つかの間の平和
私とハティの家に、アルフレッドたちが訪れるようになってから、トレザでの暮らしは、まったく違うものになっていた。
なにしろ魔道の威力は凄まじく、屋敷だけでなく畑の作物まで立派になるし、動物たちの毛並みまでよくしてしまう。
ただし、アルフレッドの魔道でも、作り出せないものがあった。
「焼き上がりまで、もう少し待っていてね」
この日、いつものように訪ねてきたアルフレッドと黒ウサギのカークのために、私は豆パンを焼いていた。
パンにつけるようにと、高価なバターと蜂蜜を、アルフレッドが持ってきてくれたのだ。
それだけではない。
「木の根のお茶より、いい匂いがするね」
くんくんとハティが匂いを嗅ぐのは、やはりお土産として持ってきてもらった、高価なお茶の葉だ。
「いつもありがとう。こんなによくしてもらって、私にはなにもお返しできないのに」
「逆だ。俺がシャーリーに、恩返しをしている。それに、きみは癒しの時間を与えてくれているし、パンを焼いてくれているじゃないか。俺はなにより、きみのパンが好きなんだ。市場でも、売っていないからな」
部屋の隅では、ハティとカークがふたつの毛玉のように、くっついていた。
「この、バターっていうの、悪くないわ」
「そうか。じゃあ、俺の分もあげるよ。食べたいものがあったら、なんでも言って」
驚くべきことに、アルフレッドはお茶の時間を知らなかった。
だからこうして一緒にお茶を飲み、軽食を口にし、のんびりする時間を、とても楽しいと思ってくれているようだ。
お茶の後には私がハープシコードを演奏するのが、お決まりになっている。
「最近は、石を投げるようなバカものはいないのか」
「ええ。フレッドのおかげよ。あの後も一度、門の前まで何人か、夜中にやってきたことがあるの。でも塀が高くて、投石は無駄だとあきらめたみたい」
私の説明に、アルフレッドは顔を曇らせる。
「まだそんな輩がいるのか。心配だな。その。お……俺の屋敷に住めば、安心だと思うが、どうだ」
「フレッドの御屋敷って、どこにあるの?」
「馬車でたいしてはかからない。下心ではなく、つまり、安全を考えて言っているわけだが」
うーん、と私は考える。
もうアルフレッドに警戒心はないし、親しくしてくれて、嬉しいとも思っている。
他の人たちならば、どう考えるかわからないが、私にとって魔王のアルフレッドは、人間より信用できると感じていた。
「でも畑の世話もあるし、仲良くなって遊びに来てくれている、動物たちもいるし」
そうか、とアルフレッドは少し残念そうな顔になった。
私は急いで付け加える。
「そう言ってくれた好意には、感謝しているわ。ありがとう。だけど他にも気掛かりなことがあるのよ。私が勝手に引っ越ししたことが叔父たちの耳に入ったら、なにをするかわからないし」
「きみの叔父一家か。投石の嫌がらせが、そいつらの手によるものだとしたら、本当にどうしようもない連中だな」
フレッドはまるでそこに彼らがいるかのように、窓の外を睨む。
「もし今度また、なにかきみに危害を加えようとしたら、遠慮なく言え」
「また炭にするとか言うのでしょ?」
「いや。細切れにしてから粉砕し、骨も残らないようにしてやる」
「フレッドったら」
私は苦笑して、かまどから焼き上がったパンを出す。
それから、熱々で真ん丸のそれらを鍋つかみでひとつひとつ、籠に盛った。
香ばしい匂いが、ふわっと室内いっぱいに漂う。
「私はこんなふうにして、楽しい時間を持てているのだから。あんな人たちのこと、忘れてやるわ。……さあ、できたわよ」
私はパンの入った籠と、別の器に入った蜂蜜をテーブルに置く。
そしてハティには、干し魚をとろとろのスープにしたものを冷まして、平たい皿に入れて出す。
干し魚も、アルフレッドにもらったものだ。
「ああーん、美味しそうな匂い」
うっとりしたようにハティが言うと、カークが嬉しそうにスープをすすめる。
「こんなのなら、いくらでも。そうか、ハティさんは、魚が好きなんだよね。今度そこの小川で、俺がどっさり狩ってやるよ」
「おいしい、おいしい、おいしい」
カークの言葉など聞こえないように、ハティは夢中でスープ皿に顔を突っ込んでいた。
「あなたのおかげだわ、フレッド。ハティも喜んでる」
「い、いや。俺も、きみのパンが食べられて嬉しい。……うん、美味いな。焼きたては格別だ」
「とろけたバターが、うんと美味しさを引き立ててるのよ。すごく濃密で、新鮮ね」
私は焼きたてで、湯気を立てているパンをふたつに割り、綿のように柔らかい生地にかぶりつく。
「蜂蜜もつけてくれ。女性は甘いものが好きだと、市場で聞いた」
「ええ、大好きなの。嬉しいわ、フレッド」
それは本当に、美味しかった。
バターも蜂蜜も金色に溶け、じんわりとホカホカのパン生地に染み込んで、ほっぺたが落ちそうなくらい美味だ。
「それに、お茶も。とってもいい香り」
「気に入ってくれてよかった」
そんなふうにして、二匹とふたりでくつろいでいたとき、私はふっと、窓の外からの視線を感じる。
「あら。なにしてるの。入ってくればいいのに」
そこには大耳リスと白キツネが、びくびくしてこちらを見ていた。
「なによ。怖がりの弱虫なんだから」
ハティがツンとして、窓辺に飛び乗る。
「入ってくればいいじゃないの」
「だって、おっそろしいのがいるだろう?」
「ハティは飼い猫だから、野生の勘が鈍いんだ」
「そのうちぺろりと、食われちゃうぞ」
「フン。魔力もないただの獣のお前らなんか、魔王様の口に合うわけないだろうが」
ジロリと黒ウサギのカークが睨むと、それだけで白耳キツネたちは震えあがり、窓から離れて逃げてしまった。
「本能的に怖いんだと思うわ。なんといっても、妖霊島の魔王なんですもの。私が今度、怖くないから一緒に遊びましょうって、よく言っておくわね」
するとアルフレッドは、苦笑する。
「リスやキツネと、一緒に遊ぶ魔王か。島のものたちが聞いたら、なんと言うだろうな」
「そりゃあ、驚きますよ。いや、信じないでしょうね。パンを食べて、お茶を飲んでくつろいでる、っていうだけでも、俺ですら目を疑う光景ですから」
私は妖霊島の状況や、そこでの暮らしは書物でしか知らない。
ともかく、殺伐としたものなのだろうな、ということは想像できた。
「だったらなおさら、島では知らなかった楽しいことをしましょうよ。私も長いこと、楽しむという気持ちを忘れていたの」
「楽しむ。なるほど、この状況がそれだとしたら、悪くないな」
「あのね。提案があるの」
私はアルフレッドとカーク、それぞれを見て言う。
「ピクニックに行ってみない?」
ピクニックには子供のころの、楽しい記憶がたくさん詰まっていた。
だから再び誰かとピクニックに出かけるのは、私の小さな夢でもあったのだ。
「教えてくれ、シャーリー」
私の提案に、アルフレッドは、そんなふうに応じた。
「俺はピクニックというものを知らない。だが、きみが行きたいと言うのなら、ぜひ行きたいんだ」
それなら、と私はアルフレッドに、ピクニックがどんなことをするものなのか、準備するための道具など、細かく教えた。
その横ではカークが、魔王様がピクニック、と肩を震わせて、こっそり笑い続けていた。




