約束はこの日まで
私が聞いているとも知らず、ルイスはとくとくと続ける。
「ぼくが好きな女性は、教養のある方です。知識があり、巧みな会話で人を楽しませ、芸術を理解する賢い女性。人形には、興味などありませんよ」
「それはあなたが賢いからよ、ルイス。私も、賢い人が好き。……あなたみたいに」
カチリ、とグラスを合わせるふたりの様子に、私の中で何かがプツン、と切れた。それはおそらく「我慢の限界」というものだったのだと思う。
私はその場から離れ、逃げるように大広間の壁際を、早足で移動した。そして、設置してあった素晴らしい装飾が施された、ハープシコードの前に行く。
そこには、舞踏会が始まるまでは、会話の邪魔にならないようにするためなのか、演奏者がいなかった。
すう、と息を吸い、私は楽器の前の椅子に座る。そして。
(お父様、お母様、どうか見ていて。私に力を貸して下さい)
私は鍵盤に、指を滑らせた。
トレザの屋敷の故障したものとは違い、すべての音が出ることが嬉しい。
喜びを乗せた旋律が、美しい曲になってあふれ出る。
一斉に人々の視線が、こちらに集まった。
「……おお、なんと巧みな演奏だ」
「どちらのご令嬢が弾いておられるのだろう」
音がきちんと出なかったとはいえ、私は六年近くの間、ほぼ毎日のように暇を見つけては家事の合間に、練習を重ねてきた。
辛い思い出から逃れるかのように、没頭していたのだ。
その集中力と熱意は、道楽として気ままにレッスンしているであろう令嬢たちとは、比べ物にならなかったに違いない。
「素晴らしくお上手ですわ。あの難曲を、軽やかに」
「見事ですわね。わたくしのサロンでも、ぜひ演奏して欲しいですわ」
ざわざわと人々が、ハープシコードの前に集まってきたところで、私は椅子から立ち上がり、ドレスをつまんで、優雅に一礼をした。
わっ、と喝采と拍手が起こり、私は彼らににっこり笑う。
そして私は胸を張り、凛と声を張り上げた。
「わたくし、レイランド侯爵家のシャーリーと申します! 本日、社交界デビューいたしました。ハープシコードのお披露目も、初めてですわ。みなさん、仲良くしてくださいませね」
猫の声しか出さないという、お父様との約束は、社交界へデビューするまで。
今日から私は、人の言葉を話せるのだ。
わっ、と人々は沸き、さらに拍手を送ってくれる。
精一杯の笑みを浮かべた私に、大勢の紳士淑女が、取り囲むようにして寄ってきた。
「レイランド侯爵家の、ジェイムスの忘れ形見か!」
「言われてみれば、美貌を讃えられたパトリシア夫人にそっくり」
「素晴らしい演奏でしたわ、どうぞこちらにおかけになって」
「ジェイムスは本当に、気の毒だった。このような娘さんの晴れ姿を、見たかっただろうに」
「素敵なご夫妻でしたのにねえ。シャーリー嬢を見ていると、面影がしのばれますわ」
「わたくしも、ハープシコードが好きですのよ。作曲家はどなたが御ひいき? わたくし、プランクランのファンなのです」
私はうながされるままに、長椅子に腰をかけ、渡されたグラスを手に取った。
「プランクランも好きですわ。一番は、モランですけれど。それと、レルーソも」
「モラン! 素敵ですわ、御趣味のよろしいこと」
「おお、レルーソを語れる令嬢がいるとは嬉しいな。主流ではないが、あの独特な華やかさは私も評価しております」
熱心に話す紳士の後ろから、大きな羽を頭に飾った美しい夫人がやってきて、目を輝かせて隣に座った。
「楽しそうなお話をされていますわね。わたくしも混ぜていただきたいわ。見事な演奏でしたもの。まるで、パトリシアが弾いているのかと」
えっ、と私は思わず夫人を凝視する。
「お母様を、御存じですの?」
「ええ。若いころは、ふたりで恋の相談をしたり、ダンスの練習をしたこともありましたのよ。ああ、シャーリー。今日、会えてよかった。あなたを見ていると、親友が蘇った気がするわ」
夫人は目元をハンカチで拭い、私に優しく微笑みかける。
「そうでしたのね。わたくしも、お会いできて嬉しいです」
「御父上のご葬儀でもお会いしたのだけれど、あなたはまだお小さかったわ。取り乱されているから、そっとしておいてとブリジットに言われて。それきりでしたわ。療養と聞いて、ずっと心配していましたの」
後ろで貴婦人たちが、目と目を見交わした。
「ダーシー夫人が、お気に召されたようですわね」
「羨ましいこと。ダーシー夫人のサロンに招かれたら、社交界の中心人物のあかしですもの」
ダーシー夫人は優しく、私の隣で、なおも親し気に話しかけてくる。
「これだけの楽曲を弾きこなせるのでしたら、他の芸術にもお詳しいのではなくて? 詩はいかがかしら」
もちろん私は、詩にも詳しい。
なぜならあの隙間風だらけのトレザの屋敷で、眠る時間を削ってでも、あらゆる書物に目を通していたからだ。
『できうる限り、どのような状況でも、知識と教養は、貪欲に得るのだ。万が一、なにも持てぬときがきても、記憶したものは、なくならないのだから』
私はあの、お父様の言葉を、ずっと忠実に守っていた。
「詩でしたら、ジョセフ・ダンが一番好きですわ」
私が言うと、ダーシー夫人の目が輝く。
「まあ素敵、ネオプラトニズムですわね! わたくしも好んでおりますのよ」
いつの間にか、私の周囲には輪ができていた。
「十四歳で、ジョセフ・ダンとは。随分と教養を身に着けておられる。大したものだ」
「うちの娘など、髪型とドレスにしか興味がなくて、困ったものですよ」
「それは問題ですわ。髪型などより、知的な会話を楽しめてこそ、上流階級に相応しいレディですもの」
なんだかんだと、ささやきが交わされる人の輪の背後に、こちらをうかがうブリジット、それにオリバーの姿が見える。
いずれも悪鬼のような顔をして、私を睨みつけていた。
が、オリバーは無理やりのように笑顔を作ったかと思うと、ずい、と輪から出てきて、こちらに近寄って来る。
「だ、駄目じゃないの、シャーリー。あなたはまだ、病み上がりなのだから、控室で休んだ方がいいわ」
「あら。わたくしはもうすっかり元気ですわ、オリバー」
私は微笑んで、明るく言った。
もう身寄りのない、後見人がどうとでもできる、八つの子供ではない。
社交界において、レイランド侯爵家のレディとして、私はすでに認知されたのだ。
「わたくしを、どこか遠くの田舎に閉じ込めたい理由でも、あるのかしら。そうでないなら、どうぞこちらへ来て、一緒にお話ししませんこと」
挑戦的に言うと、オリバーは怯んだ顔をした。




