったので、野菜も生でかじっていた。かろうじて野イチゴの群生を見つけたおかげで、随分と助かっている。
けれど二年ほどが経過した今、このままでは死ぬかもしれないという、ぎりぎりの暮らしからは脱却できていた。
どうにか薪を割り、火で調理したりお湯を沸かせるようになったのは、小さな友達がたくさんできたおかげだ。
「シャーリー、お湯が吹く」
「その葉っぱ、水に晒さないと、お腹痛くするよ」
それは家の周りで遊んでいた、大耳リスや、白キツネたちだ。
仲良くなるうちに、ここでの暮らし方をそれぞれが、親切に私に教えてくれたのだ。
「ちょっとお。シャーリーはあたしの家族なんだから。あんたたち、気安いわよ」
ハティはふくれっつらをして、イカ耳になる。
けれど外では一緒に駆けまわって、彼らと遊ぶことも珍しくない。
「わかってるけど、ハラハラするよ。シャーリーって、最初は火も起こせなかったじゃない」
「薪割りもできなかった」
「井戸のつるべも、動かすまで大変そうだったよ」
ねえ、そうよねえ、と口々に言う大耳リスたちは、ちょろちょろと棚の上を走り回っている。
私は苦笑しながら、鍋で茹でていた根菜を、木のボールに取り分けた。
「本当にそうね。今こうして、茹でた根菜を食べられるのも、教えてくれたみんなのおかげ。だって、この家のどこにどんな道具があるか、それさえ知らなかったんだもの」
「そうよ、シャーリーは知らなかったのよ」
足元にぴったりくっついて、ハティが私をかばってくれる。
今でこそ、こんなふうに笑って話もできるけれど、一時期の暮らしはひどいものだった。
しばらく使われていなかった井戸は、さびてなかなかつるべが動かなかったし、水面は虫の死骸だらけだったのだ。
それをすっかり綺麗にするまでは、小川の水を利用したのだが、そのまま飲んでいたら、お腹が痛くなってしまった。
季節が冬になると、手足はしもやけとあかぎれで痛み、成長にともなって衣類は窮屈になっていく。
ろくな衣類の施しはなく、裁縫道具を見つけてシーツやクロスで服を作れるようになるまでは、ぼろぼろの喪服をまとった状態でいた。
根菜には、腐っているものも混ざっていて、腹痛を起こして発熱し、死んでしまうのだと覚悟したこともあった。
このままお母様たちの傍に行きたいと、何度願ったかしれない。
ハティと、後に知り合った動物たちが、私の心の支えとなってくれている。
「俺たちは、前に住んでいたおじいさんのやり方を、見ていたからな」
「そうそう、全部覚えてる」
「全部でもない。半分くらい」
「大耳リスは、物覚えが悪いよ。おいらはもっと物知りだ。その、赤い根っこを一本くれたら、もっと美味しいものを教えてやるよ」
ぴょん、とこちらに進み出た白キツネに、ふうっ、とハティは尻尾を膨らませる。
「なによ、偉そうに」
「やめなさい、ハティ。……もっと美味しいものって、なあに? 教えて欲しいわ」
施される根菜は、美味しいものではない。
調味料は前の主がわずかに残していたが、砂糖が主で、根菜に合う塩は、ほんのわずかしかなかった。
だから本当に、命を繋ぐためだけの食物という感じだ。
茹で上がった赤い根菜を、冷まして切ってボールに入れ、白キツネに差し出す。
すると彼は、得意げに話し出した。
「……ええとね。お屋敷の裏に、プク豆が生ってるはずだよ。あれは痩せた土地で放っておいても勝手に、どっさり実るんだ。大きなサヤに入った、大きなお豆。前にいたおじいさんは、あれでパンを焼いて、食べていたよ」
「あのお豆が、パンになるの?」
首を傾げると、白キツネは得意そうに言った。
「貴族のお嬢様は、知らないらしいね。作物の出来が悪い年、ここいらの農民は、プク豆を食べて生きてきたのさ。そのままでは、もっさりして苦い粉のようで、食べられたものじゃない。だから、豆を練って焼くんだよ」
数匹の大耳リスたちが歌うように、その言葉を引き継いだ。
「野イチゴを、水と砂糖に漬けてゆさゆさするの」
「一週間で、しゅわしゅわするよ」
「ぷすぷす汁と、もさもさ豆を、こねて叩いて、しばらく置いて」
「焼いたらふんわり、パンになる」
へええ、と私は感心する。
「面白そう。作ってみるわね」
「作ったら、みんなで食べよう」
「みんなで作ろう」
古い屋敷での暮らしは、大変なことが今でも多い。
けれど動物たちとの暮らしは、言葉の通じる私にとって、和やかで楽しいものだった。
意地悪だったり、怖い人間は、ここにはいない。
農民たちは、食料を運んでくる以外には、屋敷に近づいてはこなかった。
♦♦♦
「そこは駄目よ、シャーリーの枕元は、私の場所よ」
「じゃあ、おいらは足元でいいや」
「ぼくらはお布団の中がいい」
寒い夜には、みんな私のベッドに集まって、温かい場所を探して眠る。
柔らかなぬくもりのおかげで、私は寂しさや孤独を感じずに、生活することができていた。
猫憑きの、不気味な令嬢という噂のせいか、盗賊すらも近寄って来ない。
やがて三年が経つ頃には、パンを焼くだけでなく、屋敷の周囲で少しばかり畑を耕して、作物を育てることにも成功していた。
残りの時間は、変わり者だったという祖父の兄が残した膨大な量の本を読み、半分しか音の出ない、ハープシコードを弾いて過ごしている。
そしてトレザでの暮らしが四年を経過した、ある日のこと。
「侯爵様から、今日は食料と一緒に、この肖像画を渡すようにと言われました。お嬢様が、後に嫁がれる人だそうですよ」
いつも私に野菜袋を持ってきてくれる、農民の娘はそう言うと、布に包んだ四角いものを差し出した。
「んにゃ?」
唐突に言われて、私はびっくりしてしまった。部屋に戻って布を開くと、中には少年の描かれた、油絵が入っている。
「この人が……」
それは黒髪に、淡い薄茶の目をした、おとなしそうな少年の肖像画だった。
裏側には、ハリソン家 長男ルイス 十二歳 と書いてある。
「見せて見せて」
「細くて、ひょろっとしてるなあ」
「これがシャーリーの、結婚相手なの?」
ハティや白耳ウサギたちが、興味津々で問いかけてくる。
「そういうふうに、決めたらしいわね」
「シャーリー、この人が好き?」
小さな頭を横にかしげ、ハティが尋ねた。
「わからないわよ。今、絵を見たばかりなんだもの」
お父様とお母様も、親が決めた結婚だった、と聞いている。
だから後見人の叔父たちが、私の相手を決めるのも、非常識なことではなかった。
ただ、優しい人だといいな、私を嫌いでないといいな、とだけ、このときは考えていた。
けれど、動物たちとだけ接し、外の世界から隔離されたような、この屋敷での暮らしの中。
その肖像画の少年は、いつしか私の心の中で、希望の灯のように思えるようになっていた。