負け犬の理屈
奥から出てくると、執務室で待ち構えていたセレニー様に部屋へと連れていかれ、クルルス様と喧嘩になった話を聞かされる事になった。
ルイネス様のお見舞いの事で酷い喧嘩になり、二人共お見舞いに行かないで、カルロス様だけをお見舞いに行かせる事になったそうだ。
赤ちゃんだけをお爺ちゃんのお見舞いに行かせ、息子夫婦が行かないと言うのは、どうなのだろうか。それも親族では無く、侍女と騎士に預けて行かせるなんて、異常事態だ。
「ローズ、お願い」
「しかし……」
「いいの。クルルス様も了承した事だから」
「一体、何があったのですか?」
喧嘩の内容をセレニー様がはぐらかすので、よく分からない。
「ジルムートが見ていたから聞いて。私は思い出したくないわ」
セレニー様はむっとした表情でそう言っただけだった。滅多に怒らないセレニー様が、物凄く怒っているのは分かった。パルネアでも、こんな状態になっているのを見た事が無い。
とりあえず、ジルムートが一緒に来てくれるならムスルの事は心配しなくて良さそうだが、問題は私とジルムートが殆ど口を利いていないと言う今の状況だ。
セレニー様の話を聞き終えて王妃の部屋を出ると、ジルムートが廊下で待っていた。
視線がまっすぐに合うのさえ、久々な気がする。私が視線を逸らしていたからだ。
ジルムートが歩み寄って来た。
「ローズ」
「ジル、あの……」
「帰ってから話そう」
確かに廊下でする話じゃない。私は素直に頷いて、一緒に館に帰った。
今日は仲直りできるのかも知れない。でも……どう話せばいいのか。こちらから謝るのはおかしい気がする。だからって、気にしていませんと言うのも微妙に違う。
そんな事を考えている内に館について、すぐに食事になった。食べている間も考えていたら、ジルムートに後で部屋に来る様に言われた。
最近は食事が済むと各自の部屋に籠っていたから、妙に緊張する。
部屋に入って何処に座ろうか迷って立っていると、ジルムートに手招きされた。
何となく、くっついて座れなくて距離を置いて座ってしまった。するとジルムートが不安そうに聞いて来る。
「まだ、怒っているのか?」
「そうではありません」
どう言えばいいのだろう。心の中に埋めていた物を掘り返しながら私は言った。
「私、考えたくない事から目を逸らすのが得意なのです。そうでないと仕事との切り替えが出来ないので」
ジルムートが緊張してこちらを見ている。何を言われるのか、予想出来ないのだろう。
「怒っている間は、それで良かったのです。でも、あなたに対してずっと腹を立て続けるのは無理でした」
気持ちを言葉にした途端、心の奥底に埋めていた物が一気に溢れた。
「怒るよりも、寂しくなってしまいました」
そこまで言った所でジルムートに抱きしめられた。
長年の劣等感を刺激された事よりも、ジルムートとこうやって一緒に居られない方が堪えた。
謝ってくれたのに許せなかった自分が悪いのだとまで思い始め、夜中にジルムートのベッドにこっそり潜り込んでしまおうかと、何度も思った。
「俺も、寂しかった」
ジルムートが言う。
それ以上の言葉は無く、ただじっと抱き合って互いの存在を感じる。長い間、こうしていなかったから離れたくなかった。しかし何時までもこうしている訳にはいかない。私達には、明日も城の仕事があるのだ。
「ジル……色々と話を聞かなくてはなりません。私も話す事があります」
「そうだったな」
ジルムートはそう言いつつも、腕を離してくれない。
「このままでもいいだろうか?」
「話をする姿勢ではありません」
ジルムートは渋々いつもの距離を取ってくれた。顔に名残惜しそうな表情が浮かんでいる。
「何て顔をしているのですか」
私が笑うと、ジルムートも笑ってくれた。
「ローズが居てくれないと、寂しくて辛いのだ」
「だったら、もう言わないでくださいね」
何がとはあえて言わない。
「言わない」
ジルムートは即答した。だから、もうこれで終わりにする事にした。今はそれどころでは無いのだ。
「では早速ですが……セレニー様が凄く怒っていた内容について、聞いてもいいですか?」
ジルムートは、クルルス様がルイネス様を王として尊敬しつつも、越えられない大きな壁として強く意識している事、セレニー様と政略結婚させられた時のわだかまりを今も抱えていて、セレニー様が見舞いに行くのを止めた事を話した。
私は呆れて言った。
「そのいい方では、夫婦として過ごした歳月を否定しています。セレニー様が可哀そうです」
「俺もそう思った。でも、クルルス様はこれ以上ルイネス様に恰好悪い所を見せたくないのだ。ルイネス様に、ちゃんとやっている姿を見せたかったのだろう」
「クルルス様は、ちゃんとやっていると思うのですが」
「セレニー様のお陰だと言う自覚があるから、嫌なのだ」
王様を辞めたいのに、王の資質をルイネス様と比べて気にしているのは、クルルス様の感情の問題だ。
ジルムートはクルルス様の状況を代弁した。
「クルルス様は周囲に人が居なかったし、兄弟も居ない。産まれながらの王だから、人にものを頼むと言う事が下手なのだ。庶民として船大工の修行をし、職人集団の中で揉まれていたルイネス様とは違う」
王族と言うのは孤独なのだ。騎士も侍女も、同じ身分の者が居て、上にも下にも人が居る。しかし王族は下にしか人が居ない。使う事から覚える事になる。
「そうは言いますが、やり様はあった筈です。年少の女性王族であるセレニー様は、政務の場に本来なら立ち入る事も許されなかった身です。その場に自らの居場所を得るべく、努力なさいました」
「今ある知識も政務への姿勢も、その時に身に着けたものか?」
「そうです。私がお仕えし始めた頃には既にその目標を掲げられていました。ようやく国王陛下に政務の場に身を置く事を許されたのに、政略結婚でパルネアを去らねばなりませんでした」
元々相手にされていなかった王族の小娘と言う立場を向上させる為、セレニー様は戦っていた。話を聞いてもらうどころか、聞く場所にすら辿り着けない所から全てを始めたのだ。
ようやく手に入れた議会での末席を諦め、他国に渡るのはどれだけ辛かった事だろう。本当にこれからだったのだ。
私はそれをずっと見ていたから、この国の最初の対応は許せなかったのだ。
「セレニー様にも事情がありました。辛かったのは、クルルス様お一人ではありません」
「分かって下さるといいのだが……セレニー様に対しても、劣等感を抱いているのが問題だな」
「はい」
自分が我慢出来るから、人も我慢出来ると言うものでは無い。同じ物を要求して、同じ様に我慢しろと言うのは傲慢だ。セレニー様が我慢できるのだから、クルルス様も我慢しろとは言えない。
特に王族の我慢と言うのは、並のものでは無い。クルルス様が我慢していないかと言えば、そうでは無い。十分に出来ていると私は思う。王としては十分だ。それなのに並以上を求められ、認められない事を続ける辛さは相当のものだ。
「私はクルルス様の気持ちが、分からないでも無いのです」
「ローズが?」
「私の母であるアリアは、城で全ての侍女の尊敬を集める人でした。その娘として同じ侍女をするのはとても大変でした」
王妃付きのアリアと言えば、誰もが知っている程の侍女だった。
メイドと侍女を教育する制度を作り、王妃様経由で国王陛下に提案した。結果、庶民でも頑張れば城に出仕出来ると言う夢をパルネア中に広めた人だ。……ディア様がその夢を叶え、侍女がパルネアで女の子の憧れる仕事になった事はその後の話だ。現実には厳しい職場だから、侍女はなかなか増えないのだが、希望者が居なくならないのはとても良い事だ。
私は、偉人レベルの母と自分を同じ場所に置かなかった。しかしクルルス様は、まだ頑張っているのだ。確かに今後の頑張り次第では、歴史に名前が残る様な立ち位置ではあるが……そうなった所で、ルイネス様への劣等感は消えないだろう。
「私は前世があるので、母の記憶が二つあります。だからでしょう。比べて張り合う様な真似をしなくて済みました。でもクルルス様はそう思えないでしょうから、さぞや苦しいかと思います」
「セレニー様にもご理解いただけるといいのだが」
それはそれ、これはこれ。ジルムートの答えに、否と答える。
「いいえ。セレニー様は、そんな負け犬の理屈は分からなくていいです」
「負け犬って……」
「優れていると評価されずとも、続けていなければ大勢が困る事は世に沢山あります。自分が居なければ誰かが困るのだと、自分で自覚出来ないのは大問題です。クルルス様は大勢の国民に頼られている王です。そんな理屈で生きていては困ります」
「そうは言うが……ルイネス様は優れた方で」
私は、ジルムートを睨んだ。
「知っています。私、毎日ルイネス様とお話していますから。ジルには、クルルス様がそう言うおかしな考え方をしない様に諫める役をして欲しかったそうですよ」
「俺には荷が重い」
「そう言うと思いました。……でも、クルルス様が議会と袂を分かつ様な事になっている時は、止めるべきでした。諫めないで見ていたから、騎士団まで印象が悪くなったと言っていたのは、あなた自身です」
だいぶ後で聞いた。結婚してからだ。
クルルス様がルイネス様の決めた関税の話をひっくり返した時、ジルムートが何もしなかったから、騎士団は戦争をしたがっているとか、馬鹿しか居ないとか、批判の的になったのだ。
ジルムートからすれば、オズマと同じく武力で文官や議員を威圧しない為、アリ先生の教え込んだ文武分離(文官と武官の権限を分ける事)と言う考え方を実践しただけの事だったのだが、上手く行かなかった。
パルネアでは、既に文民統制(武官は文官の要請が無いと動けない。政治が軍事の上に立つ考え方)が行われているのだが、ポートではそこまで騎士団の権限が小さくない。
拷問人形の歴史もさる事ながら、異能者が世襲制で在籍しているからだ。
当時、中層に勤めていたルミカは、害意の無い兄と騎士団に対する無礼だと考え、色々とやったらしい。更に事態が悪化する要因になったのは言うまでもない。だから外交官としての任期を伸ばされ、ポートに戻れない。……ルミカ本人は、パルネア永住も考えているので全然気にしていないのだが、任期を伸ばしている者達はそれを知らない。
「クルルス様はルイネス様と勝負をしようとして議会と険悪になりました。ジルが止めなくてどうするのですか……。それは政治の話ではありません。人と人生の在り方で勝ち負けを競うのは、良くないと私は思います」
「何故だ?周囲より優れていたいと言う気持ちは必要だ。無くてはやる気を失う」
「理想を掲げるのはいいのです。比較して勝負にしてはいけないと言っているのです。人との比較にこだわり過ぎれば、勝ち続けなくてはならなくなります。常勝無敗など、普通に生きていれば不可能です」
たった一つの負けが、多くの勝ちを無かった事にしてしまう思考。それが負け犬の理屈だ。
理想と違う現実の自分を不愉快に思う気持ちにばかり囚われ、余裕を失い、渇いたように勝ちを求め続ける。最後には周囲を傷つけ、蹴落とす様になる。
私は、ジルムートの心に触れるのを覚悟で言う。
「オズマ・カイマンは常勝を追い求めた挙句、あなたを地下に閉じ込め、周囲を威嚇し続けた。違いますか?」
ジルムートが、目を見開く。
「ポート王国は、強い王が居なければ利用しようと言う輩に出し抜かれる国です。でもクルルス様は出し抜かれる様な王ではありません。足りないのは、大勢の気持ちを受け止める理解力です。セレニー様がそれを補い、大勢の気持ちを受け止めています。……両方を一人でこなしたのがルイネス様です。クルルス様だって、それは分かっているかと思います」
セレニー様に政務に戻って欲しいと頼んだのだ。自分に足りない物を理解している。
感情だけが、だだをこねているのだ。
「そんな感情をセレニー様に理解させて、どうするのですか?理解した所で、セレニー様に議会で遠慮してもっとクルルス様の顔を立てろとおっしゃるのですか?それでは議会も夫婦も上手く行きません」
「確かにそうだな」
ジルムートは少し黙ってから言った。
「俺だって、意見したい気持ちはあった。……しかし、俺は父親の事になると、強く言えないのだ」
ジルムートがかすれた声で視線を逸らして言った。
「殺してしまったから」
初めて、ジルムートは自分で父親の事を言った。驚いて見ていると、ジルムートは私から視線を逸らしたまま続けた。
「俺に口を挟む権利は無い」
クルルス様は、ジルムートの気持ちを知らない。知っていたら拗ねるのを止めて、とっくに和解していた筈だ。
ジルムートは、やはり殺したと言った。死なせたとは思っていない。
皆、ジルムートが父親を死なせてしまったのは不可抗力だと思っている。しかし、ジルムートはそう考えていない。この溝が埋まらないのは、ジルムートが当時の事をどう思っているのか言わないからだ。
「クザートは事故だと言っていました」
「違う」
ジルムートは私の方に視線を戻した。その視線には迷いが無かった。
「俺はそれ以前から、父上を殺さねばならないと思っていた」
ジルムートは静かに言った。
「俺から話した事は一度もない。実際には、周囲が言う様な美談では無いのだ。聞きたいか?」
想像していなかった展開に驚いているが、ジルムート本人の過去を本人から聞く機会は、今を逃せばないかも知れない。私は、この人が何を考えているのか知りたい。
「嫌でなければ」
私はそう答えていた。




