価値観の不一致
ローズは酷く不服そうに言った。
「ディア様は侍女として城に来ています。セレニー様とカルロス様にお仕えしに来たのに、侍女を辞めさせるなんて、おかしいです」
「兄上はそうは考えていない。カルロス様の世話がひと段落したら、仕事を辞めさせて館に入れてしまう気だったのだ」
ローズは、ぎょっとしている。
「ひと段落って、どのくらいですか?」
「さあな。……とにかく、モイナを自由にさせたいと言う話があっただろう。あれで兄上は、ディアとの間に噛み合わない部分があると気付いたのだ」
モイナを館の中で一人にしておくのは可哀そうだと言われて、クザートはディアの望むままに環境を整えた。
それで悟ったのだろう。
結婚しても、仕事を辞めて館で待っていろと言えない現実に。
ローズに言えば怒るだろうが、クザートにとって、ローズは変わり者と言う認識があった。だから既婚でも働くのは、パルネアの常識ではなくて、ローズがそういう女だと言う認識になっていたのだ。
それが勘違いで、ディアこそがローズの元祖(師匠)だと理解して、自分の愛し方が決して受け入れられない事に気付いたのだ。
それで思い詰めて……とうとう力が漏れて止まらなくなってしまったのだ。
俺が情報をつなぎ合わせて知り得た事だ。確証はないが、まず間違いないと思っている。
「ディアも兄上も譲れないものがある。それが噛み合わないなら一緒には暮らせない。何かを言った程度で変わるものではない。だからローズが気にする事では無い」
ローズは不安そうに言った。
「……クザートはどうなるのですか?」
「俺にも分からない。ただ、関係に決着が着いて、落ち着けば元に戻ると信じたい」
ディアは子供を一人で育て、国境を越えてここまでやってきた。城でも必要とされている人材だ。辞めさせて従来のポート人の夫婦の様な暮らしをするのは現実的じゃない。譲歩するならクザートなのだが、それが出来ないからクザートは苦しんでいるのだ。
ディアが働く事で、クザートがそれに不満を募らせていくのであれば、一緒に居る意味がないのだ。
「後、ディアの事だが、この国に来て日が浅い。暮らしが大きく変化しているから、落ち着いて周囲を見られるまでそっとしておくべきだろう。お前も少し距離を置け」
「でも……」
「今何か言っても、お互いに傷つくだけだ。仕事は以前通り一緒にやるにしても、あちらから何か聞かれるまで、そっとしておけ」
俺達が何か言うのは控えるべきだろう。一緒に居るところさえ見たくない程になっているのだから、その気持ちを優先させておく方がいい。
「寂しいのか?」
はっとしてローズは俺を見た。
「俺は、お前が泣かない為に手を尽くしたつもりだが、ここから先は俺が口を挟んで何とかするのは、さすがに難しい」
ローズは俺に抱き付いた。
「ごめんなさい」
「何を、謝っている?」
「ジルが頑張ってくれているのに、私、お礼も言いませんでした。カルロス様の事も私の為だったのでしょう?ミハイル様の事も結局、あなたに辛い思いをさせるだけなのに、任せてしまいました。私ばかり弱音を吐いて……ごめんなさい」
「構わない。俺はお前に頼られたい」
大き過ぎる異能、頑丈な体。そんな物いらなかったが、今はあってよかったと思っている。
「出国制限の付いた異国の侍女は、館に閉じ込めなくても何処にも行けない。俺や兄上が王家に匹敵する古い家系で、騎士としても強い事は分かり切っている。誰も手出しなどしないのに、閉じ込めたいと言うのは、兄上の願望だ」
「願望……」
一瞬、ローズがブルっと身震いする。
「兄上が変態だからではないぞ!ポートでは男から女への一番の愛情表現だ」
「何度聞いても、重たいです」
「パルネア人から見ればそうだろうな。しかしポートでは裕福な家程、女に仕事を与えない。だから女は子供を産む事と夫に大事にされる事でしか、存在価値を測れない。それを満たすのが夫の大事な役目だ」
きっとそんな関係はおかしいと思っているのだろうが、ここではそうなのだと釘を刺す。
「母さん達は、早くに夫を亡くして苦労しているから、お前とディアの価値観に付き合えるが、働かずに嫁に行った者からすれば、お前やディアの在り方は認められない。それが現実だ。そしてそれが大多数だ。だから兄上を変態とか犯罪者みたいな目で見るなよ」
「分かりました……」
渋々で納得している気がしない。
ここで話を変える。言わねばならないと思っていた重要案件が残っているのだ。
「とにかく、困った時には俺が居る。何度言っても頼らない意地っ張りは、どうしてくれようか」
「え?」
抱き付いたまま、目を丸くしているローズをがっちりと逃げられない様に固定して言った。
「昨日の夜、隣の部屋で寝ているから連れて来ようとしたら、アネイラと言って抱き着かれた」
ローズの顔がみるみる赤くなっていく。
「ルミカの話では、アネイラ・リルハイムは、かなり小柄な女だと聞いているが、俺と共通点でもあるのか?」
「ない。ないです!寝ていた時の事ですから、不可抗力です」
顔をランプの明かりで見たら、目元が赤かった。明らかに会えない友人に思いを馳せて泣いていた訳で……俺は夫として情けないし許せない気分になる訳で。
「俺は館に閉じ込めたりはしないが、心はさほど広くない。それは結婚する時にも言っておいた筈だ」
「だから、寝ている時で覚えていません!」
「俺はお前が憂いなくここで暮らす為に、武器庫を破壊してまで、兄上とディアの仲を取り持ったのだ。それなのにまとまるどころか、ローズに負担をかけ、傷つける事態になっている。……俺としては、ディアにも兄上にも、優しく出来る要素がかなり減っている。もう俺がカルロス様の面倒を見るし、下層も仕切るから、城に二度と来るなと言いたい」
「ジル、落ち着いて下さい」
「そこまで思う程に大事にしている妻は、他の者達ばかり庇って、俺を誤魔化そうと想像を絶する捨て身攻撃をしてくる」
「ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません、もうしません!」
俺の胸に頭をグリグリ押し当てて、必死に謝っているローズに、俺はため息交じりに言った。
「お前にプロポーズさせてしまったから、キスは、俺からしたいと思っていたのだ。それなのにいきなり……無念過ぎる」
ぽかんとした顔で、見上げて来るローズに俺は続けた。
「俺の過去にあった事を知っているから、いきなりあんなおかしな条件で結婚したいと言い出したのだろう?もうバレたぞ」
半眼で告げると、ローズは、気まずそうに視線を逸らす。
「お前が言い出してくれなければ、俺は意地を張り続けていたから、感謝こそすれ、恨むつもりは無い。……俺が言いたいのは、俺は意地を張るのをやめてお前に依存しているのに、お前だけ意地を張っているのが許せないと言う事だ」
「私だって……」
「いいや、俺が居なくてもお前は平気で生きていく。侍女だって事とセレニー様の事で頭を一杯にして、俺を忘れるのだ。本当に実行できるかは別にして、そうなれるようにいつも準備をしている」
嫌われているとは思っていない。そんな予防線を張らないと、不安になる程好かれていると考えるとちょっと嬉しい。しかしずっとそのままでは楽しくないのだ。
「だって……今も目の前でディア様とクザートが……好きなのにお別れしちゃうかも知れなくて。私、ジルが居なくなって生きていけなくなるとか、怖いんです。考えたくないんです」
「考えなくていい。俺はずっと一緒に居る。頑丈だから、あまり病気をした記憶がない。殺すのもかなり難しいぞ?」
「体ではなく心の問題です!綺麗な女の子に好きとか言われたら、グラっと来るでしょう?私は綺麗じゃないです。可愛くもありません」
「ローズは俺の中では、一番綺麗で可愛い女だが」
ローズの顔色が、一気に真っ赤になった。
「何か……変な物でも食べましたか?」
「食べていない。そもそも俺が夜這いと称した女の襲撃で、どれだけ酷い目に遭ったと思っているのだ。見てくれだけで、人を好きになる感性は持ち合わせていない」
言わないと分からないのか……そうか。ならば言うべきだろう。
「お前は見た目も心も、凄く綺麗で可愛いと俺は思っている。芯の強い所も、凄く好みだ。初めて会った時からずっとそう思っている。だから、他の女はいらない」
もうこれ以上赤くならないと思っていたのに、更に赤くなった。
「言われた事、無いのか?」
「私、モテなかったので」
こんないい女に、誰も目を付けなかったのか?俺は嬉しくなって言った。
「パルネア人は見る目が無いのだな。お陰で俺のものだ」
前世で、十年以上連れ添った親が心変わりして離れた記憶が、ローズを臆病にさせている。
俺ばかり甘やかして離れない様にしておきながら、自分が甘えるとなると躊躇する事を繰り返すのはそのせいだ。
だからと言って、納得するまでただ一緒に居るだけでは芸がない。せっかくの時間だ。証明ついでに楽しく過ごした方が良いに決まっている。
「なぁ……ローズ。王制は俺達の代では終わらない」
「そうみたいですね」
「セレニー様は王妃だ。クルルス様も王のままだ。王制が終わるのはカルロス様の代だ。もしかしたら、もっとかかるかも知れない」
ローズは、意味が分からないと言う顔をしている。
「俺達はずっと騎士と侍女だ。一緒の場所で働ける限り働き、共に暮らす。こんなに一緒に居るのに、俺の心変わりが心配なのか?そうなったら、俺を館に閉じ込めるしかなくなるぞ?」
「はう!」
変態だと思っていた心理と同類扱いされて、ローズが凄いダメージを食らっている。
「兄上は変態じゃない。分かったな?」
「はい……」
プルプルしているローズをちょっと笑ってから、俺は続けた。
「先なんて、誰にも分からない。怖い事を考えだしたらキリがない。今を大事にしたいのだ。俺は」
「ジル、凄く吹っ切れていますね……」
「お前に隠したかった事が全部バレているらしいから、最初は凄く腹が立ったのだが、今更取り繕っても仕方ない。開き直る事にした」
ローズは驚いた後、大きく息を吐いた。安心した様だ。
話した奴らが誰かは知らないが、無罪放免とでも思っているのだろう。……そうはいかない。
喋った奴らにどう落とし前を付けさせるかはまだ決めていない。何処まで何を話したのかも確認しなくてはならない。そこはローズには関係無いから言わないが、そのお節介の分、俺もきっちりと何かを返さねばと思っている。そう。お礼は必要だ。
「とにかく、アネイラ・リルハイムを思って泣くなら、俺に縋れ。分かったか」
「ちょっとくらい、いいじゃない」
「何か言ったか?」
「いえ、何も!」
「分かったら支度をして来い。今日も忙しくなる。お前の助けが必要だ」
ばっと顔を上げたローズは、侍女モードが入っている。
「ミハイルの事もハリードの事も話しておきたい。食事をしながらでいいか?やる事が多い、早く出仕せねば」
「分かりました!」
ローズは、ベッドを飛び降りると、大急ぎで着替えに行った。
ローズは、必要とされたい女だ。じっとしていられない質でもある。
暇にさせると、前世の記憶頼みで何をするか分からない。いっそ俺と一緒に行動する様に付き合わせる方が良いのだ。
城に出仕している間、同じ城に居ると言う事は、仕事の事を考えていると言う事だ。侍女は激務だ。監禁するよりずっといいのに、クザートは何故それに気づかないのだろう。
とにかくクザートの穴は、もう暫く休んでもいいように埋めなくてはならない。俺は帰ってくると信じて、自分の仕事をするだけだ。
「ジル、朝ご飯は簡単なものでいいですよね?ちょっと早いので、厨房の方に行って適当に見繕ってきます」
早っ!
「分かった」
俺も慌てて着替える事にした。