詩について 3
……ぼくは、詩は、感情だとも思っています。感情は、思考とつながり、思考は、記憶をつなげます。記憶は、歴史であり、歴史は記録です。……それならば、転じて言葉とは、地層であり、記憶であり、記録であり、根源は、感情だと思いますが、感情は、逆をたどれば記憶であり、逆であれば、器である身体よりも精神や心がしばしば重視され行動に移す、器よりも精神を行動基盤の上に置こうとする人は、(理想を持つ 人はだからこそ、自殺する)ただの記録である文字の音や綴り、意味や言語、演出に心である感情を見てしまう。思考は、記憶であり、記録であるから
だとするならば、人は、人であろうとする限りは、幻想を生きずにはいられぬのです。宗教も、娯楽も、倫理も、哲学も、あらゆる生き方に対する思想も文学も、他、様々な学問も、ただ息を為る行為からは、離れた場所にあるもの。だからこそ、詩は、幻想でもあるのかもしれない。
人の感情は、脳の中の電気信号でのやりとり、刺激され起こった部位の反応に過ぎず、蓄積された記憶は、個人のフィルターを通してみた記録に過ぎぬのに。ひどく精密で機械的なしくみ、反応による反射に過ぎぬのに。ただ、一つ問題があるとすれば、人は言葉で感覚を超える表情や表現を作り出すことは出来ない。言葉は、感覚を超えない。ここにひとつの奇妙な矛盾がある。それは、人は他人の言葉に感動することが出来る存在だということ、すべてをつまびらかにされないという事実のなかで、人は他人の言葉に感動し、心を動かし感覚を開く。理解出来ないというエラーが異なる視野を生み、そこから感覚が拡がり世界は、時折再構築される。つまりは、学ぶ。人は人から学び続ける。
ぼくは、学ぶということこそが、脳内のエラーであり、それは、再構築だと思考に置く。ある一面を覗き見れば、言葉とは、思考であり、それは、そのまま頭の中の状態であると言い換えることが出来るとぼくは思考する。言語とは言葉とは頭の中の図解である。理路整然か、エラーなのか、どちらにせよ、人格が出来上がるまでは、人は人という一個人という存在としては認められないだろう。意志決定に置いて、個という責任と自覚を持ち、人格を確立することが人という存在の大きな分かれ目だとぼくは思考する。人格が固まっていない存在は一個人ではないとぼくは思考に置く。
>>9 けれど、ぼくは、その問題を無意識にアプローチすることで自分をも他人として捉えることで踏み込もうとしてきた。……それは、詩を書き始めた13年前から少しも変わらない。
他人とは自身が目の前に見続けることができるもっとも近い鏡であって、それは他人であって、
ある意味、自身を映し出す境界にある存在だと考える。
同時にぼくは、自身に置いても、ある意味最も遠い他人と位置づける。
ぼくらは、他人を毎日日常の中で目にしながら、自身のことを目にする機会はどれほどのものだろうか。
ぼくらは、自身を知っていると思い込んでいるもしくは
他人から見た自分の虚像を演じているに過ぎないのではないか。
エピクテトスは説きました。
記憶しておきなさい。君はこの世界という演劇の一人の役者であると、君の役割はただひとつ与えられた役を見事演じること
と。
人は、皆全ての方が社会的な仮面と個人的な人格を対面する他者それぞれに変え続けながらいくつものペルソナを使い分けて生活をしています。それらは何も珍しいことではなく至極当然に自然に誰もが行っていることであり、普通のことです。
……ぼくはずっと脇役の人生が良いと願ってきたような気がします。ここでもいくつものそういった願いをのせた雑文を書きました。人生が演劇であるならば、そしてぼく自身が他人に何も影響を与えない影であれるならば、
どんなに素晴らしいだろうと願ってきたような気がします。
そう願ってしまうほど、影響を与える罪はおそろしいものだと思ってきたのです。
BWV 829 - Partita >>5 in G Major を聴きながら
人生が演劇であるならばよい。それ以前にぼくには器など必要がない。他人に伝わらない言葉など不要であり、ぼくには脳のみ備わっていればそれでよい。10歳の頃にそう思えてしまったぼくはそういったぼくの中身は今も全く変化がなく、ぼくの心の奥に残り続ける。
そもそも、人格とは性質とか性格とは何でしょうか。環境から形成されたものや、自らの思考がつくりあげたもの。関わった人々によって変化し続けるもの?
安定しない人格は一貫性のないそれは、1人格としては認められず、それは個としては存在を認められているとは言えない。ぼくはそういった考え方に変に頷いてしまう。そう、一定しないものは、いつまでも堺をフラフラする幽霊のようなもので、モヤのように病的でつかめない。
ぼくは、自らが息をしていることは認めても、それ以外のものを認めたいとはとても思えない。ぼくは未だに空洞であり、人になりきれないのだと思いたいのだと。
地にしっかりと足をつけ、踏みしめたいと思うのならば、きっとまだなにかが、きっとまだ足りないのです。
ぼくは、もし世界にぼくひとりが残されたとして、人という存在をはじめから知らなかったのなら、ぼくはそれなりに幸せに生きられたのではないかと思うことがあります。自らの想像した神を畏れて、万物を愛して、愛そうとして、原始世界のあり方のなかで、精神世界や感覚世界の中の幻想のままに日常を投影して生きる。ぼくは、宗教をそういったものだと思っていますし、そのような在り方がなにか間違っているとも思ってはいません。
人は幻想を生きる存在だと思っているからです。
誰かの視線を感じれば、あれこれ他者の思考を
考えようとするでしょう。
誰かの心無い言葉に傷ついては次から言われないように怯えようともするでしょう。
ぼくたちは、怯える心や驕る心や人を気遣う心や警戒する心や怒りや他様々なものをいくつも違う心の顔を胸に秘めて生活をし続けるしかない、感情豊かなそれを手放すことなど不可能なのだから。
ぼくらが人らしく幻想に生きる為に。
そして、答えなど存在しない
空虚で空洞でただ無であるという息をするという時間軸のなかで決して意味がないとは思いたくはないのです。
無意味など思いたくはないのです
。
それこそ、生きるために