上層の奥
ジルムートと殆ど接しない暮らしが続いている。出仕は一緒にするけれど、完全にすれ違っている。
馬車の御者台に居るジルムートは無口で、私も怒ってしまった手前、自分から話しかける事はしない。夜も一緒に寝ていないから食事が終わるとすぐに自室に引っ込む為、家でも口を利いていない。
しかも私は上層でも奥と呼ばれる、王位継承権から外れた王族の住む一角へと通う事になり、騎士すら見なくなってしまった。
奥は、クルルス様の執務室の奥の扉の向こうにある為、騎士は入って来ない。王を主とする個人の館の様な扱いになっているそうで、治外法権になっていると聞いた。
必要な物は、頼めばムスルと言う従僕が揃えてくれる手筈になっている。他の使用人も居る様だが、皆私を見ると足早に逃げていく。ムスルは使用人用の部屋はおろか、ルイネス様の部屋以外の場所は、私に一切教えるつもりが無いらしい。
外国人のしかも女だ。ポート人の壮年男性であるムスルからすれば、得体の知れない異物なのだろう。
案内されたルイネス様の部屋は、鎮静効果があるとされる香の匂いが充満していて、刺激臭とラベンダーの混じった強い香りに、顔をしかめそうになった。
「ルイネス様、クルルス様のご指示にて今日よりお世話をさせて頂く、ローズ・バウティです」
ルイネス様は一瞬私を見た後、視線を窓に向けた。……無関心だと言わんばかりの様子だ。ムスルは、意地の悪い笑みを浮かべて去って行った。
ルイネス様と二人きりになって、まず私がしたのは香を消して捨てる事だった。それから、窓を開けて空気を入れ替えた。
「体を拭かせて頂きます」
ムスルに最初に運び込んでもらったお湯と部屋に置いてあった布で、動けないルイネス様の服をはだけて、体を清潔にして行く。凄く汚い。
さっきの香は、鎮静作用じゃなくて、匂い消しだったのではなかろうかと思う。
髪の毛も当然汚れている。しかし体を拭いただけで、お湯はもう使い物にならない。ムスルにもう一度お湯が欲しいと言うと、何を言われるか分からないので髪の毛は明日にする事にした。
実は体を拭いたのは、薬湯用のお湯だったのだ。ムスルはそれを使ってまさか私が体を拭くなんて思っていなかっただろう。
薬用のお湯は、うっかりこぼしてしまったと言ってもう一度もらう事にした。
ムスルは、余計な事をするなと言う雰囲気を隠していなかった。
「お亡くなりになったら報告すればいい」
それ以外は、何もするなと暗に言っていた。
見殺しにしろと言う事らしい。当然、従わない。ムスルは私の雇い主では無いからだ。
ただ上手くやらないと、私がジルムートの妻である事すら無関心な様子だったので、身の危険を感じる。……騎士が顔を出していない場所なのだから、当然かも知れない。
ここにはここのルールがあって、クルルス様の執務室より手前にある城のルールは適応されないらしい。立ち回りは上手くしなくてはならないだろう。
「おい姐さん、恥じらいと言う言葉を知っているかね」
部屋の中を片付けようとウロウロしていると、背後から声が聞こえた。
「すいません。ご主人様が汚いと言うのは、侍女として許せませんので」
喋れるんだ……。それも、かなりはっきりと。
驚きつつも、動けない主に侍女モードで応対する。
「死ぬだけの権力も無い老人だ。放って置けばいい」
こういう意見は却下だ。
「明日は髪の毛を洗います。綺麗になったら耳かきをさせて頂きます。……クルルス様からのご命令ですので」
「耳かき?何だそりゃ」
「耳のお掃除です。まずはお体を清めさせていただきます」
汚い頭のまま膝に乗せる訳にはいかないので、これは私にとって重要な事だ。
私の意思が伝わったのか、ルイネス様は少し笑った。体は全く動かない様だが、首から上は動くらしい。
「やけに威勢の良いのが来たな。うちの坊主の仕業か。余計な事をする」
ルイネス様も王族らしくない話し方をする。この人の話し方が、クルルス様に受け継がれたらしい。
「薬はいらない」
「何故ですか?」
「俺の病に薬など無い。眠くなるだけだ」
……なるほど。お香と薬で、殆ど意識を失っていたのか。私がお香を捨ててしまった上に、薬用のお湯を使ってしまったので、薬が切れたらしい。
「気を付けろ。俺の世話を真面目にすると殺されるぞ」
「私、死ぬ気はありません」
「だったら上手くやってくれ。俺は助けてやれないからな。……久々に話をして顎が疲れた」
ルイネス様は、その後黙ったまま、窓の外の空を見ていた。
「何故、香を捨てた!」
ムスルに怒鳴られた。
「私の国では、あの香は遺体が腐っている時に、その匂いを誤魔化すのに使うものなのです。それでつい……クルルス様にご相談した方がいいでしょうか?」
嘘だが、とりあえずそう言っておく。
生きている王族に、死者用の香を焚いているとクルルス様に言われては困るのだろう。ぎょっとしたムスルは、もう香は焚かなくていいと言った。
「薬の回数を増やすから、しっかりと飲ませて差し上げろ」
「分かりました」
心の中で舌を出しつつ了承する。綺麗なお湯がこれで一杯手に入る。お湯を捨てる為の場所さえ確保できるなら問題ない。
上層水路の一部が来ている場所を発見した。使用済みのお湯は、ここに捨ててしまえばいいのだ。
上層には、空中庭園がある為、水が上層まで引かれて流れている、それを上層水路と言う。
海の波の力を利用した水の汲み上げ機が何個も城にはあって、修理して使われ続けていると聞いている。見た事は無いけれど、汲み上げ機が汚い為、汲み上げている水は真水だそうだけれど飲料水にならない。飲むとお腹を壊すそうだ。
だから、主に空中庭園に撒かれるか、生活用水となっている。汲み上げられた水は、海に面した場所から小さな滝になって海に落ちている。船から見ると、とても綺麗な光景だと聞いている。運が良ければ虹も見える絶景だと聞いたが、私は見た事が無い。
こまめに綺麗なお湯が届けられるようになったので、私はそれを使って、せっせとルイネス様を綺麗にした。食事もロクな物が出て来ない。本当に王族の食事かと思う。薬ばかり出て来るので、食事も家から用意してくる事にした。
ジルムートに相談出来ない。だから、自分で出来る範囲の事をやる事にした。……クルルス様に報告しようかとも何度も考えたのだが、何故か私が通る時には執務室に居ない。侍女だから、王様を会議室から私用で呼び出す訳にもいかない。
「私、お弁当作るのも上手なんですよ。食べてください」
ルイネス様に、思い切り呆れられた。
ムスルには、パルネア人でポート料理の味が合わないから、食事を自分用に毎回用意しているのだと言い張って通した。
日に日に、ムスルが怒気を募らせるようになった。雰囲気が険悪になっていく。誤魔化しても、ルイネス様が清潔になっているし、私の食事を分けているのは分かるのだろう。このままでは殺されるのではなかろうかと思う程に、ムスルの視線には遠慮がない。
それでも、侍女としてはご主人様の健全な生活確保は大事な仕事だ。ルイネス様の髪の毛が、余りに伸び放題なので何とかしたくなった。髪の毛にシラミがいる。できれば、耳かきはそれも綺麗にしてからやりたい。シラミ自体はそんなに珍しくない。ただ、本気で駆除するとなると時間がかかるのだ。寝たきりだし、髪の毛は短い方がいいに決まっている。
とは言え、使用人による刃物の持ち込みは原則禁止だ。許可は抜刀許可証のある騎士か、役所に届け出なくてはならない。良い口実も出来たし、ちょっと会いたくなっていたので、上層の詰所を訪ねたらジルムートは居なかった。……居たのは、笑顔の人でなしだった。
「隊長は今忙しいので留守ですよ。何か御用ですか?ローズ様」
仕方ないのでラシッドに事情を説明すると、にっこりして腰の短剣を差し出された。
「これを使って下さい。俺のだから城に入れたと咎められる事はありません。良く切れると思いますが……切れ過ぎるので、指を無くさない様に注意して下さい」
確かに鞘から出すと物凄く切れそうな両刃のごつい短剣が出て来た。不安だ。……侍女とは言え、女性のセレニー様をご主人にしているので、髪は毛先を揃える程度に切った事がある程度だ。そこで指を持って行かれそうなこの短剣を使えと言うのか。裁縫室で裁ちバサミを借りてきた方がいいかも知れない。
刃をじっと見ていると、ラシッドに勘違いされた。
「毒も痺れ薬も塗ってありませんので」
「そんな事は心配していません!」
「そう言えば、奥ってどうなっているのですか?ちょっと知りたいですね」
「……あなたでも知らない事があるのですか」
「そりゃ、ありますよ」
結構色々な情報を持っているが、さすがに引退した王族の事は知らないらしい。
「ルイネス様の髪を切ってくれるなら、考えてもいいです」
「それは俺について来て元国王陛下の髪を切れと言う事ですか?……何で俺にそんな事を頼むのでしょう」
笑顔の人でなしは勘が良いから、あまりいい加減な事を言う訳にもいかない。だから正直に告げる。
「実は私を守って欲しいのです。奥に仕えている従僕が、最近私を殺しそうな目で見ているので」
「序列一席の奥方を、ですか?」
「騎士が誰も来ない場所なので、分からないのだと思います。外国人だから分からないと、色々相手の要求を無視し続けて来ましたので、恨みを買ったみたいです」
ラシッドは、興味が湧いたのか立ち上がった。
「いいですよ。そう言うの大好きですから。お付き合いします」
ラシッドはそう言って私を待たせると、中層へ下りていってクルルス様から許可を取って来た。
「刃物に関しては、騎士なら扱い慣れているのに何で疑うのですかね」
クルルス様に、ルイネス様の暗殺でも疑われたらしい。とりあえずラシッドのぼやきは無視して執務室の奥へ行くと、ムスルが飛び出て来た。
「このアマ、何で薬を飲ませない!」
そこまで言って、ラシッドの存在に気付いたムスルが目を丸くしてラシッドを見上げる。
ムスルは小男だ。ジルムート程では無いが、背の高いラシッドを見上げる恰好になる。
「ほう。これが例の従僕ですか」
ラシッドの威圧感に負けて、ムスルはとっさに私の方を見て怒鳴る。
「勝手な事をした挙句、騎士様を奥へ連れて来るとはどういう事だ!前代未聞だ。おまえなど縛り首だ」
ラシッドは何も言わず、いきなりムスルの腕を掴むと捻り上げた。
「いたた!」
「俺からすれば、縛り首はお前だ」
捻られた腕の関節から変な音がして、ムスルが悲鳴を上げる。
「ラシッド、手荒な真似はやめてください」
ラシッドは、にやっと笑った。
「そうはいかないです」
更に腕を捻り上げられて、ムスルが苦悶に一層顔を歪める。
「王族を生きた屍にするのがここの作法か?ああ、お前の作法か。それに反して、ルイネス様の世話をしている従僕を階段から突き落とすのも、お前の作法だよな?」
ムスルが苦悶したまま、目を驚愕に見開いている。
うわ、騙された。奥の事ちゃんと知ってるじゃないか。ラシッドは私の前任者がムスルに階段から突き落とされたのも知っていたのか!
「お前が今まで何人の従僕を追い出したのか俺は知らないが……今日で終わりだ」
そう言うと、ラシッドは捻り上げていた腕を突き離した。ムスルは壁にぶつかって崩れ落ちた。
「俺もここに通う事にする。ローズ様を害したら、生きている事を後悔する事になるぞ」
その言葉と同時に、ムスルは震えて逃げて行った。
「あの、来るのですか?」
恐る恐る聞くと、ケロっとしてラシッドはいつもの口調で言った。
「だって、その方が楽しそうじゃないですか」
「ムスルを捕まえて、別の方に来てもらったら解決しませんか?」
「考えたのですが、それはルイネス様が亡くなった時にした方がいいかなぁって思いまして」
ラシッドは凄く悪そうな顔で言った。
「クルルス様が、こんな奴にずっとルイネス様を任せていたと知ったら、どんな気持ちになると思いますか?クルルス様は知らないと思います」
……全然親身になっていないが、正論だ。
「ローズ様、言えますか?俺は言えませんね。お可哀そうで」
嘘つき。きっとこのままにしておくのには、理由があるのだ。とりあえず守ってくれるみたいなので、睨んでからため息を吐く。
「上層の仕事は大丈夫なのですか?」
「俺は仕事の出来る人なので、安心して下さい」
「自分で言うと嫌味です」
「クルルス様の護衛の仕事以外は、暇なのですよ。中層へ行くと護衛はアルスに引継ぎなので。その間に書類仕事はすぐ終わってしまいますから」
アルスが中層へ移動になった事を降格と見なさない為には、そうするしかないのだそうだ。
「何かあった場合、責任者が不在と言うのはどうかと思うのですが」
「奥へ通じる使用人通路の場所が分かっているので、暇なときに少しお伺いする程度です。一日に何回かは来ますよ。あの従僕を野放しには出来ないので」
「その通路、教えてください!」
「え~、嫌ですよ。ローズ様が、ちゃんと仕事をしているか抜き打ちで見たいですから」
「ちゃんとやっています!」
結局教えてくれなかった。
その後、ラシッドは言っていた通り、ルイネス様の髪の毛を短くしてくれた。良く切れると本人が言うだけあって、軽く引くだけで髪がばさっと落ちて驚いた。私が扱わなくて正解だった。
「今度、髭剃りを持ってきます」
ラシッドは、そう告げて去って行った。
こうして、ムスルは抜き打ちで訪れるラシッドに怯えて大人しくなり、私は仕事が楽になった。
ただ、こんな目に遭ってもムスルは出仕してくる。私にはその神経が分からない。まるでルイネス様が死ぬのを見届ける為だけに、ここに来ているとしか思えない。
王族だから自分で殺しはしないけれど、殺したい程憎んでいる。それは何となく分かる。
ラシッドは動けないルイネス様の世話を、ふらりとやって来て手伝ってくれるので助かる。動けない男性を動かすのは凄く大変なのだ。
「ラシッド。相変わらず悪い事ばっかりしているのか?」
「俺は悪い事なんてした事ありません」
「嘘つきなのは相変わらずだな」
ルイネス様の言う通り、ラシッドは嘘つきだ。
笑顔の人でなしが、ムスルの目的を知る為にあえて泳がせているのは分かっている。ルイネス様の事を考えるなら、ムスルを近くに置いておいてはいけないのに。王族すら囮にする所が人でなしだ。
本当ならこんな事を許せないから、ジルムートに相談すべきなのだが……未だに仲直りできていない。
変な話だが、時間が経ち過ぎてどうしたら仲直りできるのか分からなくなってしまっているのだ。
唯一の救いは、ルイネス様の表情が明るくなった事だけだった。




