地下室の声
辛く悲しい毎日を送っていた私にとって、猫のハティと言葉が通じるようになったのは、ヴラーギが与えてくれた、奇跡のように感じられる。
「ねえねえ、シャーリー。言葉がわかるようになったから、教えたいことがあるの」
ハティは前脚で、私の足をくいくいと、つつきながら言う。
「教えたいこと?」
「うん、あのね。前から気になってたんだけど。そこの壁の下。枝や枯れ葉や、古道具を動かすと、地下の匂いがするよ」
なにかしら、と行ってみると、確かにそこには土と違う感触が、足の下にある。
ガサガサと上にあるものをどかしてみると、戸板のようなものがあった。
錆びた鎖らしきものがついていて、もしかしたら、と引っ張ってみるとそれは持ち上がり、狭く小さな石段が現れる。
「……地下室に続く、階段だわ。そういえば、いつだったか、お父様に聞いたことがあったかも。昔々、隣の国と戦っていたころ、敵が来たら逃げる方法がこのお屋敷にはある、って」
私はまだお父様もお母様も元気だったときの、懐かしいひとときを思い出していた。
『この屋敷にはね。万が一、火事で逃げ場を失ったときには、今も使える秘密の出入り口があるんだ。地下のワイン倉庫から、外へ出られるのだよ』
『だけど、ワインの棚も、随分と増えてしまったから。私もお父様も少しやせないと、お尻がつかえてしまうかもしれないわ。そうしたら、シャーリーがひとりで逃げるのよ』
『いやよ、お母様。逃げるときは、三人一緒でなくっちゃ、駄目よ』
暖炉で薪の燃える、パチパチいう音。仲良し親子三人の、明るい笑い声。
すべての記憶が蘇ってきて、私の目にじわりと涙がにじむ。
が、足に抱き着くようにしてこちらを見上げているハティに気が付き、笑顔を作った。
「シャーリー、目が濡れてるよ。どうしたの。どこか痛いの」
「ううん、なんでもない。教えてくれてありがとう、ハティ。ワインに用はないけれど、ジャムの瓶もあったはずだわ」
「ジャムって、知ってる。べたべたして、甘いのでしょ。あんまり、好きじゃないけど。ネズミがいるかもしれないから、あたしも行ってみたい」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
そんなことがあってから、私はときどきハティと一緒に、地下の倉庫に、探検気分で入ってみるようになっていた。
倉庫の中は、天井が低く、ぎっしりとワインを横に並べた棚が連なっている。
お父様が話していたとおり、そのせいで通路がすごく狭くなっていて、裏庭の出入口から下に降りた辺りでは、屋内に続く扉が見えないくらいだった。
季節はそろそろ夏を迎えようとしていたが、倉庫の中は、ひんやりと涼しい。
暗くて静かなものだから、ハティと話し込んでいるうちに、眠ってしまったこともある。
そしてあるとき私は、そこですべてを知ることになったのだった。
♦♦♦
「……じゃないか、このままでも」
「駄目よ。お客様もいらっしゃるし、外聞も悪いわ」
(──なんだろう。声がする。……ああ、ここは地下のワイン倉庫ね。また寝ちゃったんだわ、私)
私が眠っていたのは、いくつも並んでいるワインの棚の、一番奥だ。
話し声は、屋内の扉近くの離れた場所から、かすかに聞こえてくる。
姿は見えなかったが、それが叔父のサイモンとブリジット夫人だということは、声ですぐに気が付いた。
「静かに」
隣で耳をピンと立て、起き上がったハティにかすかな声で私は告げる。
ハティの耳は、人間よりもずっといいので、本当にごくごく小さな声でも聞こえるのだ。
おかげで存在を気付かれないまま、夫妻のひそひそ話は、なおも続いた。
「だからって、シャーリーにまで毒を盛ったら、さすがに疑われるぞ」
「わかってるわよ。殺したりしないわ。私は別に、殺すのが楽しくて毒を使っていたわけじゃないんですからね。できればそんなこと、したくないのよ」
(毒? 殺す?)
私は驚愕していたが、息を殺し、耳をそばだてる。
「幸い、父親の死因を疑う知能も、なくなっているようだし。無害で扱いやすくて、生かしておいても問題ないわ。だから、病気療養ということにして、トレザの小さな屋敷に追いやって、飼い殺しにすればいいのよ」
「トレザ? ああ、伯父のジェイコブがいた家か」
そうよ、とブリジットは忌々しそうに言う。
「あの偏屈な、独り身の変わり者。私とあなたの結婚を大反対して、憎らしい。最初に実験として毒を使ったら、あっさりと片付いてくれたわよね」
「ブリジット! いくら使用人に聞かれる心配のない地下室でも、そう簡単に何度も毒などと口に出すな。恐ろしい」
(おじい様のお兄様を、この人たちが殺したんだわ!)
私は悲鳴をあげないよう、両手で口を押さえた。
「なにが恐ろしい、よ。私というものがありながら、パトリシアに言い寄って、振られた挙句に階段から突き落とした人が、善人ぶってよく言うわ」
えっ、と私は息を飲む。
パトリシアは、私のお母様の名前だ。
(突き落とした、って聞こえたわ。まさか、まさか、嘘でしょう?)
サイモンは、必死に釈明する。
「違う! あ、あれは事故だったんだ。手を振り払われて、そのはずみで」
「だけどあなたがせまったから、嫌がられた結果じゃないの」
棘のある声に、必死にサイモンは釈明した。
「そうだが、わざとじゃない! お、お前のように、召し使いの親を人質にとって操り人形にし、兄上に用意周到に毒を盛らせたのとは別だ」
「結果としては、同じよ」
サイモンの言う兄上とは、もちろん私のお父様だ。
そうよ、同じよ、と私は怒りに震えながら、心の中でつぶやいた。
(あなたたちは、どっちも人殺し。私の大事な、なにも悪いことをしていないお母様と、お父様を殺した。人殺しの、悪魔だわ!)
「私はむしろ、あなたとオリバーのため、侯爵家のすべてを手にするため、仕方なくやったことだわ。でもサイモン。あなたは違うじゃないの。兄の妻に心を奪われるなんて、私と娘への裏切りだわ!」
「ちょっとした、遊び心だったんだ! 酔っていたし、あんなに怒るとは思わなかった」
「夫が浮気心を出した上に振られるなんて、私にとっては恥でしかないわよ」
「だ、だから、きみがやっていることにも、目をつぶってきたんじゃないか」
「私のしたことは、あなたのためでもあるのよ!」
(そうなの。そういうことだったのね。許せない。絶対に許せない!)
怒りのあまり、頬にはらはらと涙が零れる。
私にすべてを聞かれているとは知らず、叔父夫婦はなおも続けた。
「ともかく、シャーリーは遠くに片づけて飼い殺しにします。それでいいわね」
「なにも、トレザなどという寒村でなくても。我々のいた屋敷でいいではないか」
「駄目よ。あそこには、私の母と妹が住んでるんだもの。シャーリーはトレザで充分。それともあなた、パトリシアに似たあの子に、同情しているのかしら?」
「そっ、そんなことは断じてない! わ……わかったよ、きみの好きにすればいい」
あまりに非道な話に、涙を流すしかない私の頬を、ハティの小さな舌がなだめるように、一生懸命ぺろぺろと舐めていた。