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耳かき侍女と港の騎士  作者: 川崎 春
愛しいあなたへ恋文を
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ルミカ・バウティの帰還

ジュマ山脈……グルニア帝国とパルネアの国境線となっている山脈。足を踏み入れると体重が数倍になり、山越えは不可能だとされている。ジュマ山脈を形成している硬い鉱石が原因とされているが、はっきりした原因は分かっていない。

 ベッドに座っているファナは、顔色が悪い。

「ちょっとでいいので、飲んでみてください」

 ファナは嫌だろうに、私に気を遣って口に含んでいく。……するとオレンジだけ「あれ?」と言う顔をした。

「飲めますか?」

 私の言葉に頷くと、ファナは恐る恐るオレンジジュースを飲みほした。

「気持ち悪くない……」

 信じられないと言う様にファナは呟いた。

「オレンジだ!」

 コピートの大声で、ドアの外の使用人がバタバタと走って行く。明日からオレンジジュースの大量生産が始まりそうだ。

 後から運ばれてきたもう一杯もゆっくりと飲み、暫くするとファナは少し顔色が良くなった。

「良かった……」

 私がほっとすると、ファナは涙目になった。

「ローズ様は私の神様です。いつも危ない時に助けてくれます。お城の時も助けてくれました。今も……本当に辛くて死んじゃうかも知れないって思っていたら、助けてくれました」

「大げさです。……コピート様も、ファナを心配していたのですよ?」

 ファナは力なく首を左右に振った。

「お義母さんが言っていました。コピートは面倒くさがりで、お嫁さんなんて欲しくなかったのに、成り行きで仕方なく私を嫁にもらったのだって」

 ファナはそこで口をつぐむ。確かに面倒くさがりだが、コピートはそんな理由で結婚しない。好きだからファナと結婚したのだ。

「そんな訳ないじゃないか」

「じゃあ、どうして何も言ってくれないの?」

「疲れてるんだよ!」

 喧嘩になりそうだったので、私は助け舟を出す事にした。

「今、城は忙しいのです。私が出仕を休んでいる事は知って居ますか?」

 ファナは、はっとして私を見た。グルニア人が居る事は知っているらしい。

「魔法を使う人が城に居ます。抑え込めるのは、リヴァイアサンの騎士様達だけなのです。だから、あまり責めないであげてください」

 私の言葉に、ファナは俯いた。

「お恥ずかしいのですが、赤ちゃんをどうしたら守れるかばかり考えていました」

 初めての妊娠にマルネーナさんの襲撃が加わったのだ。辛かっただろう。

「ランバート様にお会いする機会があって、ファナの話を聞いたのです。それで今日は来ました」

「叔父さんには感謝しています」

 ファナの話ではランバートは未婚だそうで、娘代わりにファナをとても可愛がって気にかけてくれていたそうだ。

 リヴァイアサンの騎士についてランバートが知っており、婚約中からさんざん結婚を止められた経緯から、お腹に子供が居る事を相談したそうだ。

「両親は何も知らないので詳しい事は言えません。だから……叔父さんに相談しました。リンザにも手紙を出して相談したのですが、どちらからも返事が来なくて……」

 返事は、多分マルネーナさんが持って行ってしまったのだろう。ランバートがどうにもできないのは、人に様子を見に来させてもマルネーナさんがあしらって追い出すからだ。

 序列上位騎士の館に探りを入れる様な真似は、何度も出来なかったのだろう。

 しょんぼりしているファナの手を取って、私は言った。

「ちゃんと言っていませんでしたね。ファナ、おめでとう」

 ファナはぽかんとした後、ボロボロと泣きながら言った。

「本当にお祝いして良い事なのでしょうか」

 胸がぎゅっと締め付けられた。

「勿論です」

「いらないってコピートに言われたら……それを考えると、怖くて言えなくて……」

 私の肩に顔を埋めて、小さな声で言うファナの頭を撫でる。

 コピートは情けない顔をして私達を見ていた。……夫婦揃って、同じ事を思っていたのだ。

 だったら今からでも言えばいいのだ。今ならまだ間に合う。

 赤ちゃんをどうしたら守れるか。ファナはそう言った。

 きっとマルネーナさんに取り上げられると思っていたのだ。そして何も言わないコピートもマルネーナさんの味方だと思っていたのだ。これなら、今話し合えば解決する。

「私はもう遅いので帰ります。……コピート様、夜勤までまだ時間はありますよね?」

 コピートは一つ頷いた。

「ローズ様……帰ってしまうのですか?」

 不安そうなファナの目元をハンカチで拭って笑う。

「大丈夫ですよ。ここの女主はあなたです。コピート様もそう思っています。堂々としていなさい。また来ますから」

「本当ですか?きっとですよ」

 ファナを置いて行くのは忍びないが、夫婦の会話は夫婦だけですべきだと思う。特にお腹の赤ちゃんの事などを話すなら、他人が居ない方がいいだろう。

 モルグ家の馬車で送り届けられて館に戻ると、使用人達が心配して出て来た。

「遅くなってごめんなさい。今日ジルは夜勤でしたね」

「はい。それよりも……」

 連れて行かれた談話室に入ると、ソファーから誰かの足が見えた。その足は男性のもので、編み上げのブーツは泥だらけで汚い。

 うちにも不法侵入者?

 眉間に皺をよせて恐る恐る覗き込めば、綺麗な顔の男が寝ていた。

「ルミカ……嘘寝はダメですよ」

 気配に敏感な騎士が、これだけバタバタ近づいて分からない筈がないのだ。

「ばれた?」

 目を開けたルミカは、にやっと笑った。

「来るなら来ると知らせて下さい。皆驚いていましたよ」

 呆れて言えば、むくっと起き上がって私の顔をじっと見る。

「グルニア人に拉致されたって聞いたよ」

「もう終わりました。平気です」

 ルミカは目を逸らさない。

「本当に大丈夫?」

「ルミカこそ、パルネアから勝手に戻って来て大丈夫なのですか?」

「俺は国王命令で戻って来た。もう外交官じゃない。騎士団の序列三席ルミカ・バウティだよ」

 グルニア人の事で混乱している城には一人でも多くの戦力が必要だ。ルミカが戻って来るのは当然の事とも言える。

「兄上は夜勤か。ローズとゆっくり出来るなんて嬉しいな。耳かきしてもらってもいい?」

「嫌です」

「即答なの?」

「それよりお腹は空いていませんか?私は凄くお腹が空いているのですが」

「じゃあ、一緒に食べようよ。着替えて来る」

 ルミカとご飯を食べて話をした。

 多くが、私が最近の暮らしや城の事を聞かれる状況だったが、出仕前に知りたいのだろうと思って、問われるままに話した。

 話は尽きなくて、談話室でお茶をしながら話している内に夜が更けていく。

「ラシッドが兄上の副官か。兄上、よく我慢しているなぁ」

 ルミカがしみじみ言うので、苦笑するとルミカは続けた。

「ラシッドは兄上達をからかって遊ぶのが好きなんだ。兄上達もナジームも、酷い目に遭っている。あいつは優しい人間を見抜くから、許してくれない相手にはやらないよ。俺とかね」

 優しい人間に意地悪するなんて、明らかに人でなしだ。

「ジルは大変そうです」

「そうだろうね。仕事はするんだよ。暇なのが大嫌いだから、いらない事を考えられない様に仕事をやらせるのが一番いいんだ。俺はそうしていた」

 いらない事……慌てて思考をかき消した。ラシッドの考える事など、ロクな事じゃない。

「そう言えば結婚したらしいけど、相手はまだ生きている?」

 酷い質問だ。

「……無事です。上層で侍女をしています」

「ふぅん。リヴァイアサンの騎士は侍女に弱いのかなぁ。面白いくらいに侍女に引っかかってるな」

「引っかかったとか、まるで色仕掛けをしたみたいな事を言わないで下さい。……ところで、アネイラはどうしたのですか?」

「別れた」

 ルミカは即答した。

 短いがきっぱりした言葉に絶句する。付き合っていると言う話は手紙で聞いていた。婚約もしていないので、ずっと気になっていたのだ。

「どうして……」

 アネイラは私と同じ年齢だ。結婚適齢期はポートでもパルネアでも十代後半から二十半ばまでくらいだ。とっくに過ぎている。

「どうして結婚しなかったのですか?あの子はきっと他の人なんて選べません」

 責める様な言葉になったのは仕方ない。

「……凄く忙しかったんだよ。パルネアに居ない時期も多くてね」

 ルミカは苦笑した。

「とにかく俺は結婚できない。そう思ったから……別れて来た」

 酷い。何年も付き合わせておいて、捨てて来たのだ。

「アネイラは何て答えたのですか?」

「好きな人と一緒に居られるのは幸せだけれど、大勢の笑顔を支える仕事も幸せだって言われた」

「侍女を続けたいって事ですか?」

「うん。後輩を育てるのに力を入れているから、城でとても頼られているよ。だからそのまま侍女で居たいのだと思う」

 違う。きっと今頃、アネイラは抜け殻の様になっているだろう。そして地獄の様な城で働いている。

「結婚しないなら、どうして付き合ったりしたのですか?」

 ルミカは黙ってしまった。

 沈黙が続いた後、ルミカは言った。

「ローズはグルニア人を知っているのだったな……。俺は、ジュマ山脈を越えた。グルニアに行っていたんだ」

「え?」

 話の展開についていけない。

「……ジュマ山脈に入ると、物凄く体が重たくなる。ジュマ族しか受けれいない場所だと聞いていたが本当だった。それでもジュマ族の力も借りて山脈を越えた先には酷い場所があった。グルニアは何年も飢饉で地獄の様だった」

 ルミカの暗い表情から、想像を絶する光景を見たのだと感じる。

「戻ってきて……グルニアの事を考える様になった。俺はアネイラとの事を考える様な心理状態ではなくなった。それが一番の理由だ。言い訳にしか聞こえないだろうが、この出来事が先なら、告白して付き合おうなんて思わなかった」

 つまり、付き合ってそのまま仲を進展させようと思っていた所でグルニア帝国を覗いてしまったルミカは、それどころではなくなってしまったと言う事らしい。

「何があったのですか?」

 飢饉で荒れ果てた土地や人々を見ただけで、ルミカがそんな気持ちになるとは思えない。

 ルミカは一瞬迷ってから、諦めたように言った。……ここまで話してしまった以上、私が引かないと分かったのだろう。

「地獄みたいな光景の中で、鬼の様な男と戦った。俺は決着を着けられないままパルネアへ戻って来てしまった。俺はあいつを倒さねばならないとずっと思っている。あの男は悪意で出来ている。……生かしておいてはいけない」

 ルミカは暗い荒んだ目で続けた。

「あの悪意はパルネアに向いている。ポートとジュマ山脈が隔てているから近づけないだけで、本当はパルネアを滅ぼしたいのだ」

「何故分かるのですか?」

「パルネア人なのだ。その男は」

 一瞬耳を疑う。

「本当なのですか?」

 ルミカは頷いた。

「アネイラには何も言わないでね」

 別れて来たのは、その男との決着が着くまで何も考えられないからと言う事らしい。……そうかも知れないが、どうしても納得できない。

「言いたい事は分かりました。だったら事情を話すかどうかは別にして、とにかく婚約しておくか、いっそ結婚してしまうべきでした」

「アネイラは、侍女を続けたいと言ったよ?」

「本気で言っているのですか?離れても婚約や結婚さえしていれば、アネイラは侍女を続けるのも楽だったでしょうが、今頃、外に出るのも辛くなっていると思います」

「どういう事?逆じゃないの?」

 ルミカは何も分かっていない。ポートでは結婚したら仕事ができないのが常識だが、パルネアでは、適齢期に結婚しているかどうかが仕事を続ける上で大事になる。

「アネイラは結婚適齢期をとうに過ぎている上に、ルミカと何年も付き合っていた事を周囲も知っています。今頃、婚約もされずに捨てられたと思われているでしょう。城で侍女をするなど、不名誉な噂のネタで晒し者です。不埒な事を考えて、ちょっかいを出す者も一気に増えるでしょう」

 パルネアでハイミスと呼ばれる適齢期を過ぎた未婚女性への男性の態度は、急に悪くなる。適齢期に男性から不合格と見なされた女だと言う考え方があるのだ。

 ルミカに捨てられたとなれば、邪な考えを持っている者の手が伸びて来る。

 女に対して卑劣な事を考える輩はどこにでも居るのだ。侍女もメイドもいつもそれを注意しているし、とても敏感だ。しかしその数が増えれば自衛は難しい。相手の方が強い。逃げきれなければ終わりだ。

 ディア様だってオーディスと結婚していた。モイナは書類上、嫡出子だった。だから噂はあってもディア様を傷つける様な不埒者は現れなかった。それ程にパルネアでは既婚と未婚の扱いは違うのだ。

 私の説明にミルカは顔を強張らせた。

「アネイラがこの事を説明して、結婚して欲しいと言わなかったのも良くないと思います。……でも、それでも、アネイラが可哀そうです」

 私はルミカを睨んだ。

「アネイラの手を取れば、そのグルニアに居る傭兵と勝負をする決心が鈍るから、置き去りにして逃げて来ただけではありませんか」

 怒り任せに続ける。私以外、アネイラの気持ちを代弁出来る者は居ないから、思い切りぶちまけた。

「アネイラは我が儘を言ったり、度を超した要求をする子ではありません。結婚しても重荷になる訳がないでしょう?現にあなたが辛くない様に、上手く別れたではありませんか」

 ルミカが目を見張る。

「別れたら自分がどうなるか、分からなかったと思うのですか?そんな訳ないでしょ?あなたの別れたい気持ちを感じ取って優先させたに過ぎません。アネイラは自分がどうなっても構わない程、あなたが好きなだけです!」

 私はそれだけ言うと談話室を出た。アネイラの気持ちを考えると、本当に涙が出て来たのだ。

「ローズ!」

 呼び止められたが、部屋まで一気に走って鍵をかけた。部屋でアネイラの事を考えて、わんわん泣いた。私がこんな所で泣いていてもどうにもならないが、涙が止まらなかったのだ。

 翌朝、ルミカはもう館に居なかった。ドアに手紙が挟まれていて、謝罪の言葉が記されていた。

「私に謝ってどうするのよ!」

 私はその整った文字の手紙をぐしゃりと握りつぶしていた。

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