魔王・アルフレッド
(ともかく、婚約は破棄できたわよね。もうこれで、社交界ごっこは終わりにしましょう。ハティが待っているから、早く帰りたいのだけれど)
私はこの日の自分の役目が終わったと考え、どうやってトレザまで帰宅しようかと思案していた。
怒り狂ったブリジットは、決して私を侯爵家の馬車に乗せたりはしないだろう。
(徒歩だと何日かかるかはわからないけれど、トレザへの道は、小鳥や野良猫に教えてもらえばわかるわよね)
「私と踊ってもらえますか、レディ・シャーリー」
甘く低い声がかけられて、ソファで物思いに浸っていた私はハッとした。
「はい? あなたは。ええと、フィ……」
「フィクトスだ。異国からやってきた」
私の前に立っていたのは、きらめく緑の瞳をした異国の青年貴族、フィクトス公爵だった。
彼が片膝をつき、私に手を差し伸べると、その流麗な仕草に感嘆と、羨望の混ざった溜め息がいっせいに聞こえる。
けれど私は、首を傾げた。
「なぜわたくしの名前を、ご存じでいらっしゃるのかしら」
「それは。つまり、聞いたからだ。その辺にいた、貴族の誰かに」
答えを聞いても、やはり腑に落ちない。
「そうでしたの。でもわたくしなどより、公爵様に相応しい、華やかなご令嬢がたくさんいらっしゃると思いますわ」
「いや。どうかお願いしたい。あなた以外とは、踊りたくない」
理由は知らないが、そこまで言われたら、断るのは失礼だ。
私は彼の手を取り、広間の中央へと進み出た。
フィクトスのリードで踊り始めると、周囲はまたもざわつき始める。
「なんて綺麗なおふたり」
「公爵様の足運びの、なんて優雅なこと」
「見ていて飽きませんわ。ああ、次はわたくしと踊って下さらないかしら」
フィクトスは整った白皙に、笑みを浮かべる。
「とても上手いな、シャーリー。人前であまり踊ったことはないんだが、こうしているのは、とても楽しい」
「ありがとうございます。でも、なぜわたくしと踊ろうと思われましたの?」
手の平を合わせ、腰をもう片方の手でガードされるようにして身を任せると、まるで氷の上を滑るように足が動く。
私は踊りながら、彼に尋ねた。
「なぜとは。この中の誰よりもシャーリーが、好ましいと思ったからだが」
「まさか。お会いしたばかりで、ご冗談をおっしゃらないで」
冗談? とフィクトスは不思議そうな顔をした。
「俺は本気で言っている。それにできたら、他人行儀な話し方をしないで欲しい」
「閣下の御国では、それが普通ですの?」
「うん? ああ、まあそうだ」
かなり砕けた貴族社会を持つ、お国柄らしい。
フィクトスとはそのまま二曲踊り、もう疲れたので、と丁重にダンスを辞退する。
じりじりと、次こそは自分と踊るのだ、と待ち構えている令嬢たちの気配が、感じられたからだ。
ところがフィクトスは、それならば自分も休憩する、と踊りをやめてしまう。
「喉が渇いた。なにか飲もう」
フィクトスが言って、軽く右手を上げると、彼の従者の青年が飛んできて、グラスをふたつ渡した。
「テラスに行こう。この室内は、空気が淀んでいる」
「え、ええ」
軽く腰を押させるようにしてうながされ、私は貴婦人たちの強い視線を背中に感じつつ、フィクトスとテラスへ向かった。
細かな飾りがついた、白い手すりにぐるりと囲まれたテラスは、広々として風が心地よい。
遠くの端のほうで、恋を語らっているふたりが見える。
夜空には月が浮かび、目の前には美しく手入れされた、庭園が広がっていた。
「さあ、これを」
受け取った細長い華奢なグラスには、色と香りからしてワインが入っているらしい。
「ありがとうございます。でもわたくし、あまりお酒に強くないのです」
「苦手なのか?」
「口にする機会がなかったので」
私が言うと、フィクトスはサッと右手を動かした。
するとまたしても従者が、今度は別の飲み物を持って飛んでくる。
よほどよくしつけをされた、忠実な臣下のようだ。
「わざわざ、交換してくださって、恐縮ですわ」
「そんなかしこまった話し方を、しないで欲しいと言っているだろう」
「でも、公式な社交の場ですもの」
「室内はそうだが」
そう言ってフィクトスは、ちらりと広間に目をやった。
「けれど、空の下では違う。俺はもっとシャーリーと、親しくなりたい」
ぐいぐい距離を詰めてくるフィクトスに、ちょっととまどっていたけれど、容姿や風格のせいなのか、失礼だとは思わなかった。
(なぜかしら。なんだか懐かしい気がする。それに、公爵閣下という雰囲気もしない。そんな小さな器ではないような。まだお若いようだけれど、どこかの王様ででもあるかのような、威厳を感じる)
どんな対応をしていいのか、とまどっている私に、フィクトスは思いがけないことを聞いてくる。
「ところで。率直に言って、俺はとてもシャーリーのことが気に入っている。だからシャーリーが好ましく思う男は、どんなタイプなのか教えて欲しい」
「好ましく思う……?」
一瞬、私の脳裏に、かつて思い描いていたルイスの肖像画が浮かぶ。
こんな人だったらいいな、と願っていた理想像は、完膚なきまでに打ち砕かれていた。
「そ……そうですわね。正直にお話しすると、あまり、人が好きではありませんの。特に、嘘をつく人は嫌いです」
美しい、緑色の目をじっと見つめて言うと、フィクトスはぎくりとした様子になった。
私はそれに目敏く気が付き、溜め息をつく。
「なにか、うしろめたいことがおありなのね」
「い、いや。つまり、きみとここで出会うために、少しばかり嘘をついている。だが、きみがそれを嫌うならば、真実を話そう」
はい? と私は首を傾げる。
「ほとんどまだ、お話しをしていないと思いますけれど」
せいぜい、自己紹介くらいのものだ。
するとフィクトスは、さっと素早く周囲を見回し、つぶやくように小さく、けれど厳かに言った。
「では、正直に言おう。──我が祖国は妖霊島。俺は魔物を統べる、最強のもの。そして……我が真の名は、魔王アルフレッド」
聞いた瞬間。
「あら、そうでしたの。では失礼」
私はフィクトスにくるりと背を向け、すたすたと歩き出した。