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わたしは、きかんしゃ

作者: 尾関

 わたしの名前は、アビー。蒸気で走る機関車である。

 みんなが知っているように、機関車は、人間のように話したりすることはできない。多くの機関車がそうであるように、わたしもそんなありふれた機関車の一台である。

 イギリスのソドー島という場所へ行けば、機関車にも表情があり、他の機関車や人間達と会話ができるらしいが、今のところ、そのようなところへ行くつもりはない。

 なぜなら、わたしが話せなくとも、わたしの機関士が、わたしの考えていることや伝えたいことをわかってくれるからだ。

第一章 わたしは、きかんしゃ


 わたしの仕事は、山の頂上の駅とふもとの駅を結ぶ支線を行ったり来たりして、お客さんや荷物を運ぶこと。とりたてて有名なものはないし、それほど距離のある支線ではないので、特別にすごいことも起こらない。

 とはいえ、特別に不満があるわけでもなく、それはそれで、なかなか飽きない毎日があるものなのだ。

 たとえば、今朝もこんなことがあった。それは、わたしが駅でお客さんを乗せているときのことだった。荷物の積み込みも終わり、客車のドアが閉められる。車掌の合図を受け、いざ出発という瞬間、一人の男がホームに駆け込んできた。

 男は、手を広げて叫ぶ駅員を押し退け、今まさに動こうとしている客車のドアノブを引っぱった。

「ストーップ!」

 今叫んだのが、わたしの機関士だ。名前は、ハリス。彼がハンドルを回し、踏み出そうとしていたわたしの車輪に、ブレーキがかかった。

「危ないなぁ。」

 かまに石炭をくべていた助手も、手を止め、客車の方を見た。男は、駅員達の説得にも耳を貸さず、ドアノブを掴んだまま離さない。

「ちょっと行ってきます。」

 ハリスはそう言うと、機関室を降りて、その男と駅員達がもめている中へ入っていった。

「どうしたんですか?」

 ハリスが尋ねると、事情を説明しようとする駅員を押し退けて、その男がすごい剣幕で話し始めた。どうやら、列車に乗せろと言っているようだ。しかし、出発の合図はすでに出されているのだ。もう予定の発車時刻を過ぎてしまっているんだし、次の列車を待ってもらわないと。

 何?冗談じゃないって?

 次の列車まで一時間もあるから、なんだっていうんだ。そんなにこの列車に乗りたければ、一本前の列車に乗り遅れればよかったんだ。あんなふうにドアノブを掴まれたままでは、出発できないじゃないか。駅員さん達、早くその人を引き離して、ホームの奥へ連れていってくれないか。他のお客さんが待ちぼうけをくってしまうよ・・・。

 こほん、申し訳ない。ストーリーテラーとしては、事の成り行きをありのまま描写すべきなのだが、いかんせん、自分の物語であるために、時々、このように、個人的な感情がこもってしまうことがある。

 ふと、気が付くと、ハリスはすでにわたしの方へと歩いてきていた。彼が機関室に乗り込むと同時に、車掌の笛の音が聞こえてきた。

「出発進行!」

 わたしは一瞬後ろに目をやったが、ホームに男の姿はなかった。どうやら、客車に乗っているようだ。確かに、これで出発はできるけれど、でも・・・。


「今日は、やけに蒸気が多いなぁ。」

 走り出してしばらくして、助手が言った。かまの温度が高すぎる、と心配している。

「そういえば、さっきのお客さんは、結局、乗せてしまったのかい?」

 助手がハリスに尋ねた。蒸気圧の計器を見ながら、彼はその重そうな口を開いた。

「ええ、まあ。」

「しかし、それでは・・・。」

「もちろん、あまりいいことでないのはわかっています。あのお客さんのしたことは、危険で迷惑なことですから。ただ・・・。」

「ただ?」

「今は、規則を通すことよりも、定刻通りに向こうの駅にたどりつくことの方が、お客さん達にとっては大事だと思ったので。」

 ・・・。

「でも、時間を守って乗車してくれたお客さん達には悪いことをしました。」

ハリスはちらりと顔を上げると、再び口を開いた。

「怒りを感じるのも、無理はないよね。」

「いや、誰もそんな、怒ってはいないと思うが・・・。」

 ううん、違う。わたし、怒っていた。

 最後のは、わたしに言っていたんだ。

「あれ、かまの温度が、今度は急に、下がってきたぞ。」

 うん。だって、もう、わたし、怒っていないもの。

 ハリス、あんなこと、言うんだから。

 ずっと怒っていたら、わたしが悪者じゃない。

 ほんと、ずるいよ・・・。

 そのとき、ハリスが、わたしのハンドルをギュッと握ってきた。

「悔しいのもわかるよ。もちろん、君が間違っていたわけじゃないんだからね。さあ、力を貸してくれ。僕らは遅れを取り戻さなきゃいけないんだ。」

 もう、ハリスったら。しょうがないな。

 でも、ハリス、わたしなんかに話しかけるから、助手が気味悪がっているよ。

「あっ、また、温度が上がってきた。」

 さあ、少し速度を上げていくよ。これだから、人間と働いていると、疲れるよ。


 列車は、時間ぎりぎりで駅に着いた。わたしもまだまだ捨てたものじゃないな。これなら、あのお客さんも文句はないでしょう。

 あっ、噂をすれば、あの男だ。

 ドン!

 えっ!今、あの人、子どもにぶつからなかった?

 なのに、あの人、見向きもせずに走ってくる。

 子どもは?

 よかった。怪我はしていないみたい。

 でも・・・でも・・・。

 ウーシューッ!!

「うわっ!」

 わたしの蒸気が、ホームを走ってきた男を直撃した。

「何をするんだ!」

 男は、かんかんに怒っている。

 やっ、ちゃった・・・。

 男が機関室から降りてきたハリスに詰め寄る。

「すみません。お客さんがすごい勢いで走ってくるので、びっくりして、レバーを触ってしまったようです。」

 男はムッとしたけれど、ハリスは涼しい顔をしていた。

「この機関車、古いので、ちょっと触ると、蒸気が漏れちゃうんですよ。ほら、こんなふうに・・・。」

 コン!

 ハリスにボイラーを叩かれ、わたしは咄嗟に、シュッと蒸気を吐いた。男はびっくりして、一、二歩、後ずさりをする。

「ひどいときは、もっとすごいんですよ。きっと、もう少し強く叩けば・・・。」

 ハリスは再びボイラーを叩こうと、腕を振り上げた。男はよりいっそう驚いたような顔をすると・・・。

「わかった、わかった!もういい。これからは、気をつけたまえよ。」

 そう言って、逃げるように、ホームを後にした。後ろ姿に、濡れたズボンと靴から水滴が滴るのが見えて、わたしは思わず笑いがこみ上げてきた。しかし、隣で、ハリスが怖い顔をして、こちらを見ているのが見えたので、寸前で笑うのをやめた。といっても、わたしがどんな表情をしているのかは、わたし以外にはわからないのだけれどね。


 わたしは、あの人が許せなかった。本当は、もう二度と来んなって言ってやりたかった。けれど、わたしは言えない。だから、蒸気を吐いた。やった後で、少し後悔した。ハリスにくってかかるあの人を見て。わたしの本心が伝わらなくてよかったと思ったけれど、伝えられれば、もっとよかったのかも。

 でも、後で、ハリスは一言、「あのお客さんには、いい薬だ。」と言ってくれたのだった。

 いつも、ハリスが機関室に、もとい、そばにいてくれてよかった、と思う。自分を嫌いにならずにいられるから。嫌いになってしまうと、列車を重たく感じる。

 わたしも、彼にとって、そういう存在になれたらいいのだけれど。

 でも、それは、難しいかもしれない。だって、わたしは、機関車なのだから。



第二章 切符売り場のあの娘


 ハリスは、わたしの機関士。機関士とは、わたし達機関車を操縦し、走らせる人、つまり、運転士だ。

そして、機関士の隣には、助手がいる。助手こと、機関助手というのは、かまに石炭をくべるのが主な仕事だが、それに限らず、様々な面において、機関士をサポートする役目にあり、機関車にとっては、機関士と同じくらい、欠くことのできない存在といえる。

 しかしながら、わたしは彼らの名前すら知らない。ハリスと違って、助手の役には、毎日、違う人間が乗り込んでくるからだ。わたしみたいな時代遅れの機関車には乗りたくないのか、変わり者のハリスとは一緒に働きたくないのか。いずれにしても、わたし達は人気がないようだ。

 でも、そんな人ばかりではないことも、わたしは知っている。おそらく、ハリスも・・・。これは、そう思うに至ったときの話だ。

 それは、ある暑い夏の日のことだった。観光に値するようなものはほとんどないわたしの支線だが、夏になると、気持ちのよい郊外を求めて、少しは乗客が増える。とはいえ、列車の本数を増やすほどではないので、わたしはいつもより重たい客車を引いて、山の頂上とふもととを行き来することになる。

 ただでさえ暑い中、火がボウボウと燃えるかまの前で汗だくになるハリスと助手の若者。そして、乗客の詰まった客車をいつもの倍の力で引っぱるわたし。しかも、その日は早い時間帯の列車で、ぎりぎりに駅に入ってきた人達の乗車を待ったために、朝から遅れが生じていた。ようやく頂上の駅に着いたかと思うと、すでに次の列車の発車時刻になっていた。

「だめだ、水が足りない。自分が駅長に話してくるので、君は最小限の給水を済ませて、列車を駅まで連れてきてください。」

 ハリスはそう言って、機関室を降りていった。

 もし、このとき、次の出発の準備をするのがハリスの方だったら、あのトラブルは起こらなかったのかもしれない・・・。

 助手の運転で、わたしは給水塔のところにやって来た。助手がわたしの炭水車の水槽の蓋を開け、給水塔から伸びたホースを差し込む。

 ガシャン!

 今日の助手の人は、若くて元気はいいが、その分、所作が乱雑だ。すでに二回も、わたしの車体に傷をつけている。

「おーい。」

 彼が給水の栓を開けようとしたとき、誰かが声をかけてきた。助手との会話の内容から察するに、その人はどうやら本線を走る機関車の機関士らしい。

「この機関車・・・ってことは、彼かい?」

 話しかけてきた男が、わたしを見て、言った。

「ええ、機関士はハリスです。ついてませんよ。」

 むむっ!

「変わり者で、とっつきにくいという噂は聞いていましたが、確かに、無愛想で無口だから、息が詰まりますよ。そのくせ、たまに、ぼそぼそ独り言言ってるから、気味悪くて。」

 やはり、ハリスは、他の鉄道員達からはあまり良く思われていないらしい。前々から、わかってはいたことだが・・・。

 といっても、この助手の若者だって、おしゃべりに夢中で、仕事を忘れてしまっている。乗客を待たせているから、給水は必要な分だけでいいと、ハリスが言っていたのに、水はほぼ満タンのところまで来ている。

 まったく・・・。

 ポッ!

 至近距離で突然汽笛を鳴らされ、飛び上がる二人。

「ああ、もう行かないと。」

 助手は男と別れ、客車をつないで、わたしを駅のホームまで走らせた。

 こんなやつらに何を言われたって、気にしない。きっと、ハリスなら、そう考える。でも、わたしは・・・。

 ホームで乗客と一緒に待っていたハリスは、わたしを見るなり、一言、

「何か怒っているの?」

 と。さすがだと思った。


 出発を遅らせて走り出した列車も、折り返して再び頂上の駅に戻ってくる頃には、定刻に間に合わせることができていた。しかし、その分だけ、わたし達はへとへとになっていた。この後が昼休みで、本当によかった。

 おしゃべりな助手のおかげで、タンクの水はまだ十分にあったが、給水塔のある待避線でひと休みすることができ、わたしはホッとした。そんなわたしを見て、ハリスも安心した様子で昼食をとり始めた。

 わたしの大きなボイラーが、彼に涼しい日陰を提供している。そこへ、駅舎の方から誰かが歩いてくるのが見えた。

 切符売り場の娘だ。時々、乗客を案内したり、荷物係を手伝っていたりするので、ホームで見かけることがある。髪は短いけれど、あの肌の白さに、しなやかで細い身体の線からして、女性だとすぐにわかる。

 彼女は、ハリスの目の前にやって来ると、にっこりしながら、透明な瓶に詰められた飲みものを差し出した。

「どうぞ。駅長からの差し入れです。」

 わたしの隣で木箱に座る彼は、立ち上がり、差し出された飲みものに手を伸ばした。

「ありがとうございます。」

「暑いのに、大変ですね。」

 彼女は、結露した飲みものの瓶のように、額や首筋に水滴を浮かべる彼を見ながら、言った。

「まあ、仕事ですから。」

 笑顔で話しかけてくる彼女に対し、彼は瓶を受け取ると、すぐにまた、木箱に腰かけてしまった。彼の鼻より上は、帽子のつばに隠れて見えない。そんな彼に、彼女は上げていた口角を戻し、手に持っていたもう一本の瓶を渡しに、少し離れたところに座る助手の方へと歩き去っていった。

 ハリスったら、せっかくあんな可愛らしい娘が話しかけてきてくれたっていうのに。

 まあ、あの助手の若者みたいに、向こうが去ろうとしているのに強引に話しかけ続けるのもどうかと思うけど。

 少しは愛想よくしてみればいいのに。話しかけられて、嬉しかったんでしょう。

 ハリスがわたしのことをわかってくれるように、わたしだって、少しはわかっているつもり、あなたのこと。あなたがさっきみたいにあまりしゃべらないのは、うまくおしゃべりできないから。おしゃべりするのが嫌いなわけじゃない。そして、人とあまり関わろうとしないのも・・・きっと、同じ理由なんでしょう。

 怖いのはわかるよ。今まで関わってきた人、みんなといい思い出があるわけじゃないものね。でも、それでも・・・。


 そんなことを考えているうちに、昼休みは終わってしまった。

 そのもやもやした気持ちを消せなかったせいだろうか。その後の折り返し途中、上り坂にて、急に車輪に力が入らなくなった。助手が大急ぎで石炭を放り込んだが、かまの火はなかなか大きくならず、列車の速度はどんどん落ちていった。

 ハリスの機転で、なんとか、電話のある次の駅まで走ることができ、傷はそれ以上広がらずに済んだが、別の機関車に仕事をとられ、正直、わたしは悔しかった。でも、そんなわたしの気持ちも、ハリスはわかっていた。

「せっかく頑張って遅れを取り戻したんだもんね。でも、すまない。故障の原因がはっきりしない中で、終点を目指すという判断はできなかったんだ。」

 おかげで、少し冷静になれた。というか、このときはかまの火が消えてしまって、本当に車体全体が冷えてしまっていたのだが。

 その後、ディーゼル機関車がやって来て、わたしを工場まで送ってくれた。故障の原因は、なんのことはない、かまの底に穴が空いていただけだった。その穴のせいで、火の点いた石炭が下にこぼれ落ち、十分な熱を得られなかったというわけだ。

 修理自体はすぐに終わり、帰りは自力で走っていけた。ふもとの駅まで戻ってきたとき、ハリスはわたしを待避線に止めた。ちょうど、最終列車が到着したところだったのだ。

 時計を確認したが、定刻に間に合っている。昼間、わたしの故障のせいで遅れが出ていたはずなのだが、代わりの機関車がそれを取り戻してくれたようだ。乗客達もみな笑顔で、本線の列車へと乗り換えていく。安心したような、悔しいような・・・。

 すると、その降りてきた乗客の一人が、駅の外れにいるわたし達に気付いて、駆け寄ってきた。

 昼間飲みものを持ってきてくれた彼女だ。駅員の制服から私服に着替えているところを見ると、家に帰るところのようだ。

「お疲れ様です。今日は、大変でしたね。」

 暗がりの中、外灯の明かりの下で見ると、改めて、白くてきれいな肌をしていることに、目が惹かれる。機関車でありながらも、同性として、憧れてしまう。

「ええ、まあ。でも、自分の整備不良が原因ですから。」

 ハリスがわたしの車体をさすりながら、言った。もとより身長が高めの彼では、平均的な女性の背丈をしている彼女に対し、今回は帽子のつばで視線を遮るという手段がとれず、どぎまぎしているのが触れられた手を通じて伝わってきた。

「そう、だったんですか?」

 一方、彼の自責の言葉に、不意にわたしを見上げてきた彼女の顔からは、笑みが消えていた。

 しかし・・・。

「でも、もう大丈夫みたいですね。よかった。」

 彼女は、いつも通り蒸気を吐けるようになったわたしを見て、再び笑顔を見せた。臆病にも、彼女から視線を逸らし、わたしの車輪を覗きこんでいた彼でさえも、その言葉と笑顔に、思わず、視線を戻していた。

「・・・それじゃあ、お先に失礼します。」

 会話の題材が尽きたことで、彼女は向きを変えて帰ろうとした。すると・・・。

「あ、あの・・・。」

 いつもは聞かない彼の落ち着きを欠いた声が飛んできた。

「はい?」

 彼女は振り返り、彼を見た。

「・・・お疲れ様でした。」

「はい、お疲れさまでした。明日もまた頑張りましょう。」

 そう言って、彼女は歩き去っていった。

 意外なことの連続だったが、何より、最後は彼女の笑顔に引っぱられたかのように、彼の顔が少しばかり和らいだ表情を見せたことに驚かされた。

 そういえば、ハリスの笑顔って、あんまり見たことなかったなあ。

 そう思ったら、不思議と、彼女の笑顔に不安を覚えるようになった。彼と仲良くしてくれる人ができて、それはわたしにとって喜ばしいことのはずなのに・・・。



第三章 彼女との出会い


 わたしの名前は、アビー。実は、この“アビー”という名前は、他の鉄道員はもちろん、ハリスも知らない。なぜなら、わたしが勝手に自分でつけた名前だからだ。

 わたし達機関車の中には、世間で認められた名前を持つものもいるが、わたしにはそれが与えられなかった。名前の代わりに、他の機関車と区別するための番号はあるが、それも忘れてしまうぐらい、近年使った覚えがない。なにしろ、この支線を走るのはわたししかいないのだから。改めて番号で呼ばなくとも、この支線を走る機関車といえば、わたしにたどりつくのだ。

 とはいえ、名前もないよりはあった方がいい。こうして、わたしの話を読んでくれているあなたにも、より、わたしの存在を感じてもらえるような気がするし。なにより、自称ながら、名前があるということは、わたしがこうして、この世に存在しているということの証になっているのだから。

 だから、本当は、名前自体は何でもよかったのだ。実際、“アビー”という名前も、確か、駅だか操車場だかで人々の会話から耳にした人の名前の中で一番聞こえのよいものを選んだだけで、特別に意味があったわけではない。

 でも、今は、この名前にしてよかったと思っている。なぜなら、“アビー”という名前が女の子につけられる名前だからである。この話になると、わたしはある人物と出会ったときのことを思い出す。


 その当時は、男とか女とか、性別というものがあるということさえ知らず、自分がどちらかなんて、考えもしなかった。いや、でも、むしろ、それが普通なのだろう。わたしは機関車なのだから。

 でも、あるとき、ハリスが、人間には男と女があること、生まれた時点で身体に特徴があり、男か女かほぼ決まっていることなどを教えてくれた。それ以降、わたしは駅や構内にいる人達に目を向けるようになった。すると、なるほど、男と女では、服装や顔立ち、話し方などにおいて、それぞれが共通点を持っていることがわかり、それにより、両者を見分けることができるようになっていた。彼女との出会いは、ちょうど、それからまもなくのことであった。

 その年の冬は特に寒く、質の悪い風邪が流行していた。ハリスも例に漏れず体調を崩していたようだが、薬で症状を抑え、栄養と水分を補給しつつ、機関室でハンドルを握っていた。一方、助手を担当する人達の間でも、風邪で体調を崩し、欠勤する者が続出していた。同じ人が二日三日連続で乗り込んでくるということも珍しくなかった。

 そんなある日のこと。朝早く、いつものように助手と思しき人物がハリスと共に機関庫に現れたのだが、その人物が今日初めて一緒に働く人だということはすぐにわかった。すらりとした長身に、ミディアムロングの髪を後ろで結び、濃い目のアイラインでぱっちりした瞳が目立つ。女性の助手が来たことは今までに一度もなかったからだ。

 ハリスの指示で準備が進められ、程なくして、わたしは客車をつないで走り出していた。最初こそもたつくことも多かったが、その新顔の助手が一生懸命やってくれていることはすぐに伝わってきた。それに、彼女はよく気のつく性格のようで、駅に着くたびに機関室内の床を掃き掃除し、かまの下もきれいにしてくれた。おかげで、心做しか蒸気の出もよく、わたし達は快適に午前中の旅を終わらせることができた。

 彼女が客車との連結を解き、機関室に戻ってくると、ハリスが言った。

「駅長に呼ばれました。すみませんが、代わりに機関車を待避線に連れていってもらえませんか?」

「ええ、いいですよ。」

 彼女の返事を聞くと、ハリスは機関室を降り、駅舎の中へと消えていった。彼女が操縦桿を握り、わたしを給水塔のある待避線へ連れていってくれた。最初に違和感を感じたのは、このときだった。

 ギュッ!

 レバーに触れた彼女の手が思っていたより大きくて硬かったのだ。

 以前切符売り場のあの娘がわたしに触れたときには、手の皮膚がとてもやわらかいのを感じた。ハリスを始め、いつも男の人しか乗ってこないので、これが女の人の手なのだと驚いたのを覚えている。

 しかし、こちらの彼女のそれは、どちらかと言うと、ハリスと近いものがあるように感じられた。

 厚手のグローブをはめていたからだろうか。小さいと思っていた手が、バルブのつまみをしっかりと片手で掴めるほど、大きかったからかもしれない。

 だが、ここで違和感を抱いたことを悟られては、折角よくしてくれている彼女に失礼になると思い、わたしは努めて冷静に振る舞った。

 とはいえ、一度気になってしまうと簡単に無視できなくなってしまうのが、わたしの弱いところだ。給水し、待避線で休んでいる間、わたしは、隣でハリスと昼食をとる彼女の方にずっと注目を注いでいた。

「やっぱり、外はまだ寒いですね。」

 さっきまでかまの前で額に汗を浮かべていた彼女らも、屋外での昼食では寒さを感じているようだ。

「ハリスさん、そのお弁当、手作りですか?」

「ええ、まあ。味は自分好みなんですが、その分、彩りが――」

 彼女の問いかけに対し、ハリスはいつもよりは慣れた様子で受け答えをしていた。どうやら、以前から面識があるようだ。

 出発前の準備中や機関室の中ではハリスの指示で黙々と仕事をこなしていた彼女も、素はおしゃべりでよく笑う人だったようだ。明るく話すことが功を奏してと言うべきか、意図してなのかもしれないが、地声が若干低いこともあまり目立たってはいなかった。

 と言っても、先程から彼女のことが気になり始めていたわたしの頭には、ある疑問が浮かんでいた。

“彼女は本当に彼女なのだろうか?”

 我ながらこの疑問を抱いたこと自体を不思議に思うのだが、今はこの疑問こそがわたしの現在感じている違和感を的確に表していると思った。

 そのうちに昼休みが終わり、わたし達は午後一番の列車を引いて、丘を下っていった。ハリスの調子がおかしくなってきたのは、その折り返し列車を引いて、丘を上っていたときのことだった。

 苦しそうに咳きこむようになり、鼻をかむ回数が極端に多くなった。

「大丈夫ですか?」

 顔色の変化を見て、彼女も心配そうだ。

「すみません。大丈夫で・・・。」

 心配無用と手を振るハリスだったが、言葉の方は咳がひどくて続けられなくなっていた。

 なんとか頂上の駅までたどりつくと、彼女はハリスを座らせ、客車との連結を外し、わたしを給水塔の前まで走らせた。

「ハリスさん、お昼ごはんの後、薬、飲みましたか?」

「いえ、だいぶ、症状が治まってきたので・・・。」

 すると、目の前に美味しそうなスコーンが差し出された。

「とりあえず、これ食べて、薬を飲んでください。」

「これは・・・?」

「三時のおやつにと思って、作ってきたんですけど。いいから、食べてください。あっ、私、お水持ってきますね。」

「いや、お茶がありますから。」

「薬は水で飲んだ方がいいんですよ。」

 そう言って、彼女は駅舎の方へ駆けていった。

「君は案外目敏いから、もう気になっているかもしれないね。」

 彼女の後ろ姿を眺めていたわたしに、ハリスがかまの前で座ったまま、話しかけてきた。

「彼女はオリヴィア。本当の名前はオリバー。彼女は男性だ。」

 ん?

 さっきの疑問の答えとしてはしっくり来たが、このときまだ知識の乏しかったわたしには、ハリスの言ったことがすぐには呑み込めなかった。

「以前、君に性別の話をしたことがあったね。人間には男と女があって、生まれた時点ですでにそれは決まっている、と。もしかしたら、少し説明が足りなかったかもしれない。人間はね、身体で性別がはっきりしていても、心の中もそれと同じとは限らないんだ。」

 もう姿は見えなくなっていたが、彼女が消えていった駅舎の裏口を見つめながら、ハリスは続けた。

「彼女は男性に生まれたけれど、昔から女性になりたかったそうだ。それは今まで嫌な思いもいっぱいしたみたいだけど、それでも、女性として生きたいという思いがあって、彼女は今、こうしてここにいる。」

 それから、ハリスは二度ほど咳き込むと、さらに声を細めて言った。

「でも、この話をするのはここだけにしよう。今は君の違和感を解消するために話をさせてもらったけれど、彼女が男性だということはほとんどの人は知らない。それが彼女の望みだからね。僕も他の人には言わないという約束で以前に教えてもらった。実際、この手のことについては、あまり理解のない人も多いんだ。でも、彼女は、仕事は真面目だし、ああいうふうに細かいところにも心遣いのある人だ。肝心なのは、そこだ。君もそう思うだろう?」

 そこへ、彼女が戻ってきた。飲みやすいように、少しお湯を混ぜたコップを持って。

 薬を飲んだおかげで、ハリスの症状は落ち着き、その日は最終まで無事に列車を走らせることができた。助手の彼女は帰り際、わたしに、

「素敵な機関車ね。」

 と言ってくれた。


 気候の変化とともに、ハリスの風邪はすっかり良くなり、病欠していた助手達も復帰し始めた。彼女とはあれ以来会っていない。ハリスの話では、時々駅舎の中などで会うらしく、元気にやっているとのことだ。

 思えば、彼女と出会ってからだった、わたしが自分を女と思うようになったのは。

 男か女か、生まれた時点で与えられるものが全てならば、わたしには自分がどちらかなんて考える余地はないと思っていた。

 けれど、もし、彼女のように心の中でそれとは違う道を選ぶことが許されるならば、わたしも自分の好きな方になれるのかもしれない。

 明確に、今日からわたしは――と決めたわけではないが、自分を女と意識すると、とてもしっくり来たし、ちょっと嬉しくも感じられた。特に、ハリスと一緒にいるときは。

 彼を思うと、女でありたいと思う。彼のことが好きだから、女になりたいと思うのか、わたしが女だから、彼に惹かれるのか。はっきりしたことはわからない。だから、今後、変わってしまうこともあるかもしれない。

 でも、はっきりさせなくていいとも思う。なににしても、今あるこの気持ちがわたしの気持ちなのだから。

 ハリスのことを好きなのも、わたしが自分を女だと思うのも。きれいな女の子を見ると、憧れと同時に、嫉妬の情を抱くのも、全て・・・。



第四章 一番の仕返し


 わたしには、心がある。だから、女性になりたいと思うし、ハリスを好きだという想いも持っている。

けれど、心があるというのも、ときには考えものだ。心があるから、悲しい思いもするし、悔しい思いもする。ときには、コントロールできない感情から、間違いを犯し、すぐに後悔して、胸を締め付けられることになる・・・。


「今日は、お役所の人達が視察に来る。」

 普段はきれいにクリーニングした制服が汚れるのを嫌って、滅多にわたしの前には姿を現さない頂上の駅の駅長が言った。もちろん、わたしにではなく、わたしの前に立つ機関士のハリスに。

「この駅を見にだ。そのために、行きはお前さんの列車に乗る。くれぐれも粗相のないようにな。機関車をぴかぴかに磨いておけ。」

 駅長はそう言うと、もったいぶった歩き方で駅舎へと戻っていった。普段は、水がもったいないだの、無駄な労力だのと言って、わたしがきれいにしてもらっていると、嫌な顔をするくせに・・・。

「さて、せっかく、駅長からのお許しが出たんだ。きれいにするとしよう。」

 布切れを持ったハリスが言った。

 でも、特別なことは何もない。ハリスはいつも通り、時間の許す限り、わたしの車体を磨き、それから、車輪に油をさしてくれた。

 ああ、古いピストンには、これが一番だ。

ハリスはわたしに何が必要なのか、ちゃんとわかってくれている。わたしは、幸せな機関車だ。

 やがて、始発の時刻がやって来て、わたし達はいつもの行ったり来たりを始める。時計が九時を回った頃、わたしがふもとの連絡駅に来ると、ホームにふもとの駅の駅長と黒いシルクハットを被った男の人達数人が立っていた。

 ああ、これが今朝、頂上の駅の駅長が言っていたお役所の人達か。

 次の列車の準備が整うまで、ふもとの駅の駅長はずっと彼らの相手に付きっ切りになっていた。頂上の駅の駅長がわざわざ早朝、機関庫にやって来たことも併せて考えると、お役人というのは、よほど偉いのだろう。

 一方、ハリスの方は、向こうの様子を気にしつつも、出発の準備に追われていた。まあ、ハリスは愛想のいい方じゃないから、こちらにいる方がいいのかもしれないね。

 すると、お役人の一人が一行を離れて、こちらに歩いてきた。

「やあ、君達か。」

 油をさし終え、機関室に戻ろうとしていたハリスも、その人物に気付き、足を止めた。

 ああ、思い出した。以前、発車寸前で駅に入ってきて、無理やり列車に乗りこもうとした男だ。それに加えて、ホームで他のお客さんを突き飛ばしたから、わたしが彼に向かって蒸気を・・・。

「ああ、これはこれは。」

 ハリスも彼のことを覚えていたようで、彼と対面したハリスの表情は、心做しか、引きつっているようだった。

「あのときは大変失礼を致しました。」

「いやいや。覚えていてくれて、嬉しいよ。僕にとっても、あのときのことは忘れられないことだからね。」

 終始笑顔の彼だったが、その一瞬だけは、目に敵意が感じられた。

「今日も、君と、君の機関車の世話になるからね。よろしく頼むよ。僕は、今日、ここに来るのを楽しみにしていたんだ。」

 彼はそう言って、ハリスの肩をポンと叩くと、他のお役人達と共に、客車へと乗り込んでいった。

「嫌なお客が来たものだね。」

 ハリスがわたしに向かって、呟いた。

 やっぱり、ハリスもあの人に何か嫌な印象を受けたみたいだ。

「だが、来てしまったものはしょうがない。とにかく、僕らの仕事は、頂上の駅へ乗せていくところまでだ。そう悪いことは起きないよ。」

 だが、今回ばかりは、それは間違いだった。

 いつもはいないお客を乗せたせいだろうか、客車はいつもより重く感じられ、わたしは息が切れてしまった。その結果、列車が頂上の駅に到着したのは、定刻より十分遅れてのことだった。これが不運の始まりである。

 列車を降りたお役人達は、頂上の駅の駅長の案内で、駅舎を見て、それから、操車場を見てまわっていたのだが、このとき、わたしがそのそばで次の発車までの待ち時間を過ごさなければならなかったことも、不運なことだったと言えよう。先ほどの彼は、駅長や他のお役人達の会話を聞きながら、時折メモをとり、黙って、一行の一番後ろについて歩いていた。ところが、いざ、わたしの近くまで来ると、いきなり、彼は前へ踊り出て、話し始めた。まるで、わたしやハリスに聞かせんとばかりに。

 その内容は、・・・思い出すのも嫌なものだった。石炭と水を補給するのに一体どれほどの時間がかかるのかとか、機関車一台の為に転車台を設置しなければならないというのは不経済ではないのかなど、批判ともとれる質問が続き、先ほどの走りで遅れを出したことも蒸し返された。そして、最後に、彼はわたしを指さして・・・。


「お払い箱にすべき、か・・・。」

 やはり、わたしのそばで次の出発の準備をしていたハリスにも、彼の言葉は聞こえていたようだ。

「気にしなくていい。いくら、彼がお役人でも、君をすぐさまお払い箱になんてできるわけないんだから。」

 ハリスはそう言って、励ましてくれた。次の列車の発車時刻も迫っていたので、そのときは、わたしもそれ以上、このことについて考えることはしなかった。

 怒りがこみ上げてきたのは、夜、機関庫で一人になってからだった。


 なんで、あいつにあんなこと言われなきゃいけないんだろう。列車の発車時刻も守らない、あんな非常識なやつに。

 わたしだって、毎日休まず、もう何年もずっと、一人でこの支線のダイヤを守ってきたのに。そりゃあ、いつもいつも定刻通りに走れていたわけじゃないし、故障して、他の機関車に代わってもらったこともあるけれど。

 でも、わたしはずっと頑張ってきたんだ。不真面目な助手がよこされても、理不尽な文句を乗客に言われても、真夜中に急遽臨時列車を引くことになっても・・・。ハリスと一緒になんとか耐えて、こなしてきたっていうのに。

 わたしはかなり頑張ってる方だと思っていたけれど・・・。

 自己満足、だったのかな、全部・・・。


 夜に一人で考え事はしない方がいいと昔、誰かが言っていたが、その通りだ。その夜はほとんど眠れなかった。そして、翌朝・・・。

「一体、どうしたというんだ?」

「わかりません。夜明け前から火を起こしているのですが、蒸気が全く上がらないんです、駅長さん。まるで、機関車が動くのを嫌がっているようで・・・。」

「そんな馬鹿なことがあるものか。また、どこか故障でもしているんじゃないのか。」

「いえ、どこもおかしいところはないんです。火は十分燃えていますし、水もちゃんと入っているのですが。」

「では、ハリスを呼べ。あいつが昨日変なところをいじって、機械を駄目にしたのかもしれん。」

 ・・・。


「おはようございます。」

「おい、ハリス。お前さんの機関車がどうしても蒸気を上げん。もう三十分もしたら、一番列車を出発させなければならんというのに。何とかするんだ。」

「わかりました。では、もう一度、ひと通り調べてみましょう。」


 ・・・そんなことしても、無駄だよ、ハリス。わたし、もう疲れちゃった。さっきだって聞いたでしょう、駅長のあの傲慢なものの言いよう。

 そりゃあ、こんな時代遅れの蒸気機関車、使ってもらっているだけ、ありがたいと思わないといけないんだろうけど・・・。

 こんな報われない日々がこれからも続くと思うと、ありがたがってまで働きたいとは、わたしには思えないんだ。


「もういい!」

 ハリスや作業員達がみんなで見てまわっても、一向に蒸気の上がる気配がないことに業を煮やし、とうとう、駅長は機関庫から出ていってしまった。ハリスと作業員達も、駅長のそのご立腹な様子に驚きつつ、彼に続いて、機関庫を出ていった。

 辺りは途端に静かになった。

 やがて、ハリスだけが一人、戻ってきた。

「あと五分待って、蒸気が上がらなければ、別の機関車を手配するそうだ。」

 正面に立ち、わたしの顔を見上げて、ハリスは言った。

「故障でも燃料切れでもない。君が意図して動こうとしていないんだ。昨日、あの人が言っていたことを気にしているのかい?」

 やっぱり、ハリスはすごいな。わたしの考えていること、お見通しだもん。それで、またいつもみたいに説得されて、わたしが昨日の夜思い悩んでたこととか、今のこの気持ちやなんか、みんな、きっとまた、うやむやになっちゃうんだ。

 だけど、今回は・・・今回だけは・・・。

「でも、悪いけど、僕は仕事をするよ、君が動かなくても。」

 ・・・。

「だって、あの人に言われたことぐらいで、二人揃って仕事を放棄なんかしたら、負けたことになるからね。もちろん、いつもいつも勝たなきゃいけないわけじゃないけれど、もったいないよ、こんなことぐらいで。」

 ・・・。

「わかっているよ。理不尽な思いをしてきたのは、君だけじゃないからね。だけど、いや、だから、僕はこう考えることにしている。ああいう人達への一番の仕返しは、彼らの否定した僕らが、問題なく働けているところを見せつけてやることなんだって。」

 ・・・っ。

「もちろん、君にそれを強制するつもりはない。ただ、君がこれまで頑張ってきたのを、彼みたいな人間なんかに邪魔させないでほしい。」

 ・・・。

「さて、五分経ってしまったかな。」

 コツ、コツ・・・。

 普段ならばきにならない彼の靴音が響く。

 ま、待って!

 シューッ!

 わたしのシリンダーから蒸気が噴き出した。ハリスが振り返って、わたしを見る。それから、彼は、優しい笑顔をつくってみせてくれた。いつもの笑顔だ。


 それからは嵐のように支度が行なわれ、数分後には、わたしは客車を引いて、いつもの支線を走っていた。

 走行中、彼は一言も発しなかった。でも、ハンドルをしっかり握るその手からは、こんなわたしを励まそうとしているのがひしひしと伝わってきた。

 こうやって片意地張って生きているとさ、あるんだよね、たまに。人の想いが身に染みるときが。それで心が痛むと、あっ、わたしにも人の心があるんだな、って感じるんだ。



第五章 わたし達の行方


 わたし達、機関車は、石炭を燃やし、その熱で水を沸騰させ、蒸気をつくり出す。そして、その蒸気の圧力、つまり、ものを押す力によって、ピストンを動かす。ピストンが車輪を回すので、わたし達は走ることができるというわけだ。

 ちなみに、ピストンで動く車輪のことを“動輪”というのだけれど、この動輪が大きい方が、スピードを出しやすい。だから、動輪の大きい機関車は、旅客列車を任される。逆に、動輪の小さい機関車は、パワーがあり、重たい貨物列車を担当することが多い。

 わたしは、どちらかといえば、動輪が大きい方なので、客車を引く方が向いているといえる。実際、この支線に来る以前の仕事場でも、引いていたのは主に旅客列車だった。

 なぜ、急に改めて、こんな話をしたかって?

 それは、今まで、わたしが自分の物語を話してきたのと、何ら理由は変わらない。自分のことを理解してもらいたいからだ。そうして、自分という存在が受け入れられるものなのか、そうでないのかを確認する。みんな、多かれ少なかれ、心のどこかでしていることだと思うけど。

 それに、今まで、さも当たり前のように、蒸気機関車であるわたしの話をしてきちゃったけれど、よく知らない人がいたらいけないと思って。今時は、機関車、イコール、蒸気機関車とはいえないみたいだから。


 その日も、夜明け前から、作業員達が来て、出発前の準備をしていた。かまに火が入れられ、わたしはいい気持ちで微睡んでいた。すると・・・。

「あれ、ハリスさん?」

 出口付近にいた作業員の一人が言った。

わたしは“おや、ハリスが来るにはまだ早いはずだが”’と思い、片方の目を開いた。でも、目の前で作業員一人ひとりに挨拶をしていたのは、確かに、わたしの機関士、ハリスだった。

「今日はえらくお早いご出勤ですね。」

「いえ、実は昨日、ちょっと夜勤を交代しまして。貨物列車を運転して、今、帰ってきたところなんです。だから、今日は午前中休むので、その引き継ぎに。」

 ハリスはそう言うと、機関室に上って、作業を始め、それが済むと・・・。

「あとは、代わりの機関士が来て、やってくれるから、しっかりね。」

 そう言って、機関庫を出ていった。

 引き継ぎなんて言ってたけど、本当はわたしに伝えに来てくれたんだ。だって、機関室に上ってきても、特に何かしてたわけじゃないもの。

 と、そんなことを思いながら、窓の外に目をやると、まだ、そこには彼の姿が見えた。さっきはいつもと変わらない様子だったけれど、やはり、徹夜明けで疲れているのだろう。普段から猫背気味だが、彼の背中はいつもよりさらに丸くなっていた。ふいに、彼がぐーっと伸びをした。

 ふーん、やっぱり、結構大きいんだなぁ。筋肉質ではないけれど、肩幅もいくらかあるし・・・。

 ちょっと、かっこいいな、と思ってしまった。

 そこへ、スカート姿にショートヘアの女性が現れた。あれは、切符売り場のあの娘だ。あの日以来、ハリスとはちょっと親しくしているみたいだけれど。

 窓からは、二人が楽しそうに話している様子が見えていた。といっても、未だ、彼女と話しているときのハリスの、そのつくり笑顔で固めた表情からは、若干の緊張が見受けられる。

 でも、ハリスが、お客さんでも上司でもない人につくり笑顔をしているってことは、その人に好意を持っているってことだよね。ハリスが特にどうとも思っていない人に、あんなに笑顔を見せるはずがない。わたしにだって、そうそう見せてくれないっていうのに・・・。

 そのとき、急にまた、わたしの心を、不安のようなものが襲ってきた。ハリスが彼女と話して、初めて浮かべた笑顔を見たときと同じように。

 二人はそのまま駅舎の建物の中へと消えていった。

 わたしには入り込めない彼らの世界。いくら、わたしが自分を女だと思っても、それは、所詮、ただの自己満足。

 ハリスは人で、わたしは機関車。人間の男女が思い描けるような未来が待っていないことぐらい、わかってる。

 それなら、わたしが彼のことを好きでいる意味って何なのだろう?

 ただ、切なくてみじめな思いをするだけ?

 きっと、これから、もっと、それを思い知らされるんだ。

 わかってる。わかってた、つもりなんだけれど・・・。


「出発進行!」

 悩みごとがあっても、仕事はしなければならない。“心が折れそうだから”なんて理由で休んだりしたら、この間みたく、ハリスに何と言われるか、わかったもんじゃないし。

 でも、仕事があって、よかった。少しは、気が紛れてきたみたい。

 午前中最後の列車を引いて、頂上の駅に到着すると、客車が切り離され、わたしは操車場に連れていかれた。

 次の列車が出るのは一時間後。機関士達にとっては、この待ち時間がお昼休みとなる。わたしも、ここで石炭と水を補給する。

 炭水車が重くなるにつれて、さっきまで心にかかっていた靄のようなものが、少しは晴れてきた。炭水車の水槽がいっぱいになる頃には、ハリスも到着し、代わりの機関士と交代した。ぼちぼち客車をホームに連れていこうと思っていると、助手が駅舎から駆けてきた。

「何かあったんですか?」

「ああ。私も今聞いたところなんだが、本線で急行列車を引く予定のディーゼル機関車が出発直前に故障したらしいんだ。とりあえず、別の機関車が急行を引いて出発したそうなんだが、その機関車というのも、入れ換え用のタンク機関車なので、終点までは走れそうにない。だから、このタンク機関車に代わって、我々に急行列車を引いてほしいとのことなんだ。どうだい、一つ、やってみないかい?」

 ハリスより年上の助手は乗り気のようだが、ハリスの方は腕を組みながら、わたしの方を見上げてきた。

 急行列車は、この鉄道の本線の始発駅から終着駅までを、途中駅での停車は一度だけで結ぶ旅客列車である。大勢の人々が利用するため、とても重くて長い列車になるが、その分、鉄道員の間では花形の仕事として見られている。

 わたしの支線は、本線の途中駅――いつも、ふもとの駅と呼んでいるところ――から分かれて、山の頂上にあるこの駅へと続いていくわけだが、急行列車の目指す終着駅へは、それよりもずっと長い距離を走らなければならない。わたしには石炭と水を積む炭水車があるので、長距離には向いている。元々、そういった用途でつくられたのだし。

 しかし、本線の仕事から外れて、数年。この支線での往復ですら、近頃、息の上がっているわたしに、そんな大役をやり遂げられるだろうか。

 しかし、不安げにわたしを見上げていたハリスが急に口角を上げ、周囲が気付くか気付かないかわからないぐらい小さく、目配せをしてきた。

「わかりました。やってみましょう。」

 そう言って、彼は支度を始めた。わたしはまだ少し心の準備が整っていなかったが、さっき、目配せをしてきたハリスの笑顔が思い出され、自然とやる気が出てきた。

 まずは、ふもとの駅への列車を引いて、支線を下っていく。通常は急行列車が止まる駅ではないが、今日はこのふもとの連絡駅で、列車を引き継ぐ手筈になっているのだ。

 到着すると、引いてきた客車をホームに残し、いつもは入らないホームの反対側の線路に移動して、急行の到着を待った。やはり、タンク機関車では、時間通りに走れていないようだ。

「ううむ、遅いなぁ。普段なら、もうこの駅を通過している時間なんだが。どうだ、遅れはいくらか取り戻せるかね?」

 懐中時計を握りながら、ふもとの駅の駅長がハリスに聞いた。

「まあ、できる限りはやってみます。いずれにしても、こいつに引っぱってもらう以外の選択肢はありませんから。」

 ハリスの答えを聞き、駅長がわたしを見る。

「でも、大丈夫だと思いますよ。さっき一度走っただけですが、今日は特に調子がいい。遅れを取り戻すのだって、全く不可能ってわけじゃないと思います。」

 ハリスの珍しく自信に満ちた言葉に、駅長が返す言葉を迷っていると、二台のタンク機関車が長い急行列車を引いて到着した。連結が解かれ、タンク機関車達が客車から離れる。その足取りから、客車の重みと慣れない長距離が相当堪えていることが見て取れる。

 ポイントが切り替えられ、わたしは線路に砂を落としながら、客車の方へとバックしていった。客車が揺れないように、ゆっくりと、静かに緩衝器を当てる。助手が、わたしと客車の連結器を固く締めた。

 旅客列車を引くこと自体には、わたしも慣れている。しかし、いつもは三、四輌の客車が、今は倍以上の十輌連なっている。出発の合図をする車掌の姿も、いつもより遠い。

「いいかい、どんな列車でも走り出しが肝心だ。時間は気にしなくていい。車輪にしっかりと線路を掴ませて、前進していくんだ。」

 機関室から、ハリスが声をかける。助手は、かまに石炭をくべるのに忙しく、ハリスがわたしに話しかけていることなど、気にも留めていなかった。

 ピリピリピリッ!

 車掌の笛が鳴り、緑色の旗が振られた。

「出発進行!」

 ハリスが慎重に、加減弁を開いていく。ピストン弁が押されているのが伝わってきて、わたしもゆっくりと、ピストンを動かした。車輪が回り始めると、客車の重みがズシンとのしかかってくる。

「慌てるな。客車は重いから、動きが伝われば、自然にスピードも上がってくる。まずは、自分の動きをしっかり、客車に伝えていくんだ。」

 ハリスはそう言って、また、少しずつ、加減弁のハンドルを下げていった。

 こういうとき、ハリスみたいに、技術のある機関士が乗っていることほど、機関車にとって、心強いことはない。それも、もちろん、今までの関係や彼の慎重な性格があってのことだが。

 客車も無事に走り出し、列車は再び本線を進み始めた。蒸気の出も良く、わたしは本線の長くまっすぐに伸びた線路をすべるように走っていった。

 あまりにもなめらかに走るので、自分達が走っているのではなく、周りの景色がベルトコンベアのように後ろに流れているように感じた。

 と、言っていたのは確か、車掌だったっけ。

後で知ったのだけれど、出発前、ハリスもああ言いながら、実は、この遅れはもう取り戻せないだろうと思っていたんだって。でも、わたしが思いの外、調子よく走るので、希望が湧いたらしい。わたしは、ハリスがああ言ってくれたから、希望をもって走れたのに。なんだかおかしな話だ。


 結局、急行の到着は定刻よりも五分遅れてしまった。しかし、終着駅の駅長は喜んでいたし、降りてきた乗客達の中にも不満そうな顔をしている者はいなかった。本線で一番の急勾配を越えて、ここまでたどりついたわたしは、まだ心臓がバクバクしていたが、彼らの様子にホッとした。機関室から降りてきたハリスも、彼らを全員見送ると、安堵の溜め息を漏らした。

 それから、ふいに、わたしの方に歩いてきた。そして・・・。

「よく頑張ったね。」

 そう言って、わたしを撫でてくれた。ボイラーがとても熱いのを我慢しながら。


 わたしにハリスの子どもはつくれない。

 キスすることも、抱きしめてもらうこともできない。可愛い洋服を着て、一緒にデートすることも、早起きして朝ごはんを作ってあげることも、夜遅くまで電話でおしゃべりすることも・・・。

 でも、それでもいいんだ、って思えるようになった。

 だって、一緒に、急行列車を運ぶなんてことは、他の女の子では、絶対、真似できっこないでしょう。

 わたしにはできないこともあるけれど、わたしにしかできないこともある。

 機関車のわたしは、機関車だったから、彼のことを好きになれたのかもしれない。

 わたししか知らない、彼の魅力。

 きっと、それは、あの彼女でも経験できない。わたしだけの想い出。わたしだけが知っている、大切な、彼との想い出なのだ。

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