第四章 緑野琴子はあきらめない 6
「おにいちゃんトイレ!」
唐突にそう叫んだ妹のせりなの台詞を、俺は驚いて言い返した。
「ト……トイレ?」
現在、ヴィヴィカはまたしてもクラスの男子たちとのコミュニケーションに励むため、俺とせりなとは離れて文化祭を楽しんでいる。
して、もう一人の妹は兄に困ったような、せがむような声を発ち、俺に便所の所在を訊いてくる。
初めて来た場所とあって、せりなは高校のトイレがどこにあるのかを知らないのだ。よって俺は彼女の手を取り、一緒に便所まで付いて行ってやることにした。
「そこで……待っててよね。……どっか行っちゃだめ、だからね……?」
「はいはい。漏れそうなんだろ? 早く行って来いよ」
「うん……」
俺は男子トイレと並んで設置されている、校舎階段脇のスペースへ妹を案内してやると、人だかりが通過していく廊下の壁にもたれ掛かり、せりなが用を済ませるのを待った。
「おにいちゃん……ちょっと来て……」
「は?」
とはいえ、そこは妹のせりなだ。
なんと妹は俺を女子トイレに招こうと言うのだ。
どうやら中に黒いG的なものを発見してしまったため、心の頼りとして兄に中まで付いて来てほしいと言うのだ。
「でも、さすがに中に入るのはなあ……」
「おねがい! せりな……あいつとまた鉢合わせたら、しんじゃう……!」
「でもなあ……」
「い、いいから……! も……漏れちゃうぅうっぅ……!」
「ええッ!? ……ったく、しょうがねえなあ」
万が一知り合いかなんかにこの光景を見られたらマズいと思ったものの、今この廊下で妹のか弱いメンタルに一生残るトラウマが刻まれるよりは良いかと思い、俺はせりなに手を引かれて付いて行った。
俺が変態かつ不審者の汚名をこれから三年近く背負うトラウマと、せりなが高校の廊下でおもらしをしてしまったという今後一生消えないトラウマを天秤にかけ、妹の名誉を守るために行動したのだ。
「どうやらGは見当たらないようだが……」
「……さっきはいたの! ま……待っててよね、おにいちゃん……!」
「あ、ああ」
普段おとなしげな妹がここまで声を張り上げるとは、それだけ尿意が限界に近いということなのだろう。
俺は女子トイレの個室に入り、ちょろちょろと音を立てて用を足す中学一年生の守り手として、女子トイレの中央に立っていた。
幸いなことに、俺とせりなの他には誰も人はいない。
……そりゃそうだ。もしも中に人がいたら俺だって入るのを拒んださ。
でもそこに――一人の女子生徒がこの女子トイレに入って来たんだ……。
「ゆうくん、清掃中の立て看板をトイレの前に置くのを忘れてるよ? 不審人物として扱われないためにも、この琴子ちゃんがゆうくんのことを守ってあげるね?」
「琴子……」
俺は中に入って来た女子に心臓がひゅんっ、とし、寿命が縮まる思いがしたが、その正体が他ならぬ幼馴染みと知って一安心した。
息を呑んだのち、俺は彼女の名を呼ぶ。
「あの、これは違くてだな、妹が……」
「大丈夫だいじょうぶ、全部廊下で見てたから。あたしがクラスの仕事が一段落してゆうくんに会いに行ってみたら、なんとゆうくんが女の子と一緒に女子トイレへ入って行くんだもん。琴子ちゃん中で秘密裏にどんなことがおこなわれているのかと冷やひやしたよ。なーんだ、ただ、せりなちゃんに付いて来てって言われただけだったんだね!」
「……そ、そういうことだ。中に黒いあいつがいるってせりなが言うもんだからな。俺はただそれに恐がるせりなに付いて来ただけってわけ。理解が早くて助かる。さすが琴子だ」
「でっしょー? 琴子ちゃんはゆうくんの未来のお嫁さんだからねっ! ゆうくんを理解してあげなくて、何が嫁か! 緑野琴子はゆうくんの嫁!」
「いつからお前が俺の嫁になったんだ?」
そう言いつつも俺は、いつも俺のことを理解してくれている幼馴染み、緑野琴子に感謝していた。
琴子は俺の嫁……ではないが、少なくとも俺の一番の理解者ではある。
俺は家族に言えないことも琴子に相談できるし、琴子のほうも家族にも言えない悩み事を俺に打ち明けてくれる。
それほどの関係。
俺はこいつに本当に救われている。
「おにいちゃん……おまたせ……」
ジャジャーッ、と水の流れる音がして、個室からせりなが出てくると、俺は若干肩身が狭かった空間から出られることに安堵した。
けれども瞬間、妹がトイレから出てくるシーンを緑野琴子は見逃さなかったのだ。
パシャリ。
そうしたカメラのシャッター音がなぜ聞こえたのかは、すぐにはわからなかった。
だがあまり間を置かずこの場所には俺と妹以外に琴子しかいなかったことに気づいて、俺は幼馴染みの顔を見る。
「琴子……?」
琴子は自分のケータイを構えていた。そうしてトイレでの記念撮影を終えると、満面の笑みでこう答えたのだ。
「ごめんねゆうくん。……あたしもう、手段は選んでいられないの」
「…………?」
どういう意味だろう。
というより、なぜ琴子は俺とせりなをシャッターフレームに収めたのだろう。
「どういうことだ、琴子?」
「ゆうくん、この写真を君の好きな人に見られたくなかったら、あたしと付き合わない? もちろん男女の関係になるってこと」
「…………?」
俺は頭が混乱していた。
そして琴子がなぜ女子トイレで二人並んで一緒にいる俺とせりなのワンシーンを撮影したのか、数秒間を置いて認識する。
「琴子……。まさか俺を脅すのか?」
正直軽蔑した。
己が恋のためにこの三週間、何でもしてきた琴子だが、俺は全て彼女の誘いを断ってきたのだ。
とはいえそれは今まで俺が琴子に好意を持っていたからこそ続けられたことで、まさしく琴子の恋は俺の一存によって崩壊せしものなのだ。
「脅すってわけじゃないけど、この写真をあの娘が見たら、彼女、どう思うかなー?」
「こいつ……ッ!」
琴子が「あの娘」と呼んでいるのは、間違いなくヴィヴィカのことだ。
俺の好きな人。
その相手を、琴子は否応なく気づいている。
俺が琴子に自分の好きな人を明言したことは一度もないが、それとない彼女の質問や俺の仕草から琴子はその事実を割り出したのだろう。
秘密を知られてはいけないストラテジーゲーム。
琴子はいま、俺と駆け引きしようと言うのだ。
「おにいちゃんと琴子さん……なに話してるの……?」
妹が俺の怒った顔を見てそう尋いてくる。
「なんでもないよ。ただこのビッチが本性をあらわしてきたってだけさ」
「……ふうーん。ねえおにいちゃん……はやく外に出ておいしいもの買いにいこ?」
「あ、ああ……」
妹のマイペースぶりに俺の怒りは鎮まっていったが、俺を写真を使って脅迫してきた琴子への嫌悪感までもが消滅したわけじゃない。
「頼むからその写真を消してくれ。学校の女子トイレに妹と二人でいることがアイツにバレたら、絶対に嫌われる。最悪、二度と口を利いてもらえなくなるかもしれない」
正直、早くこの場から逃げ出したいのだ。
しかし、その俺の行動を遮るかのように、琴子が女子トイレの出口付近に待ち構えているのだ。
あいつの目は真剣だ。
笑顔こそ浮かべてはいるが、ここで勝負を決めるつもりなのだ。
「そうでしょう、そうでしょう。この写真をあの娘に見せたら、きっとゆうくんは嫌われちゃうね? それが嫌なら、あたしの恋人になって?」
「……嫌だと言ったら?」
「頃合いを見計らって、この写真をあの娘に見せる」
「……このビッチめ」
「マッサージ券」といい今回の写真といい、琴子は確実に俺の恋の息の根を止めにきている。
――そう、俺とヴィヴィカの恋をだ。
なんて卑劣。
なんて邪道。
それでも琴子はあきらめなかった。
「どんなことをされても、俺はアイツとの恋をあきらめない。……たとえ、アイツから嫌われることになってもだ」
「ゆうくんらしいねえ。まっ、そこが好きなんだけど。だったら付き合うことは今はあきらめる。その代わり、あたしとデートしよっ?」
「……は? お前ほんとムチャクチャだな」
「むっふふーっ」
「だからなんで誇らしげ?」
せりなといい、琴子といい、どうして自分の振る舞いに謎の自信を持っているのか。
「これを見るがよい!」
琴子が手にしていたのは二枚のチケット。
――遊園地のフリーパスだった。